生い立ち

幼少期 ~「感覚」「感性」のDNAを受け継ぐ

父は元舞台照明、母や姉は舞台女優という芸術系家系
父は元舞台照明、母や姉は舞台女優という芸術系家系

父は、フリーランスで舞台照明の仕事をしていました。また、母は、父が仕事をしていた舞台の女優でした。そういう意味では、僕は“感性”の世界の人たちから生まれたんですね。実際、4つ上の姉は、一時期、いまでは有名になった劇団に在籍し、シェイクスピアの「マクベス」の準主役まで務めた女優でした。また9つ下の弟は、テレビ局でスポーツの中継をしていました。今は、転職してBS放送のディレクターをやっているようですけどね。僕はコンサルタントなので論理的思考の人間と思われがちですが、実は、本質的には“感覚の人”だと思っています。

結婚を既に、父は収入が不安定なフリーランスから広告代理店に中途入社し、HONDAや文明堂のプロモーションを担当していました。同じ感性・芸術系の人種でも、父と母はまったくタイプが異なり、父は職人気質で女性は家にいて家庭を守るべきという考えを持っており、母は既に女優は辞めていましたが、外に出て働くのが好きなタイプでした。当時、共働きの母に代わって母方の祖母が同居してくれていて、僕はお祖母ちゃん子として育ちました。その祖母によると、幼い頃の僕はとても大人しい子供だったそうです。僕は神戸生まれですが、祖母は自分の出身地である播州あたりまで良く連れて行ってくれました。その時も、僕にはミニカーを2つか3つ与えておけば、いつまでも黙って一人遊びをしていたと聞いています。祖母は冗談半分で「この子はしゃべられんのかね」と言っていたそうです。

小学生時代 ~転校先での大ケンカで自己主張に目覚める

けんかきっかけで自己主張に目覚める
けんかきっかけで自己主張に目覚める

小学校に入学して1学期だけ神戸で過ごし、2学期から千葉県八千代市の学校に転校しました。小さな子供ほど無邪気な残酷さを持っているもので、僕のような関西弁をしゃべる転校生は、今でいう格好のイジメの対象になりました。おそらく相手は、珍しいものへ好奇な眼差しを向けていただけなのでしょう。しかし、こちらは、彼らに対してしっかり主張しなければ、潰されてしまうという危機感がありました。

ある日、クラスで一番身体が大きかったタブチ君がちょっかいを出してきたとき、とうとう僕は本気で反撃に出ました。周囲の机がひっくり返り、教科書が飛び散らかるほど、激しい取っ組み合いの末、結局、僕が勝ちました。それまで、されるがままの大人しい転校生だと思っていた僕が、突如、激しい攻撃を見せたため、クラスのみんなは驚いていました。それをきっかけに、クラスメートの僕を見る目が変わった気がします。それから小学校から中学校まで毎期学級委員を務め、小・中学校とも生徒会長までやりました。
また、大好きな野球は、小学校2年生から始めました。

中学校時代 ~寄せ集め中学で、小学校に続き“外様”の時代

9つ下の弟が生まれたのを機に、少し広い家に住み替えようということになり、ちょうど中学校に上がるタイミングで八千代から新松戸に引越しをしました。新松戸は文字通り新しく造られた町で、旧来からの地域と新興開発された地域を合わせて、学区整理が行われました。新しい学区は、通学路の安全性などを考慮した上で旧学区が部分的に集められ、同じ学校に通いながら、制服や体操服がばらばらという寄せ集め状態でした。その中で、新しく開発されたマンションに住む生徒はマイノリティにグループされていました。引っ越してきた僕も、当然マイノリティ扱いです。中学校でも“外様”な状況に、小学校に続いて自分の意見ははっきり伝えることの訓練になった環境だったと思います。

高校時代 ~人生3度目の“外様”とプロ野球のキャリアを諦める

小学2年生の時に始めた野球は中学校でも続け、高校は、野球の強豪校だった土浦日大高校に進みました。各地から強豪校に野球少年が集まってくると言っても8割は茨城県内出身ですから、千葉県から越境してきた(しかも標準語をしゃべる)僕は、ここでも外様です。しかも、野球部員だけが3年間全寮制です。その上、寮には学校の先生や管理人がいるわけではなく、学生自身の運営になっていたため、血気盛んな高校生たちで、良く言えば自由、悪く言えば荒れ放題です。新入生のとき、先輩から「おめぇ、××だろ?」と訛りのきつい茨城弁で質問され、聞き取れずに「え?」と聞き返したところ、そのまま先輩に殴られるという環境でした。高校に入って人生3回目の外様です。お蔭で、厳しい状況のなかでも自分自身の存在や意見を主張するための力を養うことになりました。

将来の進路はプロ野球選手と決めていたが
将来の進路はプロ野球選手と決めていたが

土浦日大に進学したときから、将来の進路はプロ野球選手と決めていました。ところが、同じ県内の強豪校である常総学院や取手二校などに敗れ、残念ながら甲子園に出場する機会はありませんでした。そうなると、高校時代にプロからのスカウトを期待する訳にもいかず、大学に進んで野球を続けることにしました。大学へ野球のセレクションを受けに行ったとき、高校時代の先輩、しかも僕たちより強かった世代のキャプテンだった人が、グラウンドで練習している姿が目に入りました。しかもただの玉拾い役です。一軍の選手たちは、遠征で学校にはいないはずですから、その先輩含め学校に残って練習しているのは、二軍・三軍レベルです。「あの先輩のレベルでも玉拾いしかさせてもらえないなんて」と愕然としました。また、僕のポジションはショートだったのですが、大学生の選手たちは高校生の自分より2歩ほど後ろに下がって守っていました。たった2歩と思われるかもしれませんがこの差は大きいのです。プロ野球ならばもっと下がって守るはず、それでは自分ではとても送球が間に合わないと思いました。

この瞬間にすっぱりと野球のキャリアを諦めました。そこから、セレクションの結果も待たずに猛然と勉強を始めました。その結果、クラスで1番になり、幸い付属高校でしたから成績で大学へ推薦してもらえるレベルに間に合って、何とか日大の農獣医学部(現:生物資源科学部)に入ることが出来たのです。本当は心理学科あたりに行きたかったのですが、学部は高校の成績順に輪切りで決められてしまいます。僕の成績だと農獣医学部だということになり、周囲からも「これからの時代はバイオだよ」と言われ、「じゃ、ま、いっか」という感じで決めてしまいました。

大学時代 ~サラリーマン以上に稼いだアルバイトと卒業2週間前の就職活動

野球からも勉強からも解放され、大学時代はアルバイトや自分でビジネスをやって、ひと月に20万円以上稼ぐこともありました。もともと起業したいと思いがあったため、周囲と同じような就職活動もしませんでした。それでも、一度は会社生活も理解しておいた方がいいという思いと、普通のサラリーマンの窮屈さは嫌だという両方の思いがあり、「スーツを着なくていい」ことと「海外に行ける」ことを就職先の条件としました。父に頼んで伝手をたどってもらったところ、鉄鋼会社のオーストラリア工場での勤務の話があり、そこ1社で就職を決めてしまいました。しかし、その後、中堅のリース会社から「ニューヨークやロンドンに支店を出しで海外進出するから来ないか」という話をいただきました。大学4年生の3月10日過ぎの時期です。スーツを着なければならないのはちょっと難でしたが「同じ海外ならオーストラリアより、ニューヨークの方がカッコええやん!」と思い、大学卒業2週間前にころっと就職先を変更しました。

就職(新人時代) ~ビジネスの基礎を教えてもらった人との出会い

ビジネスの基礎を教えてもらった人との出会い
ビジネスの基礎を教えてもらった人との出会い

就職したリース会社は中堅といっても、数年後には1兆円近い貸付金がありましたから、ちょっとした銀行並みです。ところが、入社後バブルの崩壊によって、ニューヨーク進出の話も文字通り泡と消えました。お客様の方も借りたお金が返せなくなり、物納が増えてきました。そんな中、物納されたハワイのリゾートホテルの再建を任された会社に出向することになりました。ニューヨークに憧れて入った会社だったので、ハワイにはまったく興味はありません。むしろ、いやだなと思っていました。それでも「どうせ潰れるホテルなら、まあいいや」くらいの軽い気持ちで東京とハワイを行き来する生活が始まりました。この再生案件は、日本ペプシコ社の社長をつとめたこともあるアメリカン・マーケターの浜崎さんという上司と僕の二人で担当することになりました。浜崎さんは、僕のキャリアや考え方に非常に大きな影響を与えてくれた一人です。浜崎さんからマネジメントとマーケティングの理論と実践を学び、これが僕のビジネスの基礎の一つとなっています。

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