生い立ち

学者肌の父親と商売人の娘である母から受けたビジネスの洗礼

大阪帝国大学(現 大阪大学)大学院で応用化学を学んだ父

もともと山本家の商売のスタートは、石川県の廻船問屋からである。それから曽祖父が大阪の東成に移って始めたのが、ボタンの製造だった。これは祖父に引き継がれ、父が祖父の会社に入るまで続く。

大阪帝国大学(現 大阪大学)大学院で応用化学を学んだ父は、何か「新しいこと」、大好きなニューマテリアルをやらせてもらうことを条件に祖父の会社に入った。
そこで父は、消しゴム付き鉛筆や芯材にゴムを使用したゴルフのツーピース・ボールを開発した。
これが結構ヒットし、儲かったお金でドイツから独立気泡の機械を買った。
父はバリバリの理系、学者肌で、マーケットニーズに対して設備投資をするという発想ではなく、元手があるので面白そうな機械を買ってみたというところだったと思う。

せっかく良い機械を買ったのだから、何か役に立つものはできないかと考え、父が発案したのが「水の上を歩けるサンダル」だった。
当時まだ2歳だった僕は、会社のお風呂に連れて行かれ、水を張ったその上をサンダルを履いて歩いてみろと言われた。
もちろん歩けるはずもない。すぐにひっくり返ってしまった。
当時の従業員も、だいぶ、この水上歩行実験の被害に合っていたらしい。
幼な心にものすごく怖かったこととともに、これが初めてビジネスに携わった経験として記憶に残っている。

母の実家は、奈良で初めて模造真珠を作り、海外に輸出をしているメーカー

母の実家は、奈良で初めて模造真珠を作り、海外に輸出をしているメーカーだった。
僕の上には8歳離れた姉がいたが、商売人の娘であった母は、跡継ぎは男という意識が強かった。
「新しいもの好き」の父からはビジネスの経験を、「あなたが跡継ぎよ」という母からは将来の経営者としての意識を刷り込まれて育った。

幼稚園・小学校時代 ~天真爛漫「飽きっぽく」「いたずら好き」

歳の離れた姉のため、男の子で末っ子だった僕は過保護に育てられた面もある。
ピアノ・習字・そろばんなど一通りの習い事にも行かされたが、すべて1回しか行かず2回目がなかった。そのせいで、自分から剣道に通いたいと言ってみた時には、どうせ続かないからと通わせてもらえなかった。

お箸を持って毛虫取り

幼稚園の時には、奈良のあやめ池公園にお箸を持って毛虫取りに行き、それを先生の背中に入れるいたずらをして、親が呼び出されたことがある。
幼稚園児が若い女性の先生を泣かせて、親が呼び出されるなどというのは、後にも先にもないと呆れられたくらいである。

習い事が続かないのは、父の「新しいもの好き」が僕にも受け継がれたといえるが、裏を返せば「飽き性」としてそれが発揮され、比較的、放任主義で自由な教育によっていたずら好きでやんちゃな子供として伸び伸びと育てられた。
何とか続いていたのは、小学校の時に始めた少年野球だった。
小学校6年生の最後の試合までは、1回も勝てなかったけれど。

中学校時代 ~「自転車」にとことんハマる

「自転車」にとことんハマる

少年野球をやっていたことから中学は野球部に入部した。
しかしこれも2年生までで、次に興味を持ったのは自転車だった。
それも乗るだけではなく、スポークから買ってきて自分で作るほど大好きになった。
中学3年生の時、友人たちと琵琶湖1周ツーリング行こうという話になり、その中の全国で空手日本一になったガタイのいい友達ですら旅行から戻ってから3日間は学校を休むほど、結構ハードなツーリングも経験した。
実家の奈良から大阪の桃谷にある自転車ショップまで出かけて行っては、中学生でも買える安いパーツを買ってきて、自転車を作ったり、直したりすることに夢中だった。
ところがとにかく勉強は大嫌い。学者肌で勉強が大好きな父からは、「いったい”勉強が嫌い”ということが理解できん」と言われていた。

高校時代 ~世界を広げた「少林寺拳法」との出会い

少林寺拳法の練習をする若い頃の山本社長
少林寺拳法の練習をする若い頃の山本社長

高校進学で大阪に出ることになった。
限られた地域で比較的同質な友達との付き合いだった小中学校から変わって、高校は色々なところから様々な生徒が集まってきていた。
なかにはあまりガラの良くないタイプもいたりして、当時の”ブルース・リー”ブームに乗って護身も含めて少林寺拳法を習い始めることにした。

この頃になれば自分の飽きっぽい性格も良くわかっていたので、最初は「取りあえず3ヶ月やって茶帯を取れたら辞めよう」というくらいの軽い気持ちだった。
ところが、まだ少林寺拳法人口は少なく、1ヶ月か2ヶ月で後輩が入ってきたら指導をしなければればならない立場になって、辞めるに辞められない状況になってしまった。
自分のことだけならいいが、自分がサボったり辞めたりすれば後輩に迷惑がかかる。
また、少林寺拳法としても積極的に有段者を増やしていた時代なので、次々と技も教えてくれ、あっという間に10ヶ月くらいで初段になってしまった。

有段者になると、今度は毎年、香川県の多度津の本部で行われる指導者講習会に参加することになる。
参加者は、8月お盆の暑い時期、クーラーもない宿舎で雑魚寝するのだが、スペースは自分の肩幅しかない。暑い中、隣の人とぴったりとくっつき合って寝るのだ。
小中学校の修学旅行でも大部屋での雑魚寝は経験したが、これほど酷い環境ではなかったと思う。
また、宿舎から本部の道場までは、片道40分を裸足で歩いて通う。
練習が終わると、また40分歩いて宿舎に帰る。宿舎で夕食をとった後には、また40分歩いて本部に行き、法話を聞たら、また40分歩いて帰るというパターンが続く。
道着も3日ほど経てば、洗濯しても乾く暇もなくドボドボの状態である。

当時、少林寺拳法を習っている人間には、いわゆるガラの悪いはみ出し者も多かった。
こんな過酷な環境で、各地から色々な人が集まってきている状況は生まれて初めての経験であり、これまでとは違う世界を見る経験だった。

少林寺拳法の創始者 宗道臣先生と
少林寺拳法の創始者 宗道臣先生と

同時に少林寺拳法の創始者、宗道臣先生の「人間の能力は皆必ずしも生まれながらに平等であるとは言えないが、努力しただけ成長できるということは平等である」という教えと合わせて、多感な時期に貴重な経験になったと思っている。

結局、日曜日の武道専門学校には16年も通った。
大学の体育会のような組織と雰囲気の中で、タテ社会のルールも学んだ。
武道専門学校での練習が終わると、決まって阪神百貨店のビアホールにつれて行かれ、大ジョッキのビールを強要されたことも、その時間帯は少林寺拳法の有段者集団に絡まれることを恐れて十三エリア(大阪の歓楽街)から客引きがきれいに姿を消すという噂も、勉強だけでは得ることのできない世界を広げる経験だった。

高校3年になると大学受験のために少林寺を辞める仲間も多かったが、父は「勉強嫌いが理解できない」と言う割には、幸い放任だった。
ところが、たまたま中学時代の友達からみんな図書館で勉強していることを聞き、試しに図書館の自習室という所へ行ってみた。
なるほど、みんなここで本を読んだり、勉強をしたりしている。
何よりもテレビの誘惑に弱った僕にとって、自習室は勉強するのにうってつけの環境だった。
そこで、学校が終わると4時から閉館の8時まで、休日は、朝から閉館まで、受験勉強中は1日も休まず毎日通った。
少林寺の練習のある日は少し早めに図書館を出て、そちらとも両立した。
疲れきって家には帰って寝るだけである。
その結果、少林寺仲間で大学に現役合格したのは僕だけで、少林寺を辞めたやつは逆に不合格となってしまった。
時間があり余り過ぎるのも、かえって良くないのかもしれない。

大学時代 ~知恵を使ってアルバイトに明け暮れる

父親からは、大学進学のことを「”レジャー産業”に行く」と言われた。
文系を選んだ僕は、理系の父から見れば遊びに行くように見えたのだと思う。
そう言いながらも放任主義の父は、僕に自由を楽しむことを許してくれた。

大学入学後はすぐに少林寺拳法部からの勧誘があり、無理やり部室に連れていかれた。
ところが、当時僕は既に三段になっていて、上回生の三年生がまだ二段だから結局入部は断られてしまった。
そっちから無理やり誘っておいて何なんだと思ったが、武道の世界は資格の上下が立場の上下であり、回生の上下が立場の上下である体育会の組織が混乱するということで仕方がなかった。

アルバイト代は近鉄の株を買うことにつぎ込んだ

学問の方はといえば大学2回生までにほとんど単位を取ってしまい、アルバイト漬けの毎日だった。
県議会議員の運転手、小学校新学期の書籍配り、スーパーのお惣菜の天ぷら揚げなど色々な仕事をやったが、一番長かったのは百貨店の配送だった。
後輩二人を使って、いかに効率良く回るかを考え、月に70万円も稼いでいたこともある。
稼いだアルバイト代は近鉄の株を買うことにつぎ込んだ。
株主優待でもらえる優待パスで、するっと近鉄に乗ることが憧れだったからである。
結局、優待パスがもらえるほどには株は買えなったが、その時のアルバイト代はのちに家を買う際の頭金として役に立つことになった。
幼い時から自由な家庭ではあったが、特に高校の後半から大学時代は好きなことをさせてもらったと思う。

就職 ~25歳社長の誕生と人生・ビジネスの先輩たちとの出会い

当時、体育会系人材は就職では人気があり、父親の会社ではないところから色々誘いもあった。しかし、幼い頃から跡取りと言われてきたこともあって、他は断って父親の会社に入社した。
25歳の時、父が「60歳になったから引退する。お前と社長を交代するわ。」と言い出した。こちらの年齢はお構いなしである。
そういう僕も、あまり考えずに「まあ、ええか。」ぐらいで引き受けた。5月のことである。

アメリカ商務省

この僅か1ヶ月あまり後、25歳の新米社長の僕にとって大きな洗礼となるアメリカ商務省からのアンチダンピングの一件が起きる。
小ロットでの日本国内流通価格と、アメリカ輸出向けロットでの価格を比較されて17.5%というべらぼうに高い税率を提示され、7月後半から8月にかけて4回もワシントンD.C.に足を運び、仮決定後の9月にはアメリカ商務省から調査団がやってきた。
神戸ポートピアホテルまで父に借りたアメリカの大型車リンカーンで彼らを迎えに行ったところ、非常に感激され、また週末は変な下心なしに「せっかくの日本に来たのだから、奈良・京都の案内をするよ。」と言ってみたら嬉しそうに「ええの?」という話になって、これまた大変に喜ばれた。
そのお蔭で、調査団一向は態度をコロッと変えて「お前のためにできることは何でもしてやるぞ」という訳で、税率は一挙に3%に下がって決着したのである。
この時のことは、単にアンチダンピングに関する膨大な知識・経験を得ることができたということ以上に、人種を問わず人間同士の付き合いのあり方についてとても基本的で貴重な経験だった。

社会人になってからこれまで、伊藤忠商事の越後社長をはじめ日本総研の野田一夫先生など、様々な方々、成功を収めている方にご縁を得ることができた。
若輩者の僕がこんなことを申し上げるのは失礼かもしれないが、彼らに共通するのは、いい意味で徹底した”執着””執念”を持っていること。
伊藤忠商事の越後社長は、飛行機は1-A席しか座らないという。
僕にも必ず1-A席を取らなければ駄目だと言い、もし1-A席が取れなかったら出張はキャンセルしろとまで言っていた。
また芦屋の自宅から大阪本社までの道中で、「絶対他の車に抜かれたらいかん」と運転手さんに言っていたそうだ。
成功する人は変わり者と言われる人が多い。しかし、この激しいまでのこだわりが、ブレない強い信念となって結果を生み出す力になっているのだろうと思う。
これだけ見れば、成功者と言えど単なるわがままや頑固者に見えるかもしれない。
一方で、彼らはとても柔軟な感性も持っている。
僕がアドバイスしたことをすぐ試してみたり、野田一夫先生も80歳を過ぎてからゴルフを始められたと言っていた。
この柔軟さが、豊かでユニークな発想力の源泉になっているのだろうと思う。

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