生い立ち

幼少期 ~明日は必ず今日よりも良くなると信じ、皆が輝いていた時代

私は、昭和28年に徳島の田舎で生まれました。
物心がついて最初に幼い記憶があるのは、幼稚園から小学校に上がる頃です。
当時を思い出すと、周りには子どもたちがたくさんいて、自分も含めてみんな汚い格好をして、いつもお腹をすかせていたように思います。まだ、どこの家も子どもが多い時代でした。私も3人兄弟の長男です。
それと同時に、子どもにも大人にも笑顔が多く、皆、目が輝いていたように思います。貧しいながら、今日よりは明日、明日よりは明後日と、毎日毎年が良くなっていくことが実感でき、将来の成長を信じられた時代でした。
そのような明るい雰囲気の中で、私は妹や弟を含め、年下の子どもたちを集め、ガキ大将的な存在で面倒をみたり遊んだりして過ごしていました。

小学校・中学校時代 ~劣等感と不安にさいなまれた思春期

子どもから大人への過渡期

スポーツは苦手ではありませんでしたが、団体競技の球技は嫌いでした。
また、足もそんなに速くなかったため、全員で競走させられる「かけっこ」が大嫌いで、運動会が近づいてくると、毎年ものすごくユウウツになったことを覚えています。
一方、器械体操は得意で大好きでした。ちょうど、小学校5年生のときに東京オリンピックがあり、体操競技で優秀な成績を上げた日本が“体操ニッポン”と呼ばれていた頃です。跳び箱やマット、鉄棒を中心としたスポーツ検定では、一級もとりました。
ところが、小学校高学年ぐらいになると子供から大人への過渡期で、無邪気な子供の心から精神的に複雑さが増してくる時期です。
親を除いて、小学生にとって大きな影響力を持つ大人は、担任の先生でしょう。私の担任は大変厳しい指導をする人で、ことあるごとに「だからお前は駄目なんだ」「どうして出来なんだ」と言われ続けているうち、すっかり自信をなくしてしまいました。そのせいで、小学校低学年までのガキ大将の面影は鳴りを潜めてしまいました。

中学校に上がると、軟式テニス部に入りました。入部してみたものの、先輩は偉そうにしているし、ラケットも持たせてもらえず、毎日吉野川を走らされるばかりで、1週間で辞めてしまいました。
実はこの後も大学生のときに、武道なら大丈夫だろうと合気道部に入りました。ところが、部内での先輩・後輩の関係があまりにも理不尽で、これも2週間で辞めました。
この時から、組織の中でちゃんとやっていくようなタイプではなかったのかもしれませんね(笑)。

中学2年生になると高校受験にも大変不安を感じ、徳島県で一番の進学校を受験することを疑わない両親の期待を思うと、胸がつぶれるような思いをしていました。
そこで中学3年生のときは、学校の授業以外に一日8時間みっちり本気で勉強しました。買ってきた参考書を一晩で読破・解答したこともあります。おかげで、一気に成績はあがり、第一志望の安全圏まで順位を上げることが出来ました。ここぞというときの瞬発力は、若い頃からあったと思います。

高校時代 ~進学校で周囲の成長のスピードに悩む

ところが、県下一の進学校に進んでみると、自分より頭の良い学友に囲まれてまたもや劣等感を抱くことになりました。
中学から高校にかけては、身体も頭も成長のスピードに個人の差が大きく出る時期です。私はどちらかと言えば奥手のタイプで、ぐんぐん成長する周囲の友だちを見て、引け目を感じてしまいました。
当時は東大・京大含め難関大学に100名以上進学していた学校でしたが、勉強に対する意欲までなくしてしまい、成績は学年で中の中から中の下くらいまで下がってしまいました。
私の両親は普通のサラリーマンでしたし、妹と弟もいたため、県外の大学や私立大学に進学することは経済的に難しいことは分かっていました。
そこで、得意な理系教科や英語を生かし、地元の徳島大学工学部を受験することに決め、無事合格しました。

大学時代 ~就職難の時代、持ち前の瞬発力と運の力でNTTに内定

大学ではほとんど授業に行かず、パチンコやマージャン、ドライブやデートばかりしていました。試験をさぼって愛媛の石鎚山に行ったこともあります。
しかし、3年あまり毎日遊んでばかりいると、さすがに、「これでいいのか、何かしなければ・・・」という想いに駆られるようになりました。いろいろ考えた結果、「そうだ、英会話を勉強しよう!」と思いつきました。これから世界との交流が広がっていけば役に立つと考えたからです。そして、徳島市内で英会話をスクールを探しましたが、残念ながら当時田舎の徳島には英会話スクールは一軒もありませんでした。
この時から、早く就職して刺激の多い東京で働きたいという想いが非常に強くなりました。そして就職の心配もするようになりました。

私が大学に入学した年(昭和47年)、田中角栄の『日本列島改造論』がきっかけになり、日本は一時期、土木・建築を中心に景気が拡大しました。ところが、私が就職活動を始める頃には雲行きも怪しくなり、研究室に毎年きていた大手メーカーからの推薦応募枠も地方大学には回ってこなくなっていました。厳しい就職活動を強いられるなか、NTT(当時は電電公社)が四国で1名だけ採用するという話を聞きました。おそらく100名以上応募があったと思いますが、駄目モトで受けてみたところ、なんと合格してしまったのです。
当時、親に頼み込んでもらい、ツテで地方銀行の内定ももらっていましたが、工学部ということもあり、その時はあまり深く考えずにNTTに就職先を決めました。お世話をしてくださった銀行の役員には母と一緒に謝りに行きました。その人は快く「君のやりたいことをやったらいいよ」と言ってくださり、その後20年以上、お盆と暮れには欠かさず挨拶に伺いました。

就職(新人時代) ~現場でビジネスパーソンとしての頭と足腰が鍛えられた頃

大卒・院卒含めて同期は約300人いました。
就職で初めて上京し、ラッシュ時の電車の乗り換えの激しさには衝撃を受けました。電車に乗るために、大人がホームを走っている姿には本当にびっくりしたものです。
生活環境の変化に加え、会社の中では、全国から集まってきている同期が優秀に見え、地元のなまりが残る自分に、自信をなくしたりもしていました。

NTTでは入社後の3年間は育成期間として扱われます。
最初の1年半は北海道北見の電報電話局に配置されました。徳島出身でしたから、出来れば暖かい九州あたりに行きたかったのですが、反対訓練というのか、冬はマイナス30度にもなるまったく逆の地域に配属になりました。
出身の徳島より小さな町で、夕方6時を過ぎると商店街のシャッターが下り始めます。遊ぶところも若い女性もいない町でしたが、その代わり仕事には打ち込めた環境だったと思います。現場に配属になったことで、実際の業務を色々と教えてもらったり、現場のリアルな課題なども見えてくるようになりました。

北見から戻ると、東京の研修センターで2ヵ月半カンヅメ状態になりました。グループをつくってそれぞれテーマが与えられ、報告発表の日が決められます。発表会まではタイトなスケジュールで、ほとんど寝る暇もなく作業したりメンバーと議論したりの毎日を過ごしました。発表会では本社から来た調査員、調査役の厳しい指摘なども受け、短期間にぎりぎりと鍛えられました。

集合研修の後は、交換機の保守・メンテナンスを行う本社の保全局に配属になりました。当時は電話交換機に不具合が起きると、制御ソフトのバグ潰しで一週間自宅に帰れないこともざらでした。当時、日比谷のビルの地下4階には湿っぽくてかび臭い仮眠室があり、夜通し仕事をした後、朝の3時か4時にそこに倒れこむと、お昼前に慌てて上司が探しにくることもしょっちゅうでした。
また、部署内では一番下でしたから、誰よりも朝早くオフィスに出勤し、全員のデスクの雑巾掛けをします。そして、出勤してくる順に上司・先輩にお茶を入れるのも私の役目でした。ある課長は出勤時刻が早かったので、当時住んでいた国分寺の寮をまだ夜も明け切らないうちに出なくてはなりませんでした。
その頃は、まだまだ電話の加入者が増えている時期で、仕事はたくさんあり、何でも楽しい時代でした。
私が30歳になる頃までのNTTは、真面目にやっていれば40歳になるあたりまで皆横並びでいける人事制度になっていて、ポストもたくさん用意されており、ある意味のどかで平和な環境だったといえます。

転機 ~マネジメントと目の当たりにした経済のパラダイムシフトの経験がその後の経営に影響を与えた

1985年の民営化とデジタル化の波でNTTも人余りとなり、リストラクチャリングしなければならない時代に変わってきました。
私の方は、30代になって部下が出来「マネジメント」の勉強をした時期でした。
電電公社時代はマネジメントではなく“管理”と呼んでおり、特に“労務管理”をすることが管理職の大きな役割でした。
30代の私が、自分の経験の中で「マネージャー」の役割として理解したのは次の4つのマネジメントです。
一つは「人的リソース」、二つ目は「お金」、三つ目が「時間(スケジュール)」、四つ目は「情報」。これらの要素を上手くマネジメントできる人材が、これからの管理職に求められることを身をもって理解しました。

30代の半ば過ぎ、九州支社のISDN推進室長で熊本に赴任しました。このときは、アプリケーション開発から設備対応、営業、お客様サポートまですべて対応しなければならなかったため、小規模ながらビジネスの流れというものを全部把握する良い機会となりました。この時の経験が、現在の経営というポジションにも大きく影響を与えていると思います。

会社設立 ~不退転の覚悟による逆境からの復活と時流をつかんだ新しいビジネスの立ち上げ

それから長距離事業本部・担当部長時代に、「マルチメディア通信の共同利用実験」プロジェクトへの参画を経験した後、固定回線に代るNTTの新しいビジネスを立ち上げる「マルチメディアビジネス開発部」に配属になりました。ここが、現在のNTTぷららの前身となる「ジーアールプロジェクト」との出会いでした。
1995年に企画会社として設立され、1996年に事業会社化した「ジーアールホームネット」は、eコマースで新しいビジネスを立ち上げるため、NTT、ソニー、セガ、ヤマハ、日本ビクターからの出向者による寄り合い所帯でスタートしました。資金的にもほぼ均等な出資比率で、NTTが発起人とは言え経営の主導権はあいまいで、間もなくジーアールホームネットは完全に舵を失った船のようになってしまいました。

1998年のある日、上司から「板東ちゃん、昼飯でも行かないか?」と電話がかかってきました。普段は「ちゃん」付けなどしない上司です。日比谷公園の中を二人で歩きながら、「ジーアールホームネットの社長をやってくれないか」と言われたときには、叫びそうになるのをこらえ、「私では力不足です。もっと能力のある方にやっていただいた方が・・・」と丁寧にお断りしたつもりでした。
ところが、翌日には正式な辞令が出てしまったのです。

辞令が出たからにはやるしかないと腹をくくったものの、調べてみると財務状況は債務超過で、毎月1億円の赤字を出している状態でした。
また、社長就任2ヶ月後には子会社を含めたNTTグループの再編の検討が本格的に始まり、そのなかで当社は清算の対象にされてしまったのです。
請われて社長になったのに今度は会社を畳めなど、こんな理不尽は二度と経験したくないと思い、この時から「自立主義」を貫くことにしました。会社の親子関係は人間の親子関係とは違います。厳しい状況になれば、親は非情にも子供を切っていくのですから、自分自身の足で立たなければ駄目だと思いました。
そのためには、出血を止めるしかありません。つまり、コストカットです。人的なものも含めて絞れるコストは徹底的に絞り、全社員が歯を食いしばって乗り越えました。
そのおかげで、半年後には単月黒字に転換し、社員の士気も変わってきました。

ちょうどこのタイミングで、当社の事業の1つであったプロバイダーサービスが日経ネットナビの顧客満足度調査で5位に入ったのです。
これを足がかりにして、当社と当社の社員は次々と実績と自信を取り戻していきました。
複数のマーケットリサーチ会社による顧客満足度調査No.1評価を連続で獲得し、2000年にはマイクロソフトのMSN会員の移管により大手プロバイダーの仲間入りも果たしました。また、プロバイダー事業での成果を基盤に次の柱としてIP電話、映像事業への投資など、当社はその時々に「変幻自在」に姿を変えつつ、こんにちまで市場のニーズと経営の必然に応えてきたのです。

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