生い立ち

幼少期・小学校時代 ~ガラパゴスが育んだ主体性

表参道で生まれて育った都会っ子

父の実家は西麻布、母もその近くの神宮前の出身で、私自身も表参道で生まれて育ちました。将来入る墓も青山墓地。典型的な都会っ子です。言葉を変えれば、非常に狭いガラパゴス的な環境で育ってきたとも言えます。
お盆や年末・お正月の時期になると必ず帰省ラッシュのニュースがテレビで流れ、田舎のおじいちゃん/おばあちゃんの家に泊まりにいくことを楽しみにする子供の姿が報道されますが、幼い頃、「帰省」や「田舎」の意味がわからず、母に尋ねたことがあります。
「生まれたふるさとのことを田舎と言って、お休みにそこへ帰ることを帰省と言うの。だから、あなたの田舎は東京なのよ」と教えてくれました。ところが、実体験がないため、当時はうまく理解できませんでした。

地方に故郷のある人は、おそらく無意識のうちに東京と故郷を比較することによって、その人の価値観を形成するひとつの情報になっているのだと思います。私は東京で生まれ育ったために、比較する対象がありません。都会の中心という他の世界との接点が少ないガラパゴス的な環境のせいかどうかはわかりませんが、自分はほかの人とは少し違った視点や関心を持っているということを割と早いうちから自覚するようになりました。

小学生の頃、同級生が歌番組でアイドルに夢中になる中、私はアメリカ音楽チャート番組で意味も解らぬ英語の唄に触れ、皆が「スクールウォーズ」で熱血ドラマに涙する中、私は映画「007」でジェームス・ボンドの活躍に胸を躍らせていました。
当時、スポーツでは野球が人気で、学校の休憩時間や放課後になると皆何となく誘い合ってキャッチボールやキックベース(野球の変則版のようなルールの遊び)を始めるという流れでしたが、私は、大勢に流されるのではなく「僕はこれがしたい」と1人でブレイクダンスを踊ったりしていました。何故かみんなが夢中になる事に熱くなれなかったんですよね。少数派、今でいう中二病というものでしょうか(笑)。

今でも私は大勢に流される事無く、主体性や自分自身の選択を最も大切にしていますが、私が幼少期から他の人と違うことに関心を持ったり、皆と違うことを選択する事を恐れないのはもしかすると、東京というガラパゴスな環境で生まれ育った事が影響しているかもしれません。

中学校時代 ~サマースクールでで学んだ選択の意味

インターナショナル・スクールで見た景色

慶應幼稚舎(小学校)から付属の中学に進学するのは2通りの選択があります。普通部(男子校)と中等部(共学)です。
当時、多くの幼稚舎の男子は普通部に進学しており、中等部に進学する男子は本当に少数でしたが、私は世界の半分は男性・半分は女性で成り立っているのだから、学校でもそのバランスは大事だ、と言う母の教えや、2つ上の兄も幼稚舎から中等部に進学していた事もあり、あえて中等部進学を選択しました。
私の代で、幼稚舎から中等部へ進んだ男子は5名。1学年の男子が約100名だとするとわずか5%です。ここでも少数派ですね。

中等部1年生の時に、幼馴染が通っていたインターナショナル・スクールのサマースクールに参加しました。それまではガラパゴス環境。違う世界との接点が少なかったことあり、「外国語だけの環境って、何だか面白そうだな」と軽い気持ちでした。ところが、このときの経験が私の価値観に大きな影響を与えることになります。

日本の学校は、管理された全体主義の教育が中心です。クラスは班に分けられ、各班にはリーダーとして班長が置かれます。先生の指示は班長を通じて伝えられ、誰かができなかったら、その班またはクラス全体の連帯責任です。体育の授業では、一番背が小さい生徒から身長順に整列し、「右向け右」の号令で全員が同じ方を向くよう指導されます。
給食も然りです。同じメニューが全員に行き渡るよう「一人分はこれくらい」と、すべての料理が均等に盛り付けられ、「いただきます」の挨拶で一斉に食べ始めます。
日本では、全体の中で自分はどう振る舞うべきかを意識させ、協調性や調和性の重要性を教えられます。
一方、インターナショナル・スクールで見た景色は対照的でした。集合がかかると、先生の話を良く聞きたい生徒はどんどん前の方に行きます。ところが、興味のない生徒は後ろの方でだらっとしていたり、違うことをしていたりします。究極は学校にすら来なくなります。ランチもブッフェ形式で、それぞれが好きなものを好きなだけ取って食べます。
最初は、日本との違いに「自由って最高だな!」と思いました。ところが、2日目のランチで好きな料理をたくさん盛り付けようとしていたときに、突然怖くなりました。「このまま好きなものばかり山ほど食べていたら、デブになるかもしれない・・・」
それは自由な環境において自分が選択した結果であり、自分の責任以外何ものでもないということに気付いたのです。そう思ったら、好きではない野菜ももう少し取るようにしなくちゃと考えるようになりました。同じように、勉強が嫌いだからと授業も聞かなければ、バカになります。自由な環境で思うままに振る舞った結果、バカになってもデブになっても、すべては自分の責任です。

日本の管理された教育では、このような気付きは出てきません。上から統率されることによって全体のクオリティ上がり、なんとなく感じが良い集団は出来上がりますが、個人として自立/自律する力はなかなか育ちません。

日本の教育が駄目で、アメリカの教育の方が良いと言う事ではなく、それぞれの教育方法にはそれぞれ異なる目的と手段が有り、私にとって、この「違い」に触れたことが人生における日常の「選択」の重要性に気付く非常に大きなきっかけになりました。

高校時代 ~大空と雪山が教えてくれた無限の可能性

大空を羽ばたくグライダー

決して勉強が好きだった訳ではないのですが、慶応幼稚舎入学から慶応義塾高等学校卒業までの12年間は無遅刻・無欠席でした。丈夫な体に産んで育ててくれた母に感謝です。

12年間も無遅刻・無欠席で通学していながらこんな話をすると怒られてしまいますが、私にとっては学校で教科書に向かい学んだ勉強よりも、航空部の部員としてグライダーを操縦し大空を滑空した事と、スキーのインストラクターとして雪山で人々を指導した経験の方が何百倍も素晴らしい物でした。大空に雪山、相変わらず少数派ですね。

教科書に書かれている事は、誰かが記した『過去』。
目の前に広がる大空は、これから自分が切り開いていく『未来』。
勉強嫌いの当時の自分はこんな言い訳をどこかで考えていたのかもしれません。
けれど、実際にグライダーのパイロットとして、操縦桿を操り、無限に広がる大空を自由に飛び回るという事は、私の感性に大きな刺激となりました。
幼少より得意だったスキーの技術を活かし、インストラクターとして雪山で修学旅行の学生たちを指導した事も私の人生の方向性を定めるきっかけとなった事の1つです。
雪を見たこともなかった、スキーを履いた事も無かった学生たちに、スキーの技術指導と自然の雄大さの体験をして頂く事を通じ、人々の可能性を広げる事が出来る。
スキーを指導していたのは私ですが、私は逆に人々に笑顔を届ける素晴らしさを学ばせてもらいました。

勉強以外の想い出ばかりで恐縮ですが、高校時代は絵を描く事も好きでした。巨大なキャンバスを組み立てるところから始め、心が導くまま絵筆を走らせる。
大空も、雪山も、キャンバスも、人には無限の可能性や、選択肢が有り、それを選ぶのは自分自身という事を学ばせてくれたと思います。

美術・建築鑑賞も好きでしたね。
あまり詳しくは無いですが私は60年代に登場したミッドセンチュリーモダンデザインが好きで、ピエール・コーニッグのケース・スタディ・ハウスにはいつか訪れてみたいですが、まだ実現していないので、当時の建築やデザインを写真集で眺めたりします。

今でも、どんな写真集を開くときも、その時に必ず行うのが、『もし自分がここに居たらどんな世界が広がっているだろう』『もし自分がデザインをしたらどんな作品が出来てただろう』等と、様々な想像をする事です。

マネジメントビジネスは掛け算ですが、エンタテインメントは0から1を創り出すクリエイティビティの世界です。クリエイティビティには、「想像」と「創造」が重要です。
教科書や本に書いてある『過去』に執着せず、写真集を見て自分の感性を刺激し、その中に入り込んだ自分を想像して、それを実現するにはどのようなプロセスが必要かということを考えて創造していくことでしか新しいものは生み出せません。

無限の可能性や選択肢、想像力と創造力。高校時代の経験が今の私の源です。

大学時代・就職 ~遅く来た反抗期、迷いなき信念

大学時代は遅く来た反抗期でしたね。商学部での必修科目だった経済学、専攻科目だった経営学と簿記・財務諸表の見方、財務・管理会計論などは今も知識として役に立ってはいるので良かったと思いますが、必修科目の履修以外では大学にはあまり行かず、『学ぶ事は所詮過去の事例』と決めつけ、ゼミにも所属しませんでした。反抗期は既成の価値体系を拒絶、否定しつつ自立・独立欲求が高まる時期なので人格発達上は良い事なのかもしれませんが、今思えば、まだ何も成し遂げていない学生の立場で随分生意気でしたね。

ガラパゴスな世界に生きてきた反動からか、コンプレックスなのか、格好よく言えば無限の可能性への挑戦なのか(笑)、大学時代は自分の狭い世界を広げるつもりで、なるべく多くの人や機会と出会うような行動を積極的にしていました。
今でいう「読者モデル」の先駆けで、ちょっと有名な学生、という立場で広告、TV、媒体等にも出演させて頂いたり、当時、多くの企業や団体が大学生をコアとするマーケティング展開をしていましたが、その流れと学生の立場を利用し、商品キャンペーンのイベント企画運営、人材派遣業や広告代理店業の真似事とかもやっていました。

スポーツで言うとキックボクシング、筋肉トレーニングに没頭したのも大学時代です。
時間を費やし汗を流した分、確実に技術が向上し、肉体が変化していく。
サンドバッグを殴ったり蹴ったりする事は今はやれていませんが、筋トレは20年以上経った今でも継続しています。幼少期、もともとやせ形の細い体型でしたが、トレーニングのお蔭で大学時代に胸囲1メートルを超え、ウエストも74センチの超逆三角形体型になりました。42歳の今でもその体型を維持しています。逆三角形と言うと聞こえは良いですが、洋服がオーダーしないと体型に合わなくなるのは、健康と引き換えに払う代償ですね(笑)。

充実した大学生活の中で、アルバイトとしてイベントグッズ販売ブースを運営していた際にアーティストのボディガードにスカウトされたということがエイベックスとのご縁の始まりですが、そのエイベックス本社は当時、骨董通りにある幼馴染の家のビルのテナントでした。
全くの偶然でしたが、外の世界への興味を抱いていた自分が、結局地元の、ガラパゴスな世界で働く事になるのは不思議な感覚です。

私が入社した当時、エイベックスは上場前。ダンスミュージックを歌謡界に持ち込み、深夜に大量のTV広告展開を行う等、誰もやっていない事を率先して行動するエッジの効いた音楽会社でした。私の親戚でエイベックスの事を知っていたり、理解する人は1人居ませんでした。少数派を愛する私に最適な会社ですよね(笑)。けれども、当時から多くの人を笑顔にしていました。
いわゆる上場企業や大企業という名前を選択するのではなく、自分はどう生きたいのか?と自問自答した時、私の心に浮かんだのは『人生は1回。1人でも多くの人を笑顔にする。』でしたので、この選択に迷いはありませんでしたし、いまも継続してビジネスを通じ、感動価値創造を行える事に日々、感謝しています。

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