生い立ち

幼少期 ~函館生まれ函館育ちのおばあちゃん子

はこだて観光大使としても活躍
はこだて観光大使としても活躍

私は、北海道函館で生まれ函館育ちで、今では「はこだて観光大使」にもなっています。
父はJR(旧国鉄)の車両点検のスペシャリスト、母はNTT(旧電々公社)に勤めていました。私が生まれたときには、曾祖母と祖母も同居していました。

私には4歳年上の姉がおり、きょうだいとしては二番目の子ですが、家にとっては長男です。父から聞いた話では、私が生まれたとき、父は曾祖母から「“骨たなき”が生まれて、おめでとうございます」とお祝いされたそうです。“骨たなき”というのは、骨を持つ・抱えるという意味の方言で、「お葬式の時にあなた(父)のお骨を抱いてくれる人=跡継ぎが生まれて、おめでとう」という喜びの言葉です。

祖母に育てられた幼少期
祖母に育てられた幼少期

私の父は11人兄弟の長男で、祖父(父の父)が比較的早く亡くなったために、若いときは一家の大黒柱として大変苦労をしたと聞いています。その父に長男が生まれたわけですから、曾祖母が非常に喜んで、仰々しいほど時代がかった挨拶になったということのようです。職人気質で几帳面な父も、この挨拶にはさすがびっくりしたと聞きました。

そんな曾祖母は、私がものごころつく前に亡くなってしまったので、私自身に記憶はありません。その代わり、父と母が共働きだったせいで、私はおばあちゃん子として、いつも祖母にくっついて育ちました。

小・中学校時代 ~小学校低学年から野球の才能が開花

実業団(新日鉄室蘭)で野球をやっていた叔父の影響を受け、小学校から野球を始めました。実業団時代で実力を評価され有名になっていた叔父は、プロ(大洋球団:横浜ベイスターズの前身)からも声がかかるほどのレベルでした。

その叔父と同じ血が流れているからかどうかはわかりませんが、私も、小学校1・2年生のときから5・6年生と一緒になって試合をしても、結構上手かったと思います。3年生になると、本格的に少年野球チームに入りました。
家族の休みや旅行のときでも、試合や遠征のスケジュールが入っているほど、小学校時代は野球漬けの毎日でした。

この後も大学まで野球を続け、その間、ずっとキャプテンを務めました。
小学校低学年にはじまり、最後は大学野球部の100人の大所帯をまとめた経験は、ビジネスの世界でのマネジメントの良い訓練になっていたと思います。

高校時代 ~地区大会で元同期の応援に感激

函館工業高校野球部ではキャプテンに
函館工業高校野球部ではキャプテンに

小・中学校と打ち込んでいた野球で、函館工業高校から受験のお誘いをもらいました。函館工業高校は、甲子園にも出場し、卒業生から何人もプロ野球選手が出ている野球の強豪校です。

ところが残念なことに、私が入学したときは、野球のことをあまり良く知らない先生が監督になっていました。
私は1年生の後半にレギュラーメンバーに入っていましたが、そのほかの1、2年生には、リサイクルの換金目的で部活の時間に空き瓶回収をさせるような先生でした。そのせいで、3年生に上がる直前には、20数名の同期が「もう、全員で野球部辞めようぜ」という話になり、いっせいに退部してしまうという事件がありました。

野球を辞めたくなかった私は一人残り、キャプテンとして・2年生だけのチームを率いて、地区大会に出場しました。
地区決勝では、確か全校応援の態勢だったと思います。気がつくと、スタンドから一番大きな声を出して応援してくれているのは、退部していった仲間たちでした。やはり、それぞれ野球に未練があったのでしょう。一人で残った私と後輩たちが頑張っている姿を見て、自分のことのように応援してくれたのだと思います。
残念ながら、甲子園に出ることはできませんでしたが、このときの感激した気持ちは忘れられません。

大学時代 ~就活スタートは遅れるも、大学初の山一證券合格

大学進学では、野球の強豪である函館大学から特待生での受験のオファーがありました。
試験の結果、4年間特待の3名に選ばれました。
スポーツ特待なので、試合や遠征の場合、授業は公休扱いになるのですが、私はそれに甘えるのが嫌で、試験はしっかりと受けました。そうは言っても、授業は欠席しているわけですから、試験前は勉強ができる友達のノートを借りまくって勉強したものです。借りたノートのページの間に挟まっていた消しゴムのカスの跡さえも記憶してしまうほど、眼光紙背に友達のノートを読み込みました。その結果、4年間53単位のうち、「優」が52単位、残りの1単位は「良」の成績を修めることができました。

ところが、4年の秋までキャプテンとして試合に出ていたため、就職活動については、まったく周囲に遅れた格好です。

『メンズCLUB』に掲載されたことも
『メンズCLUB』に掲載されたことも

もちろんノンプロのチームからスカウトもあったのですが、遅ればせながら、興味のあったアパレルのメーカーの試験を受けたりしました。(野球漬けの体育会系が、「なぜ急にファッションの世界に?」とお思いかもしれませんが、私は大学時代に“街のアイビーリーガー”というキャッチーで『メンズCLUB』に載ったこともあるんですよ。当時は、紺のブレザーやモカシンなど、アイビー・ルックが流行していた時代です。懐かしいですね。)

そんなとき、当時4大証券と呼ばれていた一社である山一證券から試験を受けてみないかという声がかかりました。
当時はバブル最後の絶頂期で、山一證券も営業職として新卒学生の大量採用を進めているなか、大学の学長が山一出身だったために、依頼があったのだと思います。それまでの卒業者の就職先としては、証券会社は準大手・中堅止まりでしたから、依頼された学長の面子もありますし、後輩へも道を開くという意味で「是非、お前受けてみろ」という話になりました。

山一證券は同じ大学から何人か受け、結局合格したのは、私を含めて2名だけでした。
そうなると学長から総務部長に至るまで「是非、山一證券へ入ってくれ」とお願いされました。
野球部の監督からは、「もしノンプロに入ったとしても、その後、プロになるのは並大抵ではない。お前はきっとビジネスの世界に行った方が成功すると思う」というアドバイスをいただきました。私にとって、監督は一番尊敬する絶対的な存在でしたので、この言葉が山一證券を選ぶ決め手になりました。

就職(新人時代から独立まで) ~祖母の教えとお客様に育てられて

生まれてから大学卒業までずっと函館で過ごし、就職で初めて東京で暮らすことになりました。
東京に発つ日、ずっと親代わりにそばにいてくれた祖母が、私に3つ伝えておきたいことがあると言いました。
ひとつは、「俺が(我)、俺が(我)の我を捨てて、おかげ(下)おかげ(下)の下で暮らせ」、
ふたつ目は、「大人になるということは年齢を重ねることではなく、人の心の痛みが分かるようになったとき、初めて大人になったというんだよ」、
みっつ目に「“お金”持ちになるためには、“人”持ちになりなさい」ということでした。
はなむけの言葉を伝えた祖母は、私を乗せたタクシーが見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。車のミラーにずっとその姿が映っていた光景は、今でも忘れられません。

山一證券時代、最年少での課長のポジションに
山一證券時代、最年少での課長のポジションに

山一證券に入社してみると、同期の営業職は400名もいました。
最初は大宮支店に配属になり、若いときから富裕層のお客様を中心に成績を上げ続け、その間、本店の事業法人部から何度も異動のラブコールをもありました。
支店長としては、若手の稼ぎ頭を手放したくないという思いがあったのでしょう。結局、大宮支店には8年半在籍しました。

そこでようやく、次は従業員組合専従の副委員長として出ることになりました。組合専従で副委員長ということは、一般的には、将来の幹部候補と目されているということです。
私は、国内は中部地方と海外はヨーロッパ地域の担当として、忙しく担当地域の支店を回る毎日が続きました。
もともと、何事もやり抜く性分が、周囲にはやり過ぎととらえられたのでしょう。1年で組合から戻ることになりました。

戻った先は、池袋支店、最年少での課長のポジションでした。そのため、私のサブについてくれた部下は年上です。着任にあたっては、彼に「社内では、立場上、部下として命令しますが、一歩社外へ出たら、先輩として礼を尽くさせてもらいます。」と伝えました。実際に、オフィシャルな場では私は課長としてふるまいましたが、夜一緒に飲みに行ったときは、率先して年上の部下にお酌をしました。周囲もそんな姿を見て、若いながら私を信頼してくれていたと思います。
実際、当時、全国137か店中130位程度だった池袋支店の業績は、私が着任してから6位にまで急上昇しました。

ところが、池袋支店に着任してから約1年後、山一證券は破綻しました。
その日は土曜日で、課のメンバーとバーベキューに行く予定にしていました。当日の早朝、部下からの「課長、大変なことになっています!早くテレビをつけてください!!」という電話で突然、廃業を知ることになったのです。

お客様を守るため、山一證券の店舗や社員のほとんどはメリルリンチ日本証券に移行・譲渡されました。私もたくさんの重要顧客を抱えていたため、いったんメリルリンチに移籍しました。その中の複数のお客様から非常勤でいいから、是非顧問として自分の会社に来てくれないかとのお声をかけていただきました。会社の就業規則で副業は禁じられていたため、無報酬でならと思い、人事に掛け合ってみましたが、報酬の有無に関係なく、他社の顧問を兼任するのは駄目。それなら、肩書きなしで税務相談などに乗るのはどうかと確認したところ、税理士など公的資格もないのにそのようなサービスをするのも駄目だと言われてしまいました。
そのとき、「私はこれまで、お客様に育てられ、お客様に助けてきてもらったのではないか。それなのに、会社勤めをしていることが、お客様のお役に立つための足かせになってしまうなんて何と無力で、本末転倒ではないか」と愕然としました。

そこでメリルリンチに移籍から1年半後に、私は独立することにしたのです。それから今日まで14年間、最初はお客様のファイナンシャルプランナー的な立場でお役に立っていましたが、だんだんと、経営コンサルから営業研修、顧問など、幅広くご支援をさせていただくことになりました。
これもすべてはお客様に導かれて、ここまで来ることができたのだと、心から感謝しています。

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