生い立ち

交通事故が“正義感”を育て、“社会貢献”を考え続ける原点に

幼少期から様々なスポーツに取り組んだ
幼少期から様々な
スポーツに取り組んだ

5歳の時、幼稚園の帰りに車にはねられる交通事故に遭い、誰もが即死と思った大怪我を負った。奇跡的に命は取り留めることが出来たが、医者には二度と歩くことは出来ないだろうと言われた。
母親は、「一度は無くした命なのだから、これからは世の中のため、人のために生きなさい」と私に言い続けた。
だが、一方、私にとっての小学校6年間は、ほぼ毎日が歩くことに対する挑戦の日々だった。 人格形成の基礎である幼少期に、母親からは“社会貢献”と“正義感”を、自分自身では“不可能に対する挑戦”という強い信念が刷り込まれたといえる。
実際、中学生時代には、歩くことから走ることへの挑戦に変わり、陸上部ではマネージャーから選手になるまでになった。

妻との運命的な出会いと結婚の決意

伊豆大島

高校2年の夏休みに男友達4人と大島へ旅行に出かけた。
当時は、カトレア号という船で島に向かうのだが、ひどい嵐のせいで、グループの中で自分だけすっかり船酔いをしてしまった。元気な友人たちは、同じ船で三宅島に向かう女子高生グループと意気投合し、おしゃべりを楽しんでいるなかで、一人だけギターを胸に抱きかかえていた。しかし、辛い吐き気をこらえている自分の背中を見て、「私、きっとこの人と結婚する!」と直感的に思ったことを、後々になって妻から聞かされた。
当時はそんなことを知る由も余裕もなく、それ以上の接点もないまま、船が着いてそれぞれ、大島と三宅島へと別れた。
大島を後にする時、どうせなら行きの船で一緒だった女子高生グループを追って三宅島まで行ってみようということになり、三宅島のお寺の境内で寝泊りしながら、彼女たちを探した。勿論、何の手がかりもないために、1週間ほど経っても見つからず、諦めて仕方なく帰ることにした。ところが、帰りの船に乗ろうとした港で、なんと彼女達のグループにばったり会い、そこからグループ交際がスタートしたのである。
これも後からわかった話だが、私の祖父母のお墓は彼女の小学校の目の前にあり、彼女の祖父母のお墓は、私の祖父母の家の近くにあって、それぞれのご先祖様の眠る土地にも遠からぬ縁があった二人だったのである。

彼女との交際は続き、検察官になりたいという想いから、大学は法学部を選んだものの、2年生までは語学と体育以外の授業には出ず、ひたすらアルバイトに励んだ。学生にしては自由になるお金もでき、結構ちゃらんぽらんな大学時代を送っていた。 それでも、一応何となく卒業ゼミぐらいは探そうと思っていた時、大学OBで、その後一橋大学の大学院を卒業し、司法試験に合格した教授による司法試験ゼミが目にとまった。
実は、大学は付属高校から進学しており、本当の志望大学への挑戦から逃げてしまったという思いを持っていた。教授の経歴を目にした時、もう自分は自分から逃げたくない、という強い気持ちが沸いてきて、これからしっかり勉強し、大学院に行って司法試験に合格するぞ!と覚悟を決めた。

司法試験を受けるから、結婚するぞ!
司法試験を受けるから、結婚するぞ!

しかし、司法試験は並大抵の勉強量・勉強時間で合格するようなものではないことも分かっていた。だが、それを理由に彼女との時間は減らしたくないし、また、自分の夢のために彼女と別れ悲しませるのはもっと卑怯だと思った。そこで、「司法試験を受けるから、結婚するぞ!」と彼女に宣言した。「これからお父さんに挨拶に行く!」と急に言い出した自分に困惑している彼女を急かして、そのまま実家へ案内してもらった。
突然の学生結婚の申し入れに、当然、彼女の父親は激怒し、最初は門前払い同様の状況だった。しかし、彼女の父親が次々と質問してくる心配事にひとつずつ答え、夢を諦めたくないこと、同時に彼女と別れるという無責任で卑怯なこともしたくないことを数時間かけて訴え続けた。
最終的には、「2年間で司法試験に合格しなければ、サラリーマンになる」という条件で、彼女の父親からは、その日に結婚を許してもらえることになった。
将来は検察官か警察官になりたいと思っていたが、彼女の父親からは、「もしサラリーマンになるとしても、警察官だけは駄目だ」と言われた。その理由を尋ねると、「正義感の強いお前は、真っ先に殉職してしまうから」だった。その時から、彼女の父親は、一番自分のことを理解してくれていたのである。その後も、彼女の父親は、実の息子以上に私を可愛がってくれ、今でも自分の一番の理解者は義父だったと思っている。

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