生い立ち

小学校時代 ~ランドセル大捜索事件・いつの間にか周り人が集まる人気者

千葉県の我孫子に生まれ、父は不動産鑑定士の資格を持ち独立、母も美容師として自分のお店を持っていた。さらに叔父が割烹料理屋を経営していてる環境で、物心ついたときから規模は小さいものの企業オーナー・一国一城の主を身近に見て育った。

小学校時代はよく遊んだ。今のようにゲームやインターネットがある時代ではない。我孫子市役所の裏の空き地に基地をつくったり、缶蹴り、かくれんぼ、警ドロ・・・外で遊び生キズは絶えなかったが、いつも周りにはたくさんの友達がいた。

小学生の時のランドセル事件
小学生の時のランドセル事件

小学校3年生の時、自分のランドセルが無くなったことがあった。「僕のランドセルがない・・・!」と言うと、クラスのみんなが探し回ってくれた。それが次第に「隣のクラスの村上のランドセルが無くなったんだって。こっちでも探してみようぜ。」「4組の村上君のランドセルが見当たらないみたい。みんなで探してあげよう。」「3年4組の村上ってヤツのランドセルが無くなったらしいぜ。ちょっと探してやるか。」という具合に、クラスメートから隣のクラス、それが学年全体へと広がり、とうとう全校で探し回るという騒動になったことがある。
騒ぎを聞きつけた先生から「村上、お前のランドセルはいつなくなったんだ?」と聞かれ、「1時間目から無いような気がしていたんですけど授業が始まっちゃったので、そのままに。2時間目も何とか乗り切り、3時間目にはとうとうまずいってことになって、お昼休みに探し始めたんです・・・。」と答えると、「村上、お前、今日はそもそもランドセル背負ってきたか?」と先生が一言。嫌な予感がしたが、案の定、帰宅してみると机の上にちゃんとランドセルが載っていた。ありゃりゃ。
翌日の朝礼で「昨日お騒がせした村上です。ランドセルは無事、自宅にありました。ごめんなさい!!」と全校の前で謝ることになり、全員爆笑というオチがついた。

中学校時代 ~越境通学で楽しんだ東京・都会の雰囲気

教育熱心な両親、特に母の勧めで中学は受験することになった。しかし、有名私立校を3校受けてすべて失敗。それなら公立でも進学率の良いところへということになり、千葉の我孫子から越境して両国中学に入学することになった。
当時の自分としてみれば下町の両国でも東京はとても垢抜けて見え、毎日が新鮮で楽しい日々を過ごした。

帰り道はアメ横を友達とブラブラ
帰り道はアメ横を友達とブラブラ

通学は、我孫子から常磐線で上野に出てさらに秋葉原で乗り換えて両国に向かう。千葉から出てきた中学生の私には魅惑のルートだった。
当時の秋葉原は、今のようにアイドルやアニメこそなかったが、ディープな電気街が探索心をそそり、御徒町から上野の間も男子中学生には憧れのアメカジグッズを扱う店がたくさん軒を連ねる。帰り道にアメ横を友達とブラブラするのが楽しくて楽しくてしょうがなかった。
同じく越境通学していた両国中学の隣にある日大一中の友達は、我孫子までの帰り道ずっと一緒である。中学時代は部活には入らなかったが、友達とこういった課外活動で退屈することはなかった。

友達と遊んでばかりで勉強はほとんどしなかったが、もともと中学受験する学力はあったから成績はそれほど悪くなっかったと思う。当時アチーブメントテストと呼ばれていた学力試験では、14万人中1,000番くらいの成績だった。
ところがこれに油断して遊びまわっていたことがアダになったのかもしれない。高校受験は東京の志望校には合格できず、また千葉に戻ることになった。

高校時代 ~”向学心”ではなく”交友心”に燃えた結果・・・

志望校ではなかったが高校の入学時は学年3位だった。これがまた油断の原因になったのかもしれない。一学年270名で、中間・期末の定期テストでは上位1位から100位までの順位表が貼り出される。入学時に学年3位だった成績は、1年生のうちに50位から100位に近いとことに落ち、2年生の春には貼り出される順位表の中から名前が消えた。そして3年生の春には、とうとう270名中240番まで墜落することになったのである。

予備校に通う友達とボーリング・ゲームセンター通い
予備校に通う友達と
ボーリング・ゲームセンター通い

とにかく友達が多すぎて、自分の行くところ行くところ友達が付いてきてしまう。3年生の春には真面目に「これではいけない」と自覚して、友達には内緒で通い始めた予備校さえ、自宅に電話をしてもいつも留守にしていることから友達にバレ、夏期講習からはみんなで通い始めることになってしまった。
これでは受験勉強になるはずがなく、予備校に通う友達とは毎日ボーリングやゲームセンターに入り浸り、自宅に帰れば帰ったで就職組の友達が部屋で麻雀をしながら待っている。同居していた祖母は、時々父が自宅で知人たちと麻雀をする際に、いつもおにぎりやラーメンでもてなしていたのだが、私の高校の友達にも同じようにしていたのだから居心地がいいはずである。しかし、学業成就には試練の環境だった。

そこで国立大学は諦め、国語・英語・社会(世界史)で受験できる私立大学を選ぶことにした。両親は、浪人してでも上位校を狙って欲しいと思っていたかもしれない。しかし、友達が多すぎるという”嬉し悲し”の環境では、浪人すればするほど成績が下がるのはわかっていた。そこで現役合格することに決めて、元旦から2月の半ばまでは、惨澹たる成績の世界史だけに集中して勉強した結果、東海大学法学部に合格することができた。

大学時代 ~アホウ学部ダンス学科でプロを目指すほど踊り漬けの日々

サークルの新入生勧誘で、学生競技ダンス部の先輩から「キミ、ダンス上手そうだね!」と声をかけられた。競技ダンスが何かは分からなかったが、高校のときからディスコで踊ることは大好きだったので「ディスコには行きますか?」と聞いてみた。「ディスコもよく行くよな~。それに、競技ダンスをやっていれば基本的なところから身に付くから、ディスコに行っても他の人とはカッコ良さに差がつくよ!」との甘い言葉に誘われて入部を決めた。初めてレッスンに行ってみたところ社交ダンスの”ホールド”の姿勢から始まってびっくり。半分騙されたような入部だが、入ってしまうと結構のめり込んで練習に打ち込んだ。

競技ダンスではラテンで好成績
競技ダンスではラテンで好成績

ディスコ好きと言っても競技ダンスは初心者である。1年生の競技会では、いわゆる”一発落ち”だった。ところがレッスンの先生が替わった3年生の時には、ラテンのサンバで全日本3位、チャチャで5位に輝いた。4年生の時にはJADA(日本アマチュアダンス協会)1級戦で優勝するまでのレベルに上達し、一時はプロになろうと本気で考えたこともある。あまりもの競技ダンスへの入れ込みようを見た父には「法学部改めアホウ学部ダンス学科だな」と笑われていた。

一方で、就職活動にはそれほど熱が入っていたわけではなく、Webエントリーなどなかった時代、分厚いリクルートブックをめくっては資料請求の葉書を出す程度だった。
たまたまテレビで目にした「新日本証券」のテレビCMが、なぜかカバのお尻に「新日本証券」のロゴが重なって終わるという演出で、変なCMだなと思いながら新日本証券への葉書を書いて出してみた。

バブル期の就活新日本証券の拘束日はディズニーランド
バブル期の就活
新日本証券の拘束日はディズニーランド

当時はバブル崩壊直前の最も売り手市場の時期である。金融を中心に、相場のある業界では今からは想像ができない人数を採用していた。また、内定解禁日は「拘束日」と呼ばれ、複数内定を持つ学生が他社に流れないよう企業は旅行などで物理的に囲い込みを行うことが当たり前でもあった。それも学生の歓心を買うために、ハワイやグアムなど海外まで連れ出す企業も珍しくなかった。
この慣習はおかしいと思っていた私は、不動産を含め内定をもらっていた8社の中で最も質素な拘束日だった新日本証券に入社を決めた。ちなみに新日本証券の拘束日は、ディズニーランドとテレホンカード1枚だった。
それに、不動産の業界に進んだところで不動産鑑定士の資格と豊富な経験を持つ父には太刀打ちができない。父と対等に経済について話ができるようになるのは、不動産を含めたマーケットについて広く知見を広げられる証券会社だと考え、新日本証券に決めた理由のひとつである。

就職 ~結果を出すことへのこだわり・第二の性格を形成した新人時代

証券会社時代
証券会社時代

入社後の配属先は、大阪の梅田支店に決まった。 ここで、上半期に同期入社全国330人中1位をたたき出した。おそらく性格的にリテール営業が向いていたのだと思う。担当だった天神橋1丁目エリアには、500軒の法人(中小)・個人があって1日に100軒飛び込みをすることを自らに課した。普通の営業なら、飛び込みで一度断られた先には足が向きづらい。しかし、私は断られても断られても1日100軒、ちょうど1週間(5営業日)で担当エリアの500軒を一巡するペースで、毎回名刺を置いてくる飛び込みを続けていた。1年52週だから単純計算だと1年で同じ家を52回訪問することになる。実際は、他の業務もあるため、1年で約30回が現実的なところだ。

そんな中、担当エリアに夫婦2人、四畳半で社労士をやっている自宅兼事務所があった。「見てのとおり、証券会社に預けるような余裕のあるお金はない」と毎回毎回言われ続けたが、とうとう32回目の訪問で「お前の根性に惚れた。そこまでするなら200万円分だけリスクの小さいものを買う。」と新規口座開設書を記入してくれたのである。さらに「今回口座を開設したから、これまでの名刺は返すよ。」と言って、これまで置いてきた31枚の名刺をキレイなまま返してくれたのには感激した。私の第二の性格は、この時代に作ってもらったと思っている。

入社2年目の時には、同期だけでなく近畿地区(約1,500人)でトップに、3年目には全店トップを達成した。梅田支店で1ヶ月の新規開拓口座数75件の記録は未だに破られていないはずである。このとき、新規開拓の力さえ持っていればどこでも生きていけるという自信を持った。

ニューヨーク時代
ニューヨーク時代

この後、25、6歳の時にヘッドハンティングされて転職する。27歳から1年半は、チェースマンハッタンのプライベート・エクイティ・ファンドであるウエストスフィアで、ニューヨークと東京を行き来しながら、機関投資家向けに南米の未公開企業への投資の交渉を行っていた。
当時の日本の銀行・証券や生損保の間では、まだプライベート・エクイティに対する認知度・理解度が低く、まったく売れない。その中、たまたま縁があった総合商社の投資チームがすべてのファンドを買い取ってくれることになり、本当の金融マンは総合商社にいた、と思ったものである。

すべてのファンドが手を離れたのを機に、先輩の高橋と一緒に現在のコンサルティング会社を創業することにした。

Pocket

Comments are closed