生い立ち

幼少期 ~家業の倒産で経済環境が大きく変化

父が経営していたスーパーが順調に業績を上げていたころ、私は藤沢市で生まれ、幼い時には何不自由なく恵まれた環境で育ちました。
ところが、私が5歳の時、父のスーパーが倒産し、それまでの生活が一変してしまったのです。
父はアイディアマンで行動力もあったため、スーパー以外にも薬局や飲食店など複数の店を営んでいましたが、倒産のショックでうつ病になり、働けなくなってしまいました。
そこで薬剤師の母が、残った小さな薬局をほそぼそと切り盛りし、家族が何とか生活していくという状況に追い込まれてしまったのです。父に代わって母は働きづめでした。それでも経済状況は厳しく、とうとうお米すら家にはなくってしまうくらい追い詰められたこともありました。近所にお米を借りに行った母が「断られちゃった・・・」と、気丈に、でも寂しそうに笑った顔は、今でも忘れられません。
スーパーの経営が順調だったころには、お店の一角にプラモデルを扱う一角がありました。ガンダムブームなど男の子たちにとって、当時プラモデルは非常に人気がありました。そのため、日常的にプラモデルに囲まれていた私は、友達からはとてもうらやましがられる環境にありました。ところが当の本人は、当時それほどプラモデルに興味もなく、ありがたいとも思っていなかったのですが、お店が倒産してしまうと急にプラモデルが欲しくなってしまいました。ある時「どうしても300円のプラモデルが欲しい」と両親にねだったところ、「それなら毎日10円ずつ貯めて自分で買いなさい」と言われたことを覚えています。

小学生時代 ~人と同じ道は歩きたくない!集団登校の拒否

早くから主体的な行動に目覚める

私は幼いころから人と同じことをするのが嫌いで、人とは違った道を選ぶ傾向が本質的にあるようです。
小学校に上がって1年生の初登校でも、上級生に引率されて集団登校するルールを拒否し、毎日一人で登校していました。しかも、その日の気分や天気によって、学校までのルートも変えていました。
そのことが、他のお母さん方から私の母の耳に入るところとなり、「どうして、あなたは他のお友達と同じことができないの?」と母を嘆かせたこともありました。

そして、小学校6年生の卒業文集には、既に将来の夢を「医者」と書いていました。
しかし、私は「血」が大の苦手だったことと、薬剤師になって両親のために早く実家の薬局を継がねばという想いで、一旦は医者になることを諦めざるを得ませんでした。

中学校・高校時代 ~医学部へ、受験2週間前での進路変更

小学校時代の夢を諦められず
受験2週間前に医学部へ進路変更

小学校を卒業した後は、中・高一貫の男子校に進みました。
今でこそ、この本のタイトルにもなっている「情熱」がモットーの私ですが、当時は医師への道を諦めていたため、将来に対して確たるコミットメントも持たず、普通に勉強し、普通にスポーツをして過ごした学生時代だったように思います。
勉強もトップではありませんでしたが、学年で上位10人くらいの中にはいました。スポーツは中学校から軟式テニスを始め、中学校の時には市大会で優勝、高校生の時には県大会で3位に入りました。また、湘南の海が近かったので、友達と良く遊びにも行きました。
それでも今の自分からすれば、このころは随分「ヘタレ」だったと思います。

薬剤師になって家業の薬局を継ぐべく、大学進学では薬学部を受験することにしていました。ところが、医者への道をどうしても諦めきれずにいたことを両親に伝えると、快く医学部への進学を許してくれたのです。大学受験2週間前のことでした。
医学部を受験するとなれば、受験科目数もレベルも格段に違ってきます。そこから猛勉強し、2浪の後、日本大学医学部に合格しました。

大学 ~他の医学生にはない「商売」の仕組み・本質を学んだ経験

実家の手伝い(薬局)を通して
商売の仕組み・本質を学ぶ

進学してみると、周囲の学生は裕福な家庭の子どもばかりでした。多くの学生は外車を乗り回し、夏休みなどの長期休暇旅行も派手にヨーロッパなど海外ばかり。
そんな彼らを横目に、私はと言えば、休みは朝から実家の薬局の手伝いです。値札付け、商品棚のPOP書きからレジ打ち、店頭でのチラシ配りもやりました。
ほそぼそと1店を切り盛りしていた時代から母は愚痴一つこぼさず家族のために一生懸命に働き、また、お客さまのために商店街で一番遅くまで店を開けていました。日常的な健康相談にも、急な子供の熱で飛び込んでくるお客さまなどにも真摯に誠実に対応する人柄が評価され、このころには経営も再度軌道に乗ってきました。
当時ちょうど、また複数店舗を展開し始めたころだったので、好むと好まざるとに関わらず、私も店の手伝いをしなければならない状況でした。そんな環境に、当時は裕福な家庭に生まれた同級生と自分を比べて、随分劣等感を抱いたものです。
しかし、ドクターでありながら「商売」や「経営」の本質に触れた経験のある人はほとんどいないと思います。
高校・大学時代に日々「商い」の現場を体感しつつ、今回の新規開店は成功だったのか、配ったチラシの効果はどのくらいか等「ビジネス」の観点から戦略を検証するクセがつきました。
当時コンプレッスクだったこの経験が、今となれば当グループの経営にとって大きなアドバンテージになっていると思います。

硬式テニスでの優勝が
自身に情熱が宿るきっかけとなった

中学・高校と続けてきた軟式テニスは、大学で硬式テニスに転向しました。
軟式でも6年間続けてきていたので、硬式でもすぐ通用すると思ったのです。
ところが、硬式テニスはラケットもボールも打ち方も軟式とは違います。周囲はジュニアの時から硬式でトレーニングし、試合に出ている人ばかりです。完全に舐めていました。
悔しさのあまり、365日毎日テニスの練習に打ち込み、最後はとうとう関東リーグ526人の中で優勝することができました。
実はこれが、私の人生にスイッチが入る大きな契機になったのです。この経験で、どんなことでも目標を定めたら強い信念でそれに向かって努力をすれば、必ず実現できることを身をもって知りました。トップになることを目標にしてゴールから逆算すれば、今の自分に何が不足し、何をすれば良いのかが分かります。後はそのギャップを着実に埋めていけさえすれば良いのです。
目標の実現には、ゴールに対する揺らぎない確信、コミットメントの強さが大事であることを学びました。

就職・起業 ~人の10倍速で経験を積み、家業2階倉庫からの出発

コンプレックスをきっかけに
美容外科医を目指す

26歳で大学を卒業して、医師免許の国家試験に合格すると、まずは癌研究所付属病院で麻酔医としての研修医生活がスタートしました。

実は、背の低い私は中学生のころ、道ですれ違った女の子同士のひそひそ話で「あの人カッコ良いけど、背がちっちゃいね」という声が聞こえてしまってからというもの、怪しげなものまで含めて背を伸ばすために色々と涙ぐましい努力を重ねました。ところが、それを見かねた両親に連れていってもらったクリニックで「病気ではないので、治療の必要なし」とにべもなく言われてしまったのです。
この時の悔しさが、美容外科医を目指すきっかけとなりました。

早く独立して両親を安心させたいという想いがあり、最初から3年で独立すると決めていました。父から「お前には勤務医は向かない」と言われていたことも頭にありました。
短い期間にできる限りの経験を積もうと考え、とにかく休みを返上して働きました。また、他の研修医とは違い、院内にある医療機器を見ても、仕入れ価格や仕入れ先などビジネス的なことも同時に気になったりしていました。

美容外科医として独立するためには、専門クリニックで1日も早く、1件でも多く手術の経験を積むことが必要です。医師としての技術を上げるためには、上手い人の手術を見ることと自分で数多くの件数をこなすことです。
そこで、当時若いドクターを受け入れていた美容クリニックに転所しました。
そこでは、通常の美容外科より5倍から7倍も多く手術を実施していました。その上、休みも惜しんで働いた私は、同じ時間の中で他の美容外科医の10倍近い経験を積んだのではないでしょうか。

1院目となる湘南藤沢院開院

そして、予定どおり3年経った29歳の時、独立しました。
独立と言っても、十分な資金がある訳でも最初からお客さまがいる訳でもありません。そんな時、父が素晴らしいアドバイスをしてくれました。「最初は“敵”のいないところでやった方がいい・・・」。
当時の藤沢には本格的な美容外科クリニックはありませんでした。そこで、倉庫となっていた実家の薬局の2階で開院することにしたのです。
当然、家賃・敷金・礼金なしですから、開院コストは内装費だけです。必要な約1,500万円のうち1,000万円を両親から借り、内装・設備を整えました。机や椅子などもリサイクルショップで購入し、できるだけコストを抑えるようにしました。
美容外科ではブルーオーシャンの藤沢市とは言え、すぐにお客さまが来てくれるはずがありません。「日本一のクリニックになる」ことを目標に開院した私は、必ず実現させる想いを胸に、診療の合間に駅前や商店街でチラシを手配りしたり、夜な夜な住宅街のポストへのチラシ投函を地道に続けていました。
そこで数ヶ月もすると少しずつ予約の電話が入り、徐々にお客さまも増えていきました。
もともと、競争のないエリアで最初の開院コストを低く抑えたこともあって、1院目はすぐに軌道に乗りました。それが、次の拠点展開のつながりやすさになりました。

好きで究めた脂肪吸引技術が
評判となり口コミから広がった

私は、独立前に勤務していた美容クリニックで脂肪吸引という技術に出会い、大好きになりました。脂肪吸引とは、カニューレという管を使って皮下脂肪を吸引していくのですが、これがひたすら体力との戦いなのです。当然、施術中は臓器や血管を傷つけないように気も使いますので、1回5時間~6時間と非常に施術に時間もかかります。そのため、好んで脂肪吸引を行う美容外科医は多くありません。
私には、両親にもともと丈夫に生んでもらった身体とスポーツで鍛えた体力と精神力があったため、脂肪吸引はそれほど苦になりませんでした。むしろ、施術の結果・効果がすぐに目に見えて分かるので、大好きになったのです。そして他の医師が敬遠するところを、好きでどんどんこなしていくことによって、技術はさらに磨かれていきました。
また、普通の医師が50%しか吸引できないところを、体力がある私は85%吸引できていました。お客さまからしてみれば、腹部の料金でウエスト部分まで施術してもらえることになるのです。
他院でなかなか歓迎されない脂肪吸引が、当院では上手いドクターが期待以上にやってくれるということで評判になり、まず口コミで「脂肪吸引の湘南美容外科」が広まっていきました。
脂肪吸引は、単価が高い上、必要なのはほぼドクターの技術力だけなので、実は利益率が高いメニューです。また、他の美容整形箇所に比べて、範囲が全身にわたるためリピート率の高い施術です。私としては、もともと好きだった脂肪吸引が、結果としてビジネスにとっても優位性があったということなのです。
これも父の言葉ですが、「『損得』でやっていることは、『好き』でやっている者には負ける」ということがあります。ですから、私が損得で脂肪吸引を選んでいたら、グループと私自身のここまでの成長はなかったでしょう。

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