生い立ち

小学校時代 ~大怪我・事故の思い出

かつては筑豊炭田と呼ばれて栄えていた福岡県飯塚市
かつては筑豊炭田と呼ばれて
栄えていた福岡県飯塚市

私は、福岡県飯塚市に生まれました。 飯塚市は、戦前までは筑豊炭田と呼ばれ繁栄していた町でしたが、戦後、エネルギーの中心は石炭から石油に変わり、私が生まれたころからはだんだん寂れてしまいました。
父は、地元企業の「麻生」で、福利厚生の仕事をしていました。
私が幼稚園の頃、友達と一緒に父の会社の近くまで遊びに行ったことがありました。父は後でそれを母に対し「あんな汚い格好で俺の会社に来させるなんて・・・」と大層怒ったようです。私の生家は必ずしも裕福とは言えず、みすぼらしい格好で父に恥をかかせてはいけないと思ったのでしょう。 私は上に兄2人と姉1人がいる4人兄弟の末っ子で、母が怒られた後、汚名返上とばかりに一番上の兄に一張羅を着せられて父の会社まで連れていかれました。

幼い頃は、石炭を運ぶトロッコに飛び乗って学校へ行ったり、町に流れる遠賀川で泳いだり、蝉を採ったり、夏祭りに行ったり、紙芝居のおじさんを待ったり、友達と遊ぶのが一番の楽しみでした。
その代わり、夜が大嫌いでした。友達と遊ぶことが楽しくて、夜になると「ああ、もう寝なくちゃいけない時間なんだ・・・」とつまらなく思っていたものです。

全身火傷により全身包帯姿で登校
全身火傷により全身包帯姿で登校

小学1年生の1学期、煮えたぎったお湯の入った大鍋を運んでいた母の肘にぶつかり、熱湯を全身にかぶったことがありました。
両親は、すぐに私を毛布に包んで病院につれて行ってくれ、皮膚の下に入り込んだお湯を注射で抜かれました。幸い、命にかかわることはありませんでしたが、小学校には、全身包帯姿で登校することになり、友達からは「透明人間」と囃さました。

また、小学2年生の時には、石炭カスの微粉炭の集積場にはまり込み、泥炭の沼に胸まで沈むかけたところを間一髪助けられたことがありました。集積された微粉炭の表面は乾燥していて、水を抜いた後の水田のようにひび割れているだけだったので、私は知らずに上を歩いてしまったのです。ところが、その下は泥のような重い流体になっていて、はまってしまった足を抜こうと踏ん張ったところ、反対側の足がさらに泥にとられ、抜け出そうとすればするほど、身体が沈んでいきます。一緒にいた友達は、恐ろしさで私を置いて逃げて行ってしまいました。そこへちょうど近所の人が通りかかり、何度か失敗しながらもロープを投げてくれて助かることが出来ました。
特にいたずらっ子だったり、落ち着きがない子供だった訳ではありませんが、小さいときに危険な目にあった記憶は鮮明です。

その反動かどうかわかりませんが、小学校1年の2学期には、級長(学級委員)に選ばれました。先の火傷のせいでなった「透明人間」姿が、クラスの中での存在感になったようです。その後、小学2年のときも、転校先の3年生でも級長になっていました。それは中学校を卒業するまで続きました。 最初に級長に選ばれたきっかけは「透明人間」だったかもしれませんが、私は子供の頃から気が短くて喧嘩っ早く、周囲に文句を言わせないところがありました。格好良く言えば、“強いリーダーシップ”でしょうか。当時の子供にとっては、強いことがわかりやすいリーダーとしての適性だったのでしょう。

中学校時代 ~正義感の強さと揺るがない信念を貫く

成績がよく正義感が強い中学生
成績がよく正義感が強い中学生

小学校でのリーダー・親分肌に加え、中学校ではさらに正義感が強くなったように思います。
クラス対抗リレーの選手を決める際、担任の先生が年配だったこともあって「君たちに任せるよ」と、選手の選抜を生徒に丸投げしてしまったことがありました。
するとクラスの悪ガキが、わざと心臓の弱い生徒をリレー選手に指名し、それにクラス全体が同調する雰囲気になりました。
その様子に私は我慢が出来なくなり、悪ガキに向かって「そんな汚いマネはするな!」、先生には「よそのクラスは、きちんとグラウンドでタイムを計って選手を決めているのに、先生はなぜわざわざ心臓の悪い子に決まって黙認しているんですか!?」と抗議しました。
私の指摘は筋は通っていますが、先生としては教師のプライドを傷つけられたことになります。先生からはものすごく怒られ、その場に正座をさせられました。それでも、自分は間違ったことは言っていないと思っていましたし、今でも思っています。

学校の成績は、小学校から何もせずともそこそこ良い方で、中学に入ってからは勉強するようになったので、さらに伸びました。ベビーブーム世代で子供の数も多い時代、1学年750人中、常に10番台の成績でした。
周囲は当然、私のことを一番偏差値の高い嘉穂高校に行くものと思っていたようです。ところが、私本人は家から歩いて3~4分にある嘉穂東高校を選びました。
「どうして?」「もったいない。」不思議がる周囲には、「むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」と言っていました。

高校時代 ~交友関係では軟派、進路決定では硬派

私の思惑どおり、高校入学後の実力テストでは学年2番になりました。
ところが、嘉穂東高校は、私が入る前年に九州大学合格者が1人も出なかったことから、学校としては九大に何人合格させるかに目の色を変え、九大至上主義・一辺倒になってしまったことに反発を感じていました。
私はなぜだか“1番”というのが嫌いなのです。高校を選ぶときもそうでした。今でもそういうところがあって、世の中でナンバーワンと認識されているものを好みません。2番手を応援したくなるのです。

3年生のとき、嘉穂東高校から香椎高校に転校しました。
九州の気風なのか、それまでは“男女7歳にして席を同じくせず”と思っていましたが、香椎高校はもともと女子高だったために、さばけた(今で言うとオープンマインドな)女子がたくさんいました。
転校してきたばかりの私にも気軽に声をかけてきて、「どこから来てるの?」「○○○○だけど・・・」「あっ、私と同じだ!じゃ、一緒に帰ろうよ!」「えっ?!」という展開に驚かされました。それまで、女子と一緒に帰るなんて考えたこともなかったからです。

女の子にかまけて勉強しなくなった
女の子にかまけて
勉強しなくなった

そんなことがあってよくよく見てみると香椎高校には綺麗で可愛い娘がたくさんいました。彼女たちからどんどん声をかけてくるので、それまでの私の価値観はがらっと変わってしまいました。
それからは女の子にかまけて勉強どころではなくなってしまい、とうとう3年生のお正月明けには、勉強をしなくなった私に母は涙しました。母の涙を見たのは生まれて初めてでしたから、これは本気を出して勉強しなければと心を入れ替えたのです。ところが、受験まではあとわずかもありません。また、両親からは浪人と県外の大学は駄目だと言われていました。
必死に勉強すれば九州大学という見込みもあったのかもしれませんが、西南学院大学に進学することに決めました。

大学時代 ~就職活動でたまたま目にした初任給に惹かれ・・・

私は、普通の高校へ行って普通の成績を上げ、普通の大学行って普通の成績で卒業し、普通のサラリーマンになりたいと思っていました。家が貧しかったので、普通のサラリーマンになって、普通の生活が出来れば良いと思っていました。
ですから、想像を絶する努力をしたり、何かを決めるときに深く考えたりした記憶があまりありません。基本的には、「行き当たりばったり」、いや「ばったりばったり」ぐらいの方が適当でしょうか。
大学の学部も深く考えずに商学部に決めました。男で文学専攻というのもどうかと思うし、出来たばかりの法学部というのもなんだか不安、経済学部も何をするのかよくわからないし・・・という中での消去法でした。
また、地元百貨店の岩田屋や、港湾での時給の良い少し危険なアルバイトもしました。

就職活動の時期、普通のサラリーマンになるなら、まず地元の福岡市役所だろうと考えました。求人票を見に行くと、初任給2万7,000円とあります。たまたまその隣に貼ってあった第一製薬(現:第一三共)の求人票には、初任給4万7,000円とありました。職種はプロパー(今のMR)と書いてあります。プロパーが何のことかは分かりませんでしたが、初任給は魅力的でした。
そこで第一製薬に応募してみたところ、受験出来ることになり、同じ大学から5人一緒に寝台列車で東京に向かいました。
列車の中では成績の話になり、友達は「俺は実力テストで4番」「俺は7番だった」と話しています。私は彼らが100番台の100を省略して言っているのだろうと思って、「お前は?」と聞かれたときに「37番」と答えました。他の4人は驚いて「嘘だろっ?!」ということになりましたが、もっと驚いたことに、彼らは100番を省略していた訳ではなかったのです。そして私の37番は、もちろん137番でした。
とはいえ、翌日は全員で第一製薬の試験に臨みました。友達が難しかったと言っていた筆記試験も自分としては簡単でした。そこで5人のうち合格したのは、私と、もう1人の2名でした。その1人もメディカルチェックで引っかかり、結局、最終合格は私1名で、第一製薬からは、私の誕生日である7月11日に無事内定書が届きました。
福岡市役所の方も試験は受けに行きましたが、既に内定をもらっていた第一製薬の初任給の魅力には勝てません。試験当日は適当に回答し、友達と早々に津屋崎の海に遊びに繰り出してしまいました。

実は、船に乗って海外に行ってみたいとも思っていたので、第一製薬の試験の前にもう1社、シェル船舶を受けていました。ところが、英語で「会社に入ってやりたいこと」を書く試験に歯が立たず、どうにか5行書いたところで「私の知識も尽きました・・・」としたため、文字通り力尽きました。
得意でない数学の試験にも苦戦し、面接でその試験の感想を聞かれました。私が「割と簡単でしたね。」と答えると、面接官に「それなら、どうしてこんなに出来が悪いのか?」と聞き返されました。私は「一般的には簡単なレベルだろうと思ったので『簡単でした』と答えたのです。しかし、数学が好きでない自分にとっては『難しかった』ということです。」と答えました。もちろん、シェル船舶は不合格でした。

就職(新人時代) ~早くも赴任2日目で辞表のはずが・・・

第一製薬に入社してから1ヶ月は、神奈川県葉山の御用邸の前にある研修所で新人研修を受けました。
その後、同期5人と福岡に配属になりました。さすが初任給の高い会社は、御用邸の前に研修所があったり、新人の赴任費用として福岡までの飛行機代も負担してくれるなんて素晴らしいなあと無邪気に感激していたものです。

会議中、最前列で居眠り
会議中、最前列で居眠り

福岡への赴任前には地元の友達に連絡をしておき、着任の前日みんなと一緒にたっぷりと飲みました。翌日の九州全土から約100名の社員が集まる会議で、案の定、私は一番前の席でぐっすり寝てしまいました。
上司から「お前、寝ているなら出て行けっ!!」と怒鳴られ、「ああ、憧れた普通のサラリーマン生活は早くもここで終わったか・・・」と失望し、出て行けと言われて、馬鹿正直に会議室を後にしました。
「さて、父には何と言おうか」「これからどうしようか」という思いが頭の中をぐるぐると駆け巡っていましたが、水で顔を洗ってさっぱりすると「よし、辞めよう!」と割り切りました。割り切れたら、もう上司も支店長も部長も関係ありません。あの人たちは、ただのオジサンだと思ったら怖いものがなくなり、何ごともなかったように会議室に戻ると、さっきと同じ一番前の席で腕組みをして最後まで話を聞きました。 その日家に帰ってから、申し訳ない思いで父に会社を辞めることを伝えると「お前はどこに行っても生きていけるから、大丈夫。辞めろ、辞めろ。」とあっさり返され、悩んだ割には肩透かしを食った格好になりました。
辞めるのであれば明日、会社へ行って上司に辞表を出さなくてはいけません。
翌日は、同期と一緒に支店長室に呼ばれました。支店長の話の流れから、辞めることを言い出すタイミングを逃しているうちに、「お前たち、今日はどうせやることがないんだろう。それなら、メシでも食いに行くぞ。」ということになって、とうとう事務所の中では言い出せずじまいでした。 支店長に連れられて店に入ってからも「これで辞めるって言ったら、メシの食い逃げみたいだしなあ・・・」と逡巡していました。
私の逡巡をよそに、支店長は新人一人ずつ順番に、「お前はこういうところがあるから、○○に気をつけて仕事をしてみろ」と本人への評価とアドバイスを始めました。
私の順番が回ってくると、支店長はこう言いました。「お前は、きっと会社の中で成績を上げるだろう。そして周囲の人みんなに好かれるだろう。その代わり、偉くはなれない。なぜかわかるか?一番前で居眠りをして、勉強をしないからだ。」
この言葉で、私の会社を辞める気持ちは一気に吹き飛んでしまいました。私は支店長に「今の言葉を覚えておいてください。10年後の私を見ていてください。」と返しました。「そうなんだ、そんなところが面白い。」と言われました。

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