生い立ち

父親のリベラルな教育方針が、“多様性”を受け入れる原点に

小学校はカトリック系の私学

両親の影響は非常に大きいと思っている。 特に、父は、呼吸器を専門とした臨床研究医として、複数の大学病院で研究を行いながら、最終的には医局長まで勤めた人間である。
私の生まれは関西だが、父が「関西弁に漬かった生活だけでは、色々バランスが悪くなる」という考えから、小学校はカトリック系の私学へ入学することになった。

この小学校は、当時には珍しく、1学年2クラス、しかも1クラス10名~15名という少数教育を行っており、また先生もイタリア人神父やカナダ人シスターが普通にいるといった環境だった。
同級生は芸能系やスポーツ系、中小企業のオーナーの子息や、開業医の息子など、裕福な家庭の子供が多かった。父は開業医ではなかったために、おそらく学費に関しては苦労してくれたのだと思う。
小学生時代にこのような環境に身を置いたことから、外国人に対する違和感はなく、週3時間から4時間の英語の授業があったために、外国人が話す英語に対するバリアというもの感じなかった。

中学・高校は、小学校の系列で東大・京大・医学部などを輩出する進学校に進んだ。
ところが、進学してすぐに、「小学校から高校まで私学の環境ばかり漬かっていると、世の中の本当の姿が見えなくなる。」という父の考えから、大阪市内に公立中学に転校することになったのである。
父の言い分はもっともだと思い、転校そのものに反発はしなかった。
だが、私学にはいない様々な家庭環境から集まってくる友達には、正直ショックを受けた。
同時に、「なるほど私学だけでは世界全体は見えてこない」と実感させられた。

高校は医学進学系コース

2年間ほどで、また私学に戻ることになった。
医者の一人息子ということから、周囲も自分も当然医学部を目指すものとの考え、高校は医学進学系コースを選んだが、実は理系教科の数学・物理が苦手で、むしろ文系教科の方が得意であったため、私が友人の倫理の宗教ノートなどを作成してあげる代わりに、数学・物理を教えてもらっていた。
そんな状況で、大学入試は国立1期校・2期校とも不合格、それでもなんとか私立医大に合格した。
自分としては、それでも倍率40倍の競争率を乗り越えて合格したのだから、これでなんとか医者になれると安堵していた。
しかし、父は「医者になるなら一流大学へ行け、そうでないなら頭を冷やして別の道を考えろ」と私立医大進学に強く反対した。
父は、もともと文系志向で京大法学部を目指していたが、親のたっての願いで理系に転向し、第七高校を中退、そこから勉強しなおして私立医大を経て、大阪大学で医学博士号を取得した。
父が私立医大進学を強く反対したのは、象牙の塔の中、他学出身者で研究医にまでなった苦労の人であり、医者の世界の実情をよく知っていたからだと思う。
父は、結局最後まで私立医大入学に首を縦に振らず、自分としてもよくよく考えた結果、関東の予備校でしっかり勉強し、再度医学部を目指すことにしたのである。

東京でのエド・マーロウの伝記との出会いが、“ギア・チェンジ”のきっかけ

東京の下宿は、六本木の榎坂
エド・マーロウの伝記

東京の下宿は、六本木の榎坂という遊ぶには絶好な場所にあったため、高額な寄付金によって親がかりで東京の私立医大に入学した友人達が、夕方になると入れ替わり立ち替わり誘いに来た。
親元から離れた誘惑的な環境で、年頃でもあり、医大生と一緒にいるとモテるということもあって、あまり勉強もせずに青春を謳歌していた。
それでも、これではいけないという気持ちがどこかにあったが、やはり興味の向かない理数系の勉強は相変わらず頭に入らなかった。

当時、予備校への通学路にあった赤坂のTBS会館には、週末、深夜放送の公開収録のために、若者が行列しているのをよく見かけた。
最初は興味がなかったが、放送局やテレビ局の大変な人気に驚き、マスコミ関係の本がたくさん置いてある金松堂書店でいくつかの本を手にとるうち、エド・マーロウの伝記に出会った。
エド・マーロウとは、テレビジャーナリズムによってマッカーシズムを打破したり、人種差別を撤廃の方向に持っていったり、ロンドンからナチスの空襲下にリポートを送ったりしたことで有名なアメリカのジャーナリストである。
彼の伝記を読んで、「自分は絶対これになりたい!放送ジャーナリストになりたい!」と強く思った。

そこで、父に、自分は理系に向いていないこと、放送ジャーナリストになるための勉強をしたいことを話すと、当然最初は反対されたが、本気であることを伝えると「アメリカのきちんとした大学から入学許可証がとれるのならやってみろ」ということになった。
自分としては、今回は何をしてでも条件をクリアしたかったため、アメリカ大使館併設のアメリカ文化センターで留学のアドバイスを受け、参考書ももらい、必死で勉強し、さらにアメリカンスクールにも通った。

ワシントン州立大学から入学許可証

統一一次試験もTOEFLも受けて、結果をアメリカの大学に送ったところ、エド・マーロウの母校であるワシントン州立大学から入学許可証が送られてきた。
父はその努力の成果を認めてくれ、海外留学をさせてくれた。
今想うと、当時1ドル360円時代の高い学費を捻出するために、一番やりたくなっかったであろう製薬会社のための論文を書いたり、行きたくない病院の当直をしたりして費用を捻出してくれたのではないかと思う。
自分としても浪人した時間を取り戻したいという気持ちもあり、好きな放送ジャーナリズムを必死で勉強し、本来4年で卒業するところを3年弱で卒業することが出来た。

卒業直後の就職での失敗が、“開拓者”となるさらなるエネルギーに

卒業直後の就職での失敗

日本で就職するために帰国したが、当時は海外大学卒業者に採用の門戸は開かれておらず、コネが必要だといわれた。
さらに、オイルショックの影響で日本は不景気の真っ只中にあり、新卒の採用数は絞られて非常に厳しい状況にあった。
父が根回ししてくれ、元大臣の先生に色々とテレビ局なども紹介してもらったが、そもそもコネ入社が多いテレビ業界で、採用数も絞られている上、海外の大学卒業生を採用するという先例はないと言われ、いよいよ無理かという状況だった。
しかし、唯一、某キー局だけは、トロイカ体制のユニークな経営者が揃って「面白い奴だ、俺達のところへ来い」という話になった。
しかし、人事からのオファーは、近く外人向けにケーブルテレビ事業を始めるので、アメリカでの知識があるなら好都合だから、とりあえず嘱託で入れば、来春には正社員にしてやるというものだった。

当時のアメリカの常識では、メディアを専攻した学生の就職先の最上位はテレビ局・ラジオ局、その次が広告代理店、その次がPR会社という序列で、ケーブルテレビは最下位層に位置していた。
なぜなら、ケーブルテレビは、コンテンツ自主放送なしの再送信サービスのみだったためである。
自分としては、アメリカでジャーナリズムを一生懸命学び、せっかく大学まで卒業したのに、なぜ東京の外国人相手にケーブルを売らなければならないんだという思いで、全く面白くないと考えていた。
父からは、「日本の企業では、経験を積んで能力を認められてから、報道でも何でも異動を希望すればいいではないか。贅沢を言うな。」と言われたが、やはり自分としてはどうしても納得できなかった。

そこで、アメリカに戻って勉強し、世間に認められる資格を取って、もう1度チャレンジしたいと考えた。
今度は父に学費の面倒を見てもらう訳にはいかないので、奨学金をとることも自分から申し出た。
父は「どうせ資格をとるなら、弁護士でも博士号でも最高位の資格をとってこい」と送り出してくれた。
短期間、母校の大学院に在籍したあと、ウイスコンシン大学の法科大学院に奨学金を得て進んだ。

そこまでは順調だったが、当時のアメリカでは、帰化するか永住権を取得しなければ法曹資格試験は受けられず、再び壁にぶつかってしまった。
指導教授に相談したところ、「それなら、君は国際法廷の弁護士になるべきだ」との指針を示してくれ、さらに「君は少し山っ気があるからビジネスの勉強もした方がいい」と、MBAとロースクール、そして専門領域のテレコミュニケーションの良いところ取りで博士号がとれるカリキュラムを組んでくれた。
また、奨学金はもらっていたものの、父は引き続き学費の心配をしてくれ、それを元手に先生から勧められたヨーロッパでのインターンに3年連続で参加した。
先生方の配慮で、現地の放送局に受け入れてもらえ、当時、アカデミズムの世界で議論が盛んだった「国際情報流通論」なども、報道の第一線の現場で検証することが出来た。

母校のワシントン州立大学

博士課程が修了する頃、幸運なことに母校のワシントン州立大学に助教授の欠員が出来、戻ってこないかとの誘いがあり、そのまま助教授に着任することになった。
アメリカの大学ヒエラルキーは大変厳しく、出身校のレイヤーより高い大学の教授にはなれず、また同じレイヤーの大学の教授になるためには、それより低いレイヤーの大学で数年の修行を積むというのが通常のキャリアであった。
そのような中、最初から母校の助教授に就任できたというのは、本当にラッキーなことだと言える。

その後は、1980年に日本で“ニューメディアブーム”が起こり、当時の電電公社をはじめテレビ局など通信・メディア業界で新しい取り組みが始まった。
そこで、唯一その分野で日本人として精通していた私に、色々なところから次々とお声がかかって来たわけである。
それからは求められるままに仕事を引き受けているうちに、気がついたら今の自分がいたと言える。

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