生い立ち

幼少期・小学校時代 ~いたずらと授業から学んだ他者への影響・他者からの反応

自然に囲まれた環境で育つ

私は、和歌山県で生まれました。周囲は田んぼばかりの田舎です。
近所には農業を営む家が多かったのですが、私の両親はサラリーマンで共働きだったため、学校から帰ってきても川へ行って魚を採ったり、山へ行って虫を捕まえたり、子供の基地を作ったり、友だちと外で遊んでばかりいました。
田舎で自然が豊かだったため、季節に合わせて色々な遊びができる環境にありました。
友だちと一緒になって結構いたずらもしました。例えば、ニワトリを飼っている家に忍び込み、卵に小さな穴を開け中身をストローで全部吸ってから、開けた穴を下にしてそっと戻しておいたりと、知能犯的ないたずらが多かったと思います。自分の言動によって、相手がどのような影響を受け、どのような行動をとるのかに興味があったのだと思います。ある意味、コンサルタントの原点になったかもしれませんね。

両親から勉強しなさいと言われた記憶は、あまりありません。でも勉強は楽しく、学校の授業では先生の説明にリアクションをしたり、教室全体への問いかけに率先して答えを返したりと、とにかく良くしゃべる落着きのない、賑やかな子供だったと思います。

中学校時代 ~社会に対するその後のスタンスを変えた「出席簿でポカリ」事件

にぎやかな生徒から無口になったきっかけ

普通であれば、そのまま小学校と同じ学区の中学校に上がるところですが、親の期待もあって、国立和歌山大学の付属中学に進学しました。当時は入学試験はなく、抽選で新入生を決める牧歌的な時代でした。
それでも中学校は県庁所在地の中心部にあったため、自宅からはバス・電車を乗り継いで、片道1時間以上かけて通学することになりました。クラスメートも市内各所から集まってきていて、小学校のときからは環境も顔ぶれもガラッと変わりました。

授業では相変わらず、先生の問いかけに反応して、よくしゃべる生徒でした。
ところがある日突然、理科の先生から出席簿でポカリと叩かれてしまったのです。先生にしてみたら「いい加減、うるさいぞ!」ということだったのでしょう。
このとき初めて、子供心ながらに「世の中は危険だ・・・」ということを悟りました。「しゃべる前に、まず状況把握が重要だ!」ということを学習したのです。この後から、あまりしゃべらない生徒になってしまいました。今もどちらかと言えば口数は少なく、冷静で落ち着いている人物だと見られていますが、そのルーツはこの出席簿でポカリ事件だと思います。

中学でも成績は良いほうでした。中二の時の模擬試験で上位に入ったこともあって「あれ、勉強出来る方かも」と自覚し、将来の進路に強いこだわりがあった訳でもないので、流れで県内の進学校を受験することになりました。

高校時代 ~勉強漬けの毎日

高校の時は、とにかく良く勉強をしました。もちろん勉強ばかりしていた訳ではありませんが、進学校に入って競争環境に巻き込まれたというのが正直なところです。競争に巻き込まれた以上、乗り切らなければという思いがありました。
家でも夜遅くまで勉強するため、朝が起きられず、遅刻の常連だった野球部の奴と二人で、一限が終わるのを教室の外で待っているような毎日でした。
当然、受験は日本で一番難しい大学を受けることが目標となり、東京大学1校だけを受験し、無事合格しました。

大学時代 ~競争環境から解放されて、初めて自分の将来に悩む

幼いときから虫採りに行ったり、歴史が好きだったので、生物学や考古学、史学といった専門を選びたかったのですが、周囲の期待もあって文系最難関の法学部に進みました。

近くにジャズ喫茶があり、店のオープン時刻の午後2時になると、そこへ行ってジャズを聴きながら勉強していました。でも、実際はあまり勉強していなかったように思います。

将来について悩む

競争に流されるままここまで来ましたが、卒業が近づいてくると、ようやく自分は何になりたいんだろうと考える日々が続きました。4年で卒業は出来たのですが、わざと1つ単位を落とし、あえて留年しました。いわゆる、モラトリアムですね。
就職でも、具体的にやりたいことや行きたい会社が決まっていた訳ではありません。
周囲の多くは、司法試験や国家公務員試験を受けていましたが、それも自分には違う感じがしていました。
私が卒業した1986年にはまだ、終身雇用の制度が色濃く残っていました。それでも、1つの会社に一生勤め続けることもイメージできませんでした。狭い社会に閉じ込められてしまう気がして嫌だったのです。
ですから、就職活動では一通りいろいろな業界を受けてみました。その中で、当時はあまり認知度の高くなかった外資系コンサルティング会社に興味を持ちました。
コンサルティング会社には、一生勤めるというイメージはありません。当時の入社試験も、今に比べると随分いい加減だったと思います。逆にその緩さにも惹かれました。
そして、中でも一番自由な社風に感じたアクセンチュア(当時、アーサー・アンダーセン)に入社を決めました。

就職・起業するまで ~早い昇進から30代半ばで経営メンバーになって感じたこと

当時のアクセンチュアは、まだ社員200名程度、同期入社は30人くらいでした。
入社1年目のプロジェクトではプログラミングが中心で、2年目から戦略策定に関するプロジェクトにアサインされるようになりました。

入社試験こそいい加減でしたが、そこはコンサルティング会社、いったん入社してしまえば厳しい環境です。
アップorアウトのカルチャーは明確で、入社後2年目、3年目には同期内で昇進スピードに差が出てきます。
当時は、現在のようにデータベースが十分整備されていませんし、情報収集のためにグローバルのメンバーと簡単にコンタクトをとることも出来ません。ここでも競争に遅れまいと、毎日毎日勉強し、自分の頭で考え抜きながら必死で仕事をしていました。
入社して丸2年経ったところで、同期より早くスキップ昇進しました。それまでは仕事に取り組むことに精一杯でしたが、この時初めて「あれ、評価されているかもしれない」と感じました。
当時のアクセンチュアは、若くても出来る人間にはどんどん仕事を任せる方針でした。3年目には、クライアントの経営戦略に関する提言レポートの半分くらいは、私が書いていました。
金融機関向けのプロジェクトに関わることが多かったのですが、金融業界に関する国内の参考文献は少なく、海外の書籍や雑誌を取り寄せて、自分で一生懸命勉強しながらまとめていたことを思い出します。

慣れ親しんだ環境から
新たなチャレンジへ

1991年にアクセンチュアで初めて戦略グループをつくることになり、そのスターティングメンバーとしてアサインされました。
その後、チェンジマネジメント(組織・人材変革)の立ち上げメンバーとして一時的に事業計画の立案に加わったところ、そのまま留まることになり、最終的には統括を任されました。一番規模が大きくなったときで140名くらいの組織になったと思います。

30代後半で会社の経営メンバーにもなり、ちょうどグローバルでの組織改編のタイミングの時期とも重なって、自分としては一区切りという意識がありました。
この頃になると、カルチャーも仕事のやり方も分かっている同じ会社のメンバーのマネジメントは楽ではあるけれど、結果も想像できてしまうところに物足りなさも感じていました。
そこで、この機に外に出て自分で起業し、いろいろなバックグラウンドを持つ人材を集めて仕事をしてみようと思ったのです。

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