生い立ち

幼少期・小学校時代 ~引っ込み思案な性格から積極的な子どもに変わったころ

小学校時代

父は四国出身、母は満州の奉天生まれです。私は、母方の実家(東京)で生まれ、しばらく家族で間借りをさせてもらっていました。7つ上と5つ上の兄がいます。
幼稚園には行かなかったので、集団生活の経験は小学校に上がってからになります。
どちらかと言えば引っ込み思案で、低学年のうちは人と屈託なく接するのは苦手な方でした。反対に母は、お昼の時間になると給食のエプロンを届けがてら、しょっちゅう職員室に顔を出して先生方と話をしたり、PTA会長などもやるような大変積極的な性格の人でした。
4年生になると、私の良さを引き出してくれるタイプの先生に担任が変わって、本来の性格が開花したのでしょうか、生徒会長まで務めるほど明るく積極的な性格になりました。

5年生6年生のときには、通っていた小学校の警備員さんと親しくなり、可愛がってもらいました。その人は、かつてプロゴルファーを目指した人ものの叶わなかった人で、当時は小学校の警備員として勤めていました。彼は卓球も上手で、放課後になると卓球を教えてくれました。母が彼の分までお弁当を作ってくれ、それを持って公共の卓球場へ行って練習をしたり、小学生のうちから高校生とも試合をしたりしていました。

中学校時代 ~私立ののびのびとした校風の下、楽しく勉学に励む

当時はまだ中学受験は珍しい時代でしたが、私は塾に通い受験に挑戦することにしました。
志望校は残念ながら全部不合格となってしまったために、最終的には区立の中学へ進む選択肢もありましたが、担任の先生から「出来たばかりだけれど、とても良い学校があるから」と桐蔭学園を勧められて受験し、合格することできました。
私は桐蔭学園の3期生ですから、入学したときには1期生がちょうど3年生になったばかりの本当に新しい学校でした。
ここは成績順でクラス編成をとる実力主義の学校でしたが、同時に風通しの良い自由な校風で、生徒には好きなことをやられせくれるのびのびとした環境でした。
勉強も出来るようになれば公正にどんどん評価され、実力主義といっても全員が上を目指して頑張っている健全な雰囲気にあふれていました。
今から考えても、この中学校3年間が人生で一番勉強した時期だと思います。
学校の運動部では、野球部に入部しました。一方、卓球を教えてくれていた警備員さんは、中学校に上がると同時にゴルフを教えてくれるようになりました。
毎日野球の部活を終えて帰ると、続いてゴルフの練習です。スポンジボールを一日200球から300球打つ練習をみっちりやらされました。また、ボウリングにハマったのも中学の頃からでです。

高校時代 ~楽しい中学時代から一転、停滞の3年間

当時は麻布高校も学生運動の影響を受けていた

兄2人が受験で苦労したこともあり、ゴルフやボウリングなど私が好きなことを続けていくのなら、母としては高校は大学のある付属がよいのではと考えたようです。桐蔭学園は中・高までで、大学はないため、高校進学のタイミングでまた受験することになりました。
ところが高校受験でも志望校には全滅し、あわや浪人かと思ったところ、たまたま最後に受けた麻布高校に合格しました。
ちょうど1970年の安保闘争に絡んだ学生運動が激しい時代で、高校と高校生もその影響を受けました。入学してから半年後には、機動隊との衝突を避けるため、学校はロック・アウトされ、半年間休校となってしまいました。
学校がなくなっても、東大を受験するようなレベルの生徒は、自学自習で粛々と勉強を進めます。それ以外は、大学生と一緒になって闘争活動に巻き込まれていく生徒、授業がないことを良いことに麻雀に没頭する生徒や、好きなスポーツに黙々と励む生徒など、休校でもそれなりに自分のやるべきこと、やりたいことに熱中できる生徒が多いなか、残念なことに私はどのタイプにも属していなかったのです。
このような学習環境もあいまってモチベーションは下がり続け、中学校時代から一転して、高校3年間は人生で最も勉強をしなかった時期になってしまいました。
もともとは高校・大学一貫校を目指した受験にも失敗し、せっかく入学した進学校も時代背景から荒んだ環境のせいで、大学受験への意欲は失われていました。そこで一番楽な方法は、学校推薦で大学に進むことです。ところが、勉強もしていないのに内申書が良い訳がありません。3年生の10月には判定が出て、推薦書を出したすべての大学とも不合格でした。この時期からでは通常の受験体制も間に合うはずがなく、結局やむなく1年浪人することになりました。

大学時代 ~競馬予想の趣味が高じて、スポーツ紙に記事を連載

「六大学競馬リーグ」が話題となり
スポーツニッポン紙に競馬の記事を書くことに

厳しい高校時代ではありましたが、好きなゴルフとボウリングは続けていました。高校生2年生になると、ゴルフの方はコーチである警備員さんが初めてコースに連れていってくれ、それからときどきコースにも出るようになりました。
大学に入ったら、ゴルフ部に入ると決めていました。警備員さんが中学から基礎をしっかりと教えてくれたお蔭で、同期より腕前は良かったと思います。だだ、1年経ってみると、周囲は付属から上がってきた人たちばかりになり、自分にとっては居心地が悪く、結局ゴルフ部はやめてしまいました。
勉強はあまりしない大学生活でしたが、一番のめりこんだのが「六大学競馬リーグ」です。
当時の大学生は馬券は買えなかったため、あくまでも机上での予想で各大学の有志が集まって競っていました。これがスポーツニッポンの企画として取り上げられ、土・日は「スポーツニッポン」紙に競馬の記事を書くところまでいきました。

就職活動・入社動機 ~成り行きの就職活動で伊勢丹入社

就職活動では、スポーツニッポンとJRA(日本中央競馬会)を志望しました。ところが、スポーツニッポンはその年の採用計画はゼロ、JRAは書類選考で不合格でした。
このあたりから就職に苦戦を強いられることになり、母の知人に頼って、関西を本店とする銀行へ滑り込むルートを何とか確保してもらいました。
相手に対する有り難い気持ちと同時に、自分の不甲斐なさと東京生まれ東京育ちの私としては関西で働くことに正直抵抗がありました。

また、この頃よくファミリーレストランを利用していました。ファミリーレストランに通って気が付いたのは、店長の指揮一つで店のサービスや雰囲気がまったく変わってしまうということです。お水が欲しい時、料理をこぼしてしまった時、カトラリを落としてしまった時・・・何も言わなくても、こちらの欲しいもの・して欲しいことに気付いて、さっとサービスしてくれるお店と、こちらから呼んだりお願いしたりしなければ何もしれくれないお店があります。
店のクオリティを決めるのは店長の采配だと気付いたとき、ファミリーレストランの店長になりたいと思いました。
そこで、実際にロイヤルホストの採用試験を受け、内定をいただきました。

お客様に関わる仕事がしたいと思い伊勢丹へ入社

何とか2社から内定を得ることができホッとしていたところへ、母の知人で百貨店業界のある重鎮の方から「ロイヤルホストのようにお客様に関わる仕事がしたいなら、伊勢丹という百貨店は労働条件が良い会社だから、受けてみるといいよ」と勧められました。
人から勧められ、労働条件の良さで志望するというのも成り行き的で現金な話ですが、伊勢丹からも内定をもらうことができました。
3社の中で、最終的には、東京にとどまりたいという思いから伊勢丹への入社を決めました。

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