生い立ち

幼少・小学校時代 ~女きょうだいの中で男の子1人、明るく周囲を楽しませる人気者

周囲から可愛がられて育った幼少時代(本人右)
周囲から可愛がられて育った幼少時代
(本人右)

私は、東京の下町の代名詞でもある門前仲町・深川で生まれました。
父はもともと山形県生まれの次男坊で、地元では少しやんちゃの部類だったようです。母とは駆け落ち同然で上京してきて、深川の鉄工所に勤めていました。
きょうだいは、上に姉が3人と下に歳の離れた妹がいます。そのため、小さい頃はいつも姉たちの遊びに引き込まれていました。友達と男らしく野球をしたかったのですが、遊びに行こうとすると姉たちに止められ、室内で風船を使ったバレーボールとか、ゴム跳び、おはじきなど、よく女の子の遊びに付き合わされていました(笑)。

両親は比較的放任主義で、きょうだいの中で男の子1人だからと特に私だけを可愛がったり、逆にプレッシャーをかけたりすることもしませんでした。
友達も多く、姉たちの中でも上手く立ち回ったり、どちらかというと優等生的で手のかからない子供だったと思います。
幼い頃から、明るく周囲を楽しませる性格で、敵をあまり作らず、いろいろなグループから声がかかるタイプでした。また、身体が小さかったので、性別を超えて可愛がられるタイプでもありました。
当時の家の近くには運河があったので、木材を運ぶ筏に乗って追いかけっこをしたり、(禁止されていましたが)運河に飛び込んだり、また富岡八幡宮の裏の池で(これも禁止されていた)釣りをして怒られたり、当時の東京商船大学(現:東京洋大学)に忍び込んで、そこのボクシングリングで友達とプロレスをしたりと、やんちゃ坊主そのものでした。

両親が共働きだったこともあり、放課後は友達と外で遊ぶのが当たり前でした。
そのせいでと言うべきかその代わりと言うべきか、あまり勉強をした記憶はありません。それでも成績は良い方でした。頭が良かったというよりも、要領の良さのおかげだと思います(笑)。テスト前、誰のノートを借りて勉強すれば一番効率いいかを見抜くセンスがあったのです。単に先生の話や板書を真面目に書き写したノートではダメなのです。その子が一度自分の頭で整理したエッセンスがまとめられているノートがテスト勉強には一番効率的であるということを知っていて、誰がそういうノートを作っているのかということに鼻が利くところがありました。

中学校時代 ~学校・アルバイト・地域で、自分とは違う人たちとの付き合い方を知る

よく遊びよく学んだ中学時代(本人右)
よく遊びよく学んだ中学時代
(本人右)

中学にあがっても「よく遊びよく学べ」をそのまま実践したような生徒でした。
勉強はガリ勉ではありませんでしたが、成績はいつもクラスで1番か2番、学年でも5番から10番の間には入っていました。
小学校くらいまで姉たちの良い遊び相手にされていたことへのささやかな反発心もあって、中学に上がると、男の子らしいスポーツの象徴であった野球部に入りました。ところが、相変わらず身体が小さくて、野球ではあまり活躍ができないことが分かり、1年生の途中で早々に卓球部に転部しました。卓球は、身体の大きさがハンデにならないからです。実際、優勝こそできなかったものの、地区大会ではいいところまで勝ち進みました。
部活だけでなく、学校行事としてクラス対抗の球技大会(バレーボール)でも熱くなりました。任されたボジションはセッターで、クラス一丸になって燃えた思い出が印象深く残っています。

中学生らしくのびのびと毎日を過ごしている中でも、私らしいエピソードがあります。ある時、友達と体育館のマットの上でプロレスをして遊んでいるところを先生に見つかってしまいました。全員そこで正座させられた上、先生から「どう思っているんだ!」と糾弾されて、みんな口を利けずにいたとき、私が真っ先に「申し訳ありません。悪いことをしたと思います。なぜならば、今回は僕たちだけですが、同じことを全校生徒がしたらマットの傷みが酷くなったり、早く傷んだりして、全員の授業に迷惑がかかるからです」と優等生的な発言をしたことで、その場の張りつめた空気が緩みました。もちろん、心からそのように反省していたこともありますが、周囲の仲間を想い、こういった状況の中で自分に求められる役割を察知して、さっと立ち回るところがありました。身体が小さかったこともあり、敵を作らずに生きていく知恵を知らずのうちに体(修)得していたんでしょうね。

学校生活とは別にアルバイトもしていました。母が倉庫での仕事をしていたため、夏休みは私もそこで箱詰めのアルバイトをしました。働き者の両親を見ていたので、当時から働くことは当たり前という意識がありました。日給5,000円~6,000円のアルバイト代もちゃんと貯金して、高校生になってからそれでバイクとかビデオデッキとか自分の好きなものを買いました。
ここでも身体の小ささと持ち前の愛嬌で、アルバイトのおばちゃんたちのアイドル的存在でした。
また、生まれた場所柄、お祭り大好きで、深川八幡祭では毎年お神輿を担いでいました。

こうしてみると、当たり前の生活のようですが、私の場合、大勢の姉たちに囲まれた幼少期にはじまり、性別や年齢、生活環境によって自分とは違う考え方を持った人たちとコミュニケーションをとり、関係を作っていくという、今で言う“多様性”への対応の仕方を早めに学ぶ機会が多かったようです。

高校時代 ~友達とコントのコンビを組んでテレビ番組でチャンピオンに

小・中学校と公立だったので、自分としては、高校も学区内で偏差値が一番高い公立学校へ進学するつもりでいました。
ところが、担任の先生から内申点を少し下げられたせいで、二番目の高校にしなければならなくなりました。今から思うと、もっと担任の先生とコミュニケーションをとっておけば良かったんでしょうけど・・・。
いずれにしても、希望していた一番の学校と二番目の学校にはかなりの差があり、自分としては納得ができなかったので、いろいろと考えた末に私立の東海大学付属高輪台高校への進学を決めました。

高輪台という学校名の通り、生徒はオーナー経営者の息子やパイロットの息子など、山の手のお坊ちゃまばかり。一方、私はばりばり下町出身、やや居心地の悪い思いをしていましたが、唯一、足立区出身の気の置けない友達ができました。

お笑いコンビを結成してテレビ番組に出演(本人左)
お笑いコンビを結成してテレビ番組に出演(本人左)
お笑いコンビを結成して
テレビ番組に出演
(本人 上下ともに左)

彼はお笑いのセンスが非常に高く、ネタを彼が作り、愛嬌者の私とコントのコンビを組んで、日本テレビの「テレビジョッキー」に応募して出演しました。テレビジョッキーは、視聴者参加型の番組で、お笑いだけでなく奇人・変人や一発芸など、有象無象の素人がたくさん集まってきて、控え室も兼ねた日本テレビの会議室で一緒くたでオーディションをやります。当然のことながら、雑多で怪しい雰囲気がぷんぷんで、相方の友達とは「ちょっとヤバイよな・・・」と言っていました。結局私たちは、本番の放送で2週連続チャンピオンになりました。3週勝ち抜くとグランドチャンピオン大会に出場できるのですが、そこまで行っていたら、今頃はまったく違う人生だったかもしれません(笑)。当時はお笑いブームで、番組からは、とんねるずや竹中直人、柳沢慎吾といった後々大物になる人たちを輩出していました。そう考えると、レベルの高い番組で、グランドチャンピオンからお笑い芸人になる道というのはさすがに難しかったようです。

大学時代 ~マクドナルドとディズニーランドでのアルバイトが後のマネジメントの基礎に

マクドナルドのアルバイトではマネージャーを努めた
マクドナルドのアルバイトでは
マネージャーを努めた

付属高校からそのまま東海大学に進みました。学部の選択では、理系というタイプではなかったので、将来社会に出たときに一番ツブシが利きそうな経済学部を選びました。
授業は卒業に必要な単位を取得するだけのものと割り切り、それ以外の時間は、とにかくアルバイトに打ち込んだ大学生活でした。
私が大学に入学した年に東京ディズニーランドが開園し、当時自宅のあった浦安のマクドナルドでは、新店舗オープンのために一気に100名のアルバイトを募集していました。そこに応募して採用が決まり、いきなり大学1年生でマネージャーに指名されました。アルバイトと言っても、自分より年上の人がかなりの人数います。また、他にマネージャーに指名されたのは、大学4年生でした。しかし、私をマネージャーに指名した当時の店長は、後々、ハンバーガー大学(マクドナルドの企業内大学)の学長まで務められた人だったそうで、人材の目利きに優れた人だったようです。

新店舗の開店は、ディズニーランドの開園日に近い日に設定され、オープン当初からお店は大変な賑わいでした。開店日の売上を今でも忘れません。420万円で当時の世界レコードでした。おかげで、忙しい店舗のマネージャーとして、“人”・“物”・“金”一通りのマネジメントを身体で学びました。同時に、マネジメントの面白さも実感していました。
“人”で言えば、アルバイトのシフト構成とスタッフのモチベーションマネジメント。シフトを決めるときは、店長が頭ごなしに指示しても嫌がるところを、私が依頼するとスムーズに決まっていました。
“物”で言えば、バンズやパテなど材料の発注。在庫と売上状況やその日の天気、曜日などを勘案しながら、もっとも効率よくロスのない発注をすることで、いかに上手く回すかということに心を砕きました。
“金”で言えば売上計算。一日の営業が終了し、売上金を計算し終わると、今日一日の店舗の様子を振り返りながら、達成感に浸ったり、反省することもあったりと、どんな仕事からも吸収することばかりでした。
特に、アルバイトのモチベーションマネジメントの上手さでは、高く評価されていました。同じシフトに入ったメンバ一との一体感を醸成し、サービスの質と効率の両方を実現できるよう気を配りました。当時のメンバーとは、30年経った今でも付き合いがあります。実は、今の妻も、アルバイト仲間としてそこで出会いました。

もうひとつ、就職活動が終了した後のディズニーランドでのアルバイトも貴重な経験になりました。せっかく浦安に住んでいるのだから、大学卒業前までに一度は経験しておきたいと応募し、警備係として採用されました。実際、ディズニーランドの内側から見てみると、カストーディアルと呼ばれる清掃担当の人に大変な敬意が払われていたり、ミッキーマウスは、裏方しかいないバックヤードでもミッキーとして振る舞うなど、ディズニーランドの徹底したホスピタリティを目の当たりにしました。大学時代4年間のアルバイトで得たオペレーションマネジメントとホスピタリティの経験は、後のスターツでのマネジメントや経営の基礎となっています。

就職 ~大企業に就職する同期を後目に、「伸びる会社」を選んだ

将来は漠然と起業したいという想いがあり、就職活動では、大企業に行くのはやめようと思っていました。ちょうどバブル景気絶頂にさしかかる頃で、友達の多くは銀行や証券、メーカーなど大手有名企業を狙って活動し、次々就職を決めていく中、私はこれから成長しそうな中堅企業ばかりを受けている異質な存在でした。

その中で、最終的に入社を決めたのは千曲不動産(現:スターツコーポレーション)です。当時はまだ社員数も100名を超える位の、友達はだれも知らないような会社でした。就職活動で、訪問した際に、社員のきらきらした目の輝き、堂々とした話ぶりなど、社員が生き生き、パリッとしている雰囲気に、直観でここだ!と決めました。
ゼミでの就職先決定報告会はイヤでイヤで仕方ありませんでした。大手に就職する同期と比べて恥ずかしいからではありません。彼らに自分の想いが理解できるはずがないと思っていたからです。案の定、私の順番が回ってきたとき、同期はいっせいに不審な表情を浮かべました。スターツに決めた理由も聞かれましたが、彼らには「伸びるよ」と一言だけ答えたのを覚えています。
そのスターツも現在では社員数5,000名を超えるグループに成長しています。

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