生い立ち

小学校時代 ~小さいころから周囲にぶつかりまくる「個」の強さ

「個」が立った生意気な子供だった
「個」が立った生意気な子供だった

祖父は岐阜から大阪に出てきて、7,8人の従業員を使いながら古紙再生の商売を始めた。
父は祖父の意向で夜間高校を出た後、家の商売を継いだが、本人としては納得していなかったのだろう。祖父が亡くなるとすぐ古紙再生の商売はたたんで、自分で喫茶店を開き、長いこと経営していた。
私は幼い頃からませていたらしく、保育園は飛び級して最初から年中組に入園、年中組に2年いてから年長組になった。言葉をかえれば「個」が立った生意気な子供だったとも言える。大人からすれば生意気な子供は可愛くないだろう。特に可愛いがられた印象はないのだが、小学校3年生の時、担任の先生が「岩田くんはきっと大物になる」と言ってくれたことを母から聞いた。この言葉はこれまで自分を信じる力の原点になったと思う。
一方、担任が代わった4年生の時、新任の大卒新米先生を前にして「頼りないなあ・・・」と大きな声で口に出してしまったことで先生を泣かせ、PTAでは大問題になったと聞いた。
さらに4年生の時には、友達と喧嘩をして相手の「お前なんか転校してしまえ!」の売り言葉に対し「おお、だったら転校してやる!」の買い言葉で本当に転校することになってしまった。小さい頃からゴツゴツと色々なところにぶつかりながら進んできた人生である。
しかし、転校先の担任の先生が大変教育熱心なことから心機一転、優等生になろうと決意し、同じクラスで家も隣同士の良いライバルにも恵まれたこともあって、ここでは一所懸命勉強した。

中学校時代 ~水面下で努力し、チャンスが来た時に結果を出す

小学校の時から野球が大好きで、中学に上がったら野球部に入ろうと決めていた。
ところが入学の前年に野球部が廃部になったことを知り、早速、野球部復活のための署名活動を起こした。周囲にも協力を求め、中学生ながら200名ほどの署名を集めたと思う。小学校時代の恩師も直接中学校に掛け合ってくれたが、グラウンドが狭いなどの理由で現実には復活は難しいということになった。自分なりに動いてみたし、信頼する大人の協力も得られた結果として希望が叶わなかったことには意外とあっさり納得ができた。

仕方がないので野球と一番近いスポーツをやろうと考え、陸上部に入った。ところが、先生からは目をつけられていたのだと思う。授業中大勢で騒いでいても、いつも私だけが「岩田、お前ちょっとグラウンド10周して来い」と言いつけられるのである。そういう時は文句を言わず、制服のまま黙々とグラウンドを走った。
バレーボールも得意で、中学2年生になった時、頼まれて陸上部からバレーボール部に鞍替えをした。普段はレギュラーで3番目くらいの実力だったが、試合に出るとポイントゲッターとして活躍した。部活の時だけでなく、家でも地道な練習を重ねていたのである。周囲は本番に強いやつだと思っていたかもしれないが、水面下ではコツコツと努力を重ねていた。

普段勉強しているところを見せないで陰で努力
普段勉強しているところを
見せないで陰で努力

勉強の方も学年ではいつも10番台を維持していた。こちらもそれなりに勉強をしていたからだ。ただし、いかにも勉強しているということを周囲に知られたくないと思っていた。自宅と学校の門をくぐるまでの通学時は一所懸命勉強するが、いざ学校に着くと涼しい顔をしているのが自分の美学・プライドだった。
高校では今度こそ野球がしたいと思い、自分としては当時公立としては強かった池田高校に行きたかった。父は自宅の近くの北野高校を行くことを勧め、悩んだ結果、結局北野高校を受験することにした。
普段勉強しているところを見せないせいで、私が進学校である北野高校を志望していると周囲は思わなかったのだろう。ペーパーテストの出来はそこそこ良かったが、私の音痴を気の毒に思い「岩田君の内申、少し色を付けてあげておいたからね」と言った音楽の先生が、私の志望校を聞いてびっくりしていたのは笑い話である。

高校時代 ~生涯のパートナーとなる妻と運命的な出会い

入学すると念願の野球部に入部。野球が好きと言っても小学校の時に草野球をしていた程度。小学校・中学校と野球部で鍛えてきた同期のレベルには全く及ばない。
また、1学年上の先輩たちのレベルが甲子園を狙うほど特に高く、2年生になっても上級生のいない2軍でも、なかなか試合には出してもらえなかった。それでも、裏方の仕事や練習はまじめにコツコツを続けていた。
3年生が引退し、新チーム結成となる2年生の夏、監督から次期キャプテンとして指名された。後輩の1年生たちが「是非、岩田さんをキャプテンにして欲しい」と推薦してくれたという。試合には出られずとも一所懸命練習する姿を、先輩たちも評価してくれていたと聞いた。
私がキャプテンに抜擢されたことにより、本来キャプテンになる実力のある2名は副キャプテンとなって新体制がスタートした。

4番でキャプテンを任されダントツに打ちまくる
4番でキャプテンを任され
ダントツに打ちまくる

キャプテンになったからと言って野球が急に上手くなる訳ではない。ところが、キャプテンとしてオーダー表を提出しに行った際、「4番」に自分の名前を見つけた時には、本当にびっくりした。
試合に出ると、キャプテンで4番という評価と機会を与えてくれた期待に応えるべく勝負強くダントツに打ちまくった。
キャプテンになってからも順風満帆だった訳ではない。副キャプテン同士の不和による片方の退部や下級生中心のチームになってしまったことによる成績不振など、キャプテンとしての自分の不甲斐なさと同時に、自分自身もモチベーションを落としてしまった時期もあった。しかし、退部した副キャプテンが何とか戻ってきてくれ、それ以降は体制も気持ちも立て直して試合に臨んだ。

甲子園を狙えるほどの実力のあった1学年上の先輩でさえ初戦敗退していた3年生の夏の大会で、私たちのチームは4回戦まで戦った。最後の試合に負けた時、チームメイトが涙を流すなか、私は不思議と涙が出なかった。キャプテンの重圧から解き放たれた開放感の方が強く、その時は悔しいというよりもようやくほっとした気持ちになったことをよく覚えている。

高校3年の夏が終わると大学受験態勢に入り、予備校に通い始めた。その予備校で出会った彼女が今の妻である。 妻との出会いは偶然が重なり運命のようなものを感じている。
予備校での試験の日、

  1. 二人とも開始時刻を間違えて早めに到着し、会場でしばらくぽつんと二人きりになったこと
  2. 回答用紙がマークシート方式切り替わったばかりの時期で、慣れない私は、問題用紙の方に回答を記入してしまっていた。試験終了時、白紙の回答用紙に気が付いて「ああっ!」と叫んだら、反対側にいた彼女も同時に「あっ!」と声を上げていた
  3. その試験の帰り道、ちょうど私の前を彼女が歩いていたことから一緒に帰ることに
  4. その日の彼女の服装はトラッドスタイル。実は、私はトラッドが大好きで、彼女本人というよりも彼女のセンスに惚れたのだが、後で聞いてみると彼女がトラッドを着ていたのはたまたまその日だけで、本当はトラッドは嫌いだったとのこと
予備校で運命の人に出会う
予備校で運命の人に出会う

それぞれの自宅も駅2つの距離でちょうど中間に公園があり、出会った翌日から一緒に帰ることになった。そして1週間後には彼女の方からプロポーズ。これにはさすがの私も慌てた。それから彼女とは7年お付き合いし、今では妻としてかけがえのない人生のパートナーになっている

実際の受験では、私立を含めて複数大学を掛け持ちする経済的余裕がなかったため、受験料も惜しんで国立大学1校のみの受験となった。高校3年生(現役)の時は大阪大学人間科学部を受けたが残念ながら不合格、浪人ののち、同じ大阪大学の経済学部に合格することができた。

大学時代 ~野球部でこれまでの努力の集大成を発揮

野球については高校時代にやりきった感があったので、大学ではやらないと決めていた。
そこで、「ムツゴロウ」さんの影響で生物が好きだったことから生物部に入ってみたが、実態は南の島でシュノーケルばかりするサークルで、自分の性には合わずにすぐ辞めてしまった。
また、子供の頃、勝負事が好きだった父が従業員の人たちと自宅でよく囲碁・将棋・花札などで遊んでいるのを脇で眺めていて、それぞれルールを一通り覚えてしまっていた。そこで今度は囲碁部の門を叩いてみたところ、入部審査として奥から出てきた先輩との手合わせで、あっという間に黒石がすべて白石に変えられ、そのまま門前払いとなってしまった。

4年生の時には3試合ピッチャーを経験コンロトールが抜群に良かった
4年生の時には3試合ピッチャーを経験
コンロトールが抜群に良かった

大阪大学の同期には、大阪の野球の強豪校から17名くらい入学してきていた。その中のメンバーから野球部に誘われ、紆余曲折ありながら結局、大学でも野球部に入ることになった。
当時、大阪大学は、ドラフトにかかるような文武両道の優秀な先輩が中心メンバーになって近畿Ⅰ部リーグにのし上がっていた。 高校と違い、大学では早くから外野手として試合に出してもらっていた。しかし、膝を壊して入院・手術し、リハビリを余儀なくされてしまった。復帰の時、今度は子供の頃からの夢だったピッチャーを目指すと宣言したら周囲にはびっくりされた。当然経験のないピッチャーとしては、ずっと鳴かず飛ばずの状態。それでも練習だけはものすごい量を黙々とこなす毎日を送っていた。
日々の努力を見ていた同級生が監督に進言してくれたお蔭で、ようやく3年生の秋の最終戦に登板するチャンスが巡ってきた。5回も持たないだろうと周囲には思われていたが、結果は2失点のみで完投、勝ち投手となることができた。
チームには高校時代ピッチャー経験のある有望な下級生は何人もいた。しかし、何人もの有望選手は、スピードはあるがコントロールが良くない。私の場合、スピードはそれほどないが、彼らよりコンロトールが抜群に良かった。スピードかコントロールかといえば、ピッチャーの決め手はコントロールだと思っている。毎日、いかにコントロール力を上げるか考えて黙々と練習を続けていたのである。
4年生の時には3試合投げ、それと合わせ2勝2敗防御率2.00で野球生活を終えることができた。

私のこれまでの人生は、必ずしも最初から才能に恵まれている訳ではない。チャンスが巡ってくるまではコツコツと地道に努力をする。そして必ずその努力を見てくれている人が実力を発揮すべき機会を与えてくれる。そのときにしっかりと結果を出すことで、評価を勝ち取ってきたと言える。

4年生になって就職活動では、商社・金融・メーカー(鉄鋼・自動車・電機など)をはじめ、とりあえず全業種をトップ3~5社を受けてみた。ところが、活動した結果、どこに決めて良いのかわからない。
たまたま、内定解禁日前日に会った日産自動車で働いている大学の先輩の話を聞いた時、その人に惚れこんで、その場で「よろしくお願いします」と頭を下げたことが日産自動車入社の決め手となった。

就職 ~問題児がブレーク・スルーを起こす

入社後は、購買・生産・品質管理・販社への出向・財務と様々な部署を経験した。その中でも、上司や取引先など社内外でぶつかることが多く、小学校の頃から相変わらずの問題児的な言動がたびたび物議を醸していた。
個々のエピソードについては、是非今回の本を手にとって欲しい。
自分がどんな時にも一貫していたのは強い信念と、目の前のミッションに集中してやるべきことをやり遂げるということだった。そのために人一倍の勉強と努力は欠かさない。それは必ず誰かが見ていて報われるときがくる。

Pocket

Comments are closed