生い立ち

誰にでも微笑みかける人見知りしない赤ちゃん

京都の清水

私は1939年、京都の清水で生まれた。その辺りは景観保護の関係で、私が生まれたころの建物、景観がそのまま残っている地域である。
二人兄弟の兄、長男として生まれ、今は両親も弟も鬼籍に入ってしまったために、自分が幼い頃はこんな子供だったよと聞かされていたエピソードもほとんど覚えていない。
ところが1つだけ気に入って覚えているエピソードがある。
まだ、物心つかない本当に赤ん坊のころ、母は、家の前に私を乗せた乳母車を置き、家の中で家事をしていた。
そこへ物乞いのお婆さんが通りがかり、乳母車に近づいて赤ん坊の私をあやしたらしい。
人の気配に気づいた母が表に出てみると、物乞いのお婆さんが泣いており、どうしたのか尋ねると、「普通の人なら自分は眉をしかめられる存在だが、この子は私を見て屈託なく笑ってくれた」というのである。それが嬉しくて泣いていたという。

人見知りしない赤ちゃん

とにかく人見知りをしない、人をすぐに信じ込む、私にはそういうところが大いにある。
逆に言えば、その軽率さで人に騙されたり、いやな思いをしたことも多々ある。しかし、私自身、赤ん坊のときのこの出来事は、私の本質を象徴するエピソードではないかと思って気に入っている。

小学校時代 ~兵隊帰りの担任から受けた、早くも「中間管理職」としての洗礼

母は、大変教育熱心な人だった。
母の実家は呉服屋を営む大きな商家だったが、祖父の代から少し傾き気味になり、また、夫である私の父は大変地味で堅実なタイプだった。母は、再びかつての隆盛を夢見て、長男であった私に良い学校に入って出世して欲しいという期待をしたのだと思う。

読書

そのせいもあるのか、運動よりも家の中で本を読んでいたり、戸外でも動植物や昆虫の観察が好きだったりした。
結果として、よその子より勉強ができ、物知りだったという単純な価値観から、小学校は、ずっと級長を務めることになった。
小学生の級長に、リーダーシップや人心掌握術など求められるはずもない。
小学校2年か3年のとき、担任が変わることになり、兵隊帰りの若い先生が着任してきた。
軍隊規律の匂いをぷんぷんさせながらも、大変教育熱心な先生で、新しい教育にも積極的に取り組もうとされているところもあった。
小学校時代は、かなりこの先生の薫陶を受けたと思う。

兵隊帰りの若い先生

クラスで何かあると、悪戯をしたのが別の級友であっても、先生は「それは級長であるお前の責任だ!」と言って私をビンタするのである。
先生には自分のしたこと以外でぶたれる不条理さを訴えたが、先生は二言目には「お前はみんなに投票で選ばれたんだろう」と言った。

今思えば、10歳になるかならないかの頃から、この先生のお蔭で、既に中間管理職としての英才教育を受け、またその悲哀も感じていたといえる。
むしろ社会人であれば、責任と同時に、地位やそれに伴う権限・報酬が与えらるが、級長はバッジが与えられるのみで責任だけ取らされるという何もない立場だった。
この先生のお蔭で、インセンティブがない中でも、リーダーとして人についてきてもらうためにはどうしたら良いのかといことを小学生の時から考える経験をすることになったと思っている。

中学・高校時代 ~新設校一期生として、京都大学合格が最大のミッション

当時の京都市は徹底した学区制となっており、小学校から上がれる公立の中学校は各地区毎に決められていた。
その中学があまり気に入らなかった母は、私に私学に行くことを勧め、なぜかカトリック系の新設校、洛星中学の入学願書を取り寄せた。
母には、京都という古い町で、カトリック系・英語ということが何か新しい・格好の良いイメージに思えたのかもしれない。

カトリック系の新設校、洛星中学

これが入学してみると、1クラス33名、1学年は3クラスで全99名、先生方も大変若くて教育熱心な良い先生ばかりという恵まれた環境であった。
新設校であったっために上級生はおらず、次年度から下級生を迎えると、上級生と下級生がマンツーマンでお昼(お弁当)を食べるなど、丁寧に下級生の面倒をみることが上級生の役割になった。
小学校に引き続き、これはまさに企業における課長教育に近いものだったと思う。
洛星は、中・高一貫で、高校卒業までこの環境が続いた。
私学新設校であれば、学校の永続と教育の質の向上のために、生徒集めが重要である。
つまり受験生が集まる有名進学校にするためには、一期生である私たちの実績が、今後の学校のブランドを決めることになる。
京都の人間からみた進学校の指標は、京都大学に現役で何人合格するかが唯一と言っても良い。
そこで、高校3年までのカリキュラムは高校2年までに終わらせ、3年生の1年間はずっと大学受験の模擬試験を受けるという体制になっていた。
また進学校としてのブランドづくりのために、京都大学でも理系なら工学部、文系なら法学部と学部まで必然的に決められていた。

とにかく中・高の6年間は、先生も生徒も全校が一丸となって何が何でも京都大学合格が全てであった。
また、私の家庭の資力から言っても、両親もとにかく京都大学に現役で入学して欲しいという思いでいたに違いない。
受験シーズンが終わってふたを開けてみれば、1学年(約90名)中7名が京都大学へ現役合格し、私もそのうちの1名に入った。
模擬試験では、京大当落ギリギリラインを行ったり来たりしていた私だが、本番の試験では得意な問題が出たのはツキがあったとしか言えない。
洛星の京都大学7名合格は、当時の京都市民にとって驚天動地の結果であったと思う。
洛星の生徒は、カトリックの方針に則って、ストイックで礼儀正しい行動を求められた。
一方、当時の京都市は市政の影響もあって、学生はどちらかと言えば自由奔放なタイプが多かった。しかし、”学生の町”を自負する京都市民としては、それをあまり好ましく思っていないのが事実であった。
その中にあって、新設校、洛星のスタイリッシュな制服やお行儀の良さは市民に好印象をもって受け入れられており、反面、実際の学力の方はどの程度かという興味もあったはずである。
私たちの次の年には、京都大学の合格者は浪人も含めて20数名に増えている。

大学時代 ~受験から解放され「山」ひとすじの身体づくり

京都大学

京都大学は、当時、山岳部のヒマラヤ遠征などの海外遠征が大きく取り上げてられており、「海外に行けるなら山だ!!」という短絡的な発想で山岳部に入部することにした。
受験で”青びょうたん”になっている学生の基礎体力・身体づくりのために、当時の体育会・運動部は共通してとにかく走らせた。毎日最低10キロ、それも物凄いスピードで走らされた。
ヒマさえあれば走っていたと言っても良い。それとは別に、年に100日間山に行くのが山岳部の義務量となっていた。
単純計算なら3日に1度の計算だが、当然学校があるので、実際は長期休暇と日曜日全て山行きといった状況で、大学4年の間、お正月を実家で迎えたことはなかった。

山岳部

山は卒業後もOBとして参加していたため、結局10年くらい実家でお正月を迎えたことはなかったのではないかと思う。
この山岳部での鍛錬が、今に至るまで頑強な身体づくりになったと確信している。
身体の骨格自体が変わる訳ではないが、少々のことではへばらない基礎体力をつけることが出来た。
実際、蝶理の再建で社長になった時には63歳という年齢だったが、朝、私が会社の鍵を開け、土日も含めて1年間1日も休まずに仕事をしていた。
そんな歳になってもタフな生活が出来たのは、やはり若いときの身体づくりのお蔭であったと思う。

就職 ~先見の明があった先生のアドバイスを断って”満月”の東レへ

就職人気No.1の東レ

当時は岩戸景気といわれ、三白といわれる砂糖・セメント・製紙や、最先端技術と設備投資により石油化学などを中心としたメーカー全盛の時代だった。
今とは違い厳しい就職試験も存在していなかったため、就職活動の際、ゼミの先生には、当時、就職人気No.1の東レに推薦状を書いていただけるようお願いした。いくら就職試験が甘かったとは言え、先生は私の成績では、東レは無理だと思われたのかもしれない。
先生は「こういう会社に入るとシンドイぞ。こういう会社は、一番が好きなやつばかり入ってくるから、足の引っ張り合いになる。」とおっしゃり、「東レをはじめ、今の製造業は”満月”の状態だ。だからこれから後は欠けていくしかない。君は、銀行とか証券に行ってみてはどうか。」と薦めて下さった。
しかし、経済における金融の意味も良く理解していなかったその時の私は、せっかくの先生の薦めを断り、子供の頃から動植物に興味を持っていたことも関係したのか、東レを含めて好きだったケミカルメーカーの大手3社を受けることにした。

結局3社とも合格し、最終的には一番お給料が高かった東レに行くことに決めたのだが、その後の日本の経済の状況を振り返れば、ゼミの先生は、大変に先見の明がおありになったのだと言える。

私が大学に受かったのも、東レに入社したのもツキがあった部分は大きいと思っている。
そして高度成長期のメーカーに入って良い思いもし、社長にまでなったと思われる人もいるかもしれない。
しかし、子供のころは食べる物にも困る時代であり、社会人になってからも、本に書いたように何度も逆境に立たされることもあった。
生まれた時代(=世代)によってツキ・不ツキはあるかもしれないが、長い目でみればそれも関係ない。人間の人生トータルの帳尻に、そんなに差はないのではないかと思っている。

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