生い立ち

小学校時代 ~抑圧された環境で、優等生としてふるまうことを自らに課す

城下町の封建的な気風の中で抑圧されて育った
城下町の封建的な気風の中で
抑圧されて育った

私は、1966年大分の竹田市という城下町で生まれました。
1966年は「丙午」で、この年に生まれた女性は男性を食うという迷信があり、出生人数が格段に少ない年です。私も幼い頃から結婚できないといわれ続けてきました。城下町の封建的な気風の中で、余計抑圧されていたように思います。
父はもともと讀賣新聞の販売店をやっていましたが、自主的に記事を書いて新聞社に送っていたことから、記者にならないかと声をかけられ、新聞販売から記者に転向しました。母は珠算教室を複数経営していて、いつも忙しく、働き者でした。

当時住んでいた家は現在の瀧廉太郎記念館
当時住んでいた家は
現在の瀧廉太郎記念館

ある時、父が放置され荒れ放題になっている空屋敷を見つけ、ここに住みたいと言うので、家族でその家に住むことになりました。そこは「荒城の月」で知られる瀧廉太郎が幼い頃住んでいた家で、後に、音楽家の芥川也寸志さんやジャーナリストの筑紫哲也さん(瀧廉太郎の妹の孫)の働きかけで、今は「瀧廉太郎記念館」になっています。

そんな関係もあって、小学校3年生のとき音楽を習うように言われ、瀧廉太郎合唱団に入ったのがきっかけで歌を始めました。最初は周りから勧められた音楽でしたが、次第に歌を歌うことが大好きになっていきました。

私には今は精神科医になっている2歳上の兄がいますが、この兄が小さい頃からとても変わっていて、かなり両親の手を煩わせていました。
親や先生方の苦労を見ていた私は、自分は手のかからない子供でなければと思い、活発でお転婆な女の子でしたが、小学校では常に学級委員を務めるなど大人の期待に応える優等生でもありました。

中学校時代 ~故郷を音楽の都に・・・大好きな歌に打ち込む

中学に入っても真面目な優等生ぶりは相変わらずで、身体の成長も他の子たちよりも早かったため、学校ではお母さんやお姉さん的な存在だったように思います。
中学校時代は音楽漬けで過ごしました。小学校からの瀧廉太郎合唱団も続けながら、中学校では合唱部と吹奏楽部に入りました。「故郷をウィーンのような音楽の都にしたい!」と本気で考えていたくらいです。
高校進学を考える時期になり、当然、大好きな音楽の勉強ができる環境に進みたいと思いました。そのためには、少しでも都会に出て広い世界・音楽に力を入れている学校に行く必要があります。
地元から学区を越境して大分市内の進学校に進むには、試験で500満点中490点以上のレベルが求められた上、入学先は本人の意志とは無関係に振り分けられる合同選抜という制度がとられていたため、自分の志望校に入るには運も必要となりました。そこで、隣接する熊本へ進学も検討しましたが、県を超えるとなるとさらに難しく、私としては大変不本意ながら、地元の高校へ進むことになりました。

高校時代 ~グレた娘の気持ちを救った母の強さ

不本意な気持ちで入学した高校ですから、入学早々、1年生の夏くらいから学校には行かなくなりました。
高校進学で自分が打ち込めると思った音楽の道を諦めることになり、子供の頃から自分は優等生でなければならないと自分に思いこませてきたことに、反抗したくなったのだと思います。
当時は「なめ猫」や「金八先生」などが流行っていた時代で、不良はちょっと格好いいという雰囲気がありました。優等生だった私が、不良グループと遊ぶようになりました。学校にも行かず、悪いことも色々やりました。しかし、それまでの優等生イメージへの私なりのささやかな抗議として不良を気取っていただけでしたから、頭の中では「これも私のやりたいこととは違う」と思っていました。

父は変わってしまった娘を見て、かなり怒っていました。
しかし、母だけは私の本当の気持ちが分かっていたのでしょう。高校2年生のある日、「今日は朝まで腹を割って話そう」と私の部屋に入ってきたのです。そして「あなたは本当は何がやりたいの?」と聞いてくれました。私は、好んで不良グループと付き合っている訳ではないこと、荒れた生活で喉をいため、音楽の道は諦めざるを得ないことを話しながら、「もっと勉強したい」こと「そのために東京へ行きたい」と伝えました。
私の気持ちを理解した母は、父に東京の大学への進学を説得してくれました。当初反対していた父も、「早稲田大学の文学部だったら認める。たぶん受からないと思うが・・・」と根負けした格好になりました。親戚からもだいぶ反対されましたが、すべて母が「私が行かせますから!」ときっぱり宣言し、最後は私を守ってくれたのです。

早稲田を目指し1日2時間の睡眠で猛勉強
早稲田を目指し1日2時間の睡眠で猛勉強

それから、私の生活は一転しました。ほとんど毎日2時間程度の睡眠で勉強に集中するようになりました。ちょうど高校3年の時の担任の先生が早稲田出身だったため、親身になって応援してくれました。やる気になった私を見て、他の先生方もみな勉強しやすい環境を作ってくれ、応援していただいたと思います。
その甲斐あって、実際の入学試験でも手応えを感じ、早稲田大学文学部に無事合格することができたのです。最後まで受かるはずがないと言っていた父は驚いていました。

大学時代 ~クラブホステスという仕事との出会いから大学生ママへ

憧れの東京のキャンパスライフでは、サークルの新入生勧誘が待っていました。バブル絶頂の時代の空気感は大学生も同様で、ちゃらちゃらしたお遊び系のサークルばかりが目立ち、片や真面目なタイプは新興宗教系のサークルに取り込まれるというのがほとんどでした。どちらも違うと思いながら決めかねていたところ、1年生が終わる頃に、同じ早稲田の友達から「おばさんが日本橋でクラブをやっているんだけど、まったく手が足りないから、手伝って欲しいと言われている。ちょっと行ってみない?」と誘われました。その当時はクラブというものが何かも知らなかったのですが、どうせ時間もあるからと思い、4,5人の友達と一緒に初めてクラブに行ってお店を手伝ってみることになりました。

今でこそ大学生が夜のお店で働くことは珍しくない時代ですが、当時大学生がクラブで働いているのは珍しく、また日本橋という場所柄、お客様も相応の企業の上役の方が多かったため、随分と可愛がってもらいました。企業の役員の方には早稲田出身の役員の方も多いので、大学の先輩・後輩という意味でも親近感があったのだと思います。

まだ幼さが残る大学生の頃すでに”ママ”を任されていた
まだ幼さが残る大学生の頃
すでに”ママ”を任されていた

そうは言ってもやはり夜の仕事はきつく、一緒に始めた友達は結局みんな辞めてしまいました。一方、私の方はいつの間にかお店は自分のお客様でいっぱいになり、大学4年生の時にはオーナーママから任されてママになりました。
教育実習で数週間お店を休んだ後に出勤した時には、「あなたがいない間、本当に大変だったのよ」とオーナーママから言われるほどでした。
就職を考えなければならない時期でしたが、私としてはクラブの仕事が面白く、大学は1年留年することにしました。

それまで両親にはクラブの仕事をしていることはまったく伝えていません。思い切って「卒業後はクラブで働きたい」と伝えました。びっくりした母が、慌てて翌日上京してきました。ところが周囲の反対から私を守って東京の大学に行かせてくれた母です。私を頭ごなしに説得に来たのでも、連れ戻しに来たのでもなく、「あなたがやりたいという仕事をしっかり見てみたい」と私のお店に来たのです。
ちょうどその夜、ある大手繊維メーカーの社長さんが来店しており、「こういう立派な人が来られるお店なら大丈夫」と母は認めてくれました。父には、また母から説得してくれることになりました。

独立 ~日本橋から日本の夜の頂点・銀座を目指す

日本橋のクラブは、私のお客様でいっぱいになりました。 ところが、オーナーママとの関係はだんだんギクシャクしたものになっていきます。オーナーママとしては、私の実力を認めていてお店任せたいとは思いつつ、やはり私が「ママ」「ママ」と呼ばれているのは面白くないでしょう。私の方は、初めてのこのお店でクラブの仕事を覚え、今はママとしてお店を仕切るまでになったので、将来はもっと広くマネジメントをしたいと思うようになっていました。ところが、オーナーママは私にはこの日本橋のお店1軒をしっかり守って欲しいと思っており、それが私にはだんだん窮屈に感じるようになってきたのです。
お酒は結構飲める口ですし、ママとしての仕事がハードな上、オーナーママとの関係もギクシャクしている中で、相当な身体への負荷とストレスになっていたのでしょう。とうとうアルコール性膵炎になり、入院を余儀なくされました。これを機にして、オーナーママには仕事を辞めると伝えました。

ママにはこの仕事は辞めるとは言ったものの、その年、阪神・淡路大震災が起き、野茂の大リーグ行きなど、私自身自分の生き方を見つめるきっかけとなった出来事がありました。野茂が大リーグに行って野球の頂点を目指すなら、私も銀座に行ってクラブの頂点を目指したいと思いました。
求人誌を見て、銀座のお店に勤め始めましたが、結局そのお店も私のお客様ばかりであふれてしまい、日本橋での苦い経験から辞めるしかないと思いました。勤めてまだ1年くらいでした。

20代で銀座に2軒お店をオープンしたことは当時話題になった
20代で銀座に2軒お店をオープンしたことは
当時話題になった

これではどんなお店にお勤めしても駄目だと思い、自分でやるしかないと心を決めました。やると決めたら、働く女の子が厳しい夜の世界でももっと働きやすく、高いと言われる銀座でももっと気軽にお客様に来ていただけるようなお店にしたいと思いました。
そして29歳の時独立し、4月に銀座5丁目にお店をオープン、7月には銀座7丁目にもう1軒をオープンさせました。20代で2軒ほぼ同時にお店をオープンさせたということで、当時話題にもなりました。

少しプライベートなお話をすると、幼い頃から結婚できないと言われてきた私は、「30歳までに結婚したい」と言っていました。そこでお客様にお相手の紹介をお願いしたところ、驚いたことに3人の方から同じ方をご紹介いただいたのです。お客様と同じ会社に勤めている方で、ちょうど母も手伝いでお店にいる時にお越しになり、母も「あんな真面目な人がいるのね」と言っていました。それが、今の夫です。子供にも恵まれ、上は中学3年生、下は中学1年生。幼い頃から私の働く姿を見ているため、どちらも女の子ですが、自立したしっかり子供たちです。

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