生い立ち

小学校時代 ~生まれたときから巨大児 スポーツ万能のやんちゃ坊主

僕は滋賀県の信楽で生まれた。僕の身長は今、193センチあり、知り合いの中で僕より背が高いのは関取ぐらいしかいない。
そもそも生まれたときから身体は大きかった。
体格が良いのを活かして、小学校時代はとにかくやんちゃ坊主、ガキ大将だった。
スポーツも球技から陸上、水泳など分野を問わず、やれば何でも1番にできた。
水泳と陸上では、県大会で優勝し、水泳については近畿地方大会でも優勝するほどの実力があった。
父は自ら商売をしており比較的自由放任主義、また母は学校の先生だったためか、かえって家では僕にあまり勉強しろとは言わなかった。
スポーツ万能で身体も大きいとくれば、悪ガキでケンカもよくした。
ある時ケンカで相手を殴ったら、同じ小学生の友達の鼻の骨が折れて、それから彼の鼻が曲がってしまった。自分でも自分の力の強さにびっくりし、中学校に行ったら殴り合いのケンカはするまいと誓ったほどである。
小学校を卒業する時、僕の身長は176センチになっていた。

中学校時代 ~バスケットボールを楽しんだモテモテ時代

バスケットボールを楽しんだモテモテ時代

中学校になると高身長を活かして、バスケットボール部に入った。自分で選んで入部したバスケットは、楽しんで練習ができた。
身長185センチだった僕を入れて試合に出場したメンバー5人のうち3人が180センチ以上あって、全国大会3位の成績を残すこともできた。
背の高さとスポーツ万能なおかげで、小・中学校から僕はとても目立つ存在だった。
当然、女子からモテモテだったのは言うまでもない。
僕の方は知らない女の子でも、相手は僕を知っていて、今思えばまるでファンがアイドルに群がるような状態だったといっても言い過ぎではない状況だった。

高校時代 ~柔道部にスカウトされて進学した学校で苦しい練習の日々

高校進学は、恵まれた体格と身体能力を見込まれて、全国から柔道の強化選手が集まる県内の学校からスカウトされた。
自宅からは通学時間が3時間以上になってしまうため、監督の先生の家で他の生徒も含めて一緒の暮らしが始まった。
ところがバスケットボールとは違い、スカウトされたことによって半ば強制的に始めた柔道の練習は、とても厳しいものだった。

柔道部にスカウト

監督の家で暮らしていたこともあって、生活のすべてが柔道だったといっても良い。早朝から夜遅くまで授業時間以外は、練習、練習の毎日である。
練習で疲れているので、授業の内容などほとんど覚えていないし、遠征が続けば授業そのものにも出られない。
ここだけの話だが、定期テストの前日になると先生自ら「明日はこの問題が出るから」と、テスト用紙を見せてくれたことで勉強の方はなんとか乗り切っていた。
今、学校の体罰が問題になっているが、当時は監督から殴られたり、どづかれまくるのが当たり前で、何とか柔道の練習から逃れられないかということばかりを考えていた。
ただ、道場では鬼のような監督も一緒に生活している家に帰れば、親同様かそれ以上に僕たちのことを気遣い、可愛がってくれた。
寝食をともにしているからこその信頼関係が、どんなに厳しい環境でも僕を柔道に引きとどめていた理由の一つだと思う。

大学時代 ~柔道のオリンピック強化選手へ

大学進学にあたっては、16大学からオファーを受けた。
なかでも拓殖大学は、史上最強の柔道家といわれている木村政彦先生の出身大学であり、当時、先生自身が監督を務めていた。
筑波大学へ行きたい気持ちもあったが、唯一、木村先生じきじきに自宅までスカウトに来てくれた拓殖大学に入学を決めた。
地方から初めて東京に出て、合宿所での柔道漬けの生活が始まった。

一年生には外出禁止の掟まである。それを破った奴が、合宿所の窓からロープで逆さに吊られているのを見て、大変なところへ来てしまったなと思ったものだ。
どこの世界も同じだが、弱い先輩ほど下級生をいじめてくる。僕は1年生からレギュラーに選ばれていたことで、本来1年生の役目である雑用係を免除されていたのも先輩としては面白くなかったのだと思う。
小さいときから負けず嫌いな僕は、そういう意気地なしな先輩は、試合や練習の組み合いの中でいじめかえしてやった。しかも、監督の目の前で。
それでも、厳しい練習から何とか逃れたい、嫌だ嫌だという気持ちは相変わらずだった。

柔道のオリンピック強化選手へ

そう思いつつも厳しい練習に耐えているうちに、オリンピック強化選手に選ばれることになったのは、嫌な気持ちを上回る恵まれた体格と才能のお蔭だと思う。
そのせいで、柔道から逃げたい辞めたい気持ちとは裏腹に、ますます柔道を辞められない状況になっていった。

就職 ~柔道のために警察官になるも26億円を手に入れて実業家へ転身する

交番勤務

大学卒業後は2年後のオリンピックを目指して、警察学校で柔道を続けることになった。
大卒で柔道のオリンピック強化選手でもあったため、本来なら東京の警視庁警察学校へ通うはずが、とにかく東京の柔道どっぷりの世界から逃れたくて滋賀県警の警察学校に入学し、卒業後は地元の交番勤務からスタートした。
実はその時、僕の手元には3億円のお金があった。大学時代の柔道の後援会で僕を非常にかわいがってくれていた方から、卒業祝いとしていただいたものである。在学中に僕名義で買ってくれた株を元手に、それを運用して得た利益と合わせすべて僕に贈ってくれたのである。
大学卒業時には3億円を手にして、何か自分で事業を始めたいと思っていたものの、柔道の縛りがあって警察官になっていた僕に転機が訪れる。

交番勤務の警察官は、地域住民から様々な相談を受ける。
ある日、不動産屋から土地の売却を迫られているという地元の名士さんからの相談を受け、例の3億円と友人の父親から融資してもらった3億円を足した6億円で、僕が名士さんの6000坪の土地を買うことになったのである。
その後、京都で手広く飲食業を展開している経営者にその土地を30億で買っていただき、友人の父親には利息を入れて4億円を返却して、まだ20代の僕の手元にはなんと26億円が残った。
卒業祝いの3億円からあっという間に26億円とまるでわらしべ長者みたいな話だが、このあたりの詳しい経緯は、本に臨場感たっぷりに書いてあるので是非そちらを読んでもらいたい。

手に入れた26億円

オリンピック強化選手に選ばれながら、結局本番のオリンピック選手には選ばれなかったことで、僕は嫌で嫌でたまらなかった柔道から離れるべく警察を辞めることにした。
そして、手に入れた26億円を元手にこれまで広く事業を手がけることになったのである。
だから、僕は「ハイローラー」と「事業家」の2つの顔を持っている。
因みにカジノに通いだしたのは、経営者になってからである。

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