生い立ち

幼少期・小学校時代 ~幼い私に輸出による外貨獲得の重要性を説いた父

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中島会長5歳の夏
 

私は昭和10年(1935年)、宮崎県日向で6男1女の長男として生まれました。父は熊本出身の技術者で工場長をしていました。 昭和12年には日中戦争が始まり、私の幼少から高校までは戦前・戦中の時代でした。

まだ私が幼稚園生か小学校に上がったばかりの頃だと思います。父は私に「日本は貧乏な国だから、豊かな国になるためにはアメリカからお金を持ってこないと駄目なんだ」「アメリカの1円を買うためには、今の日本は2円40銭も出さなきゃならないんだから」と言い聞かせました。もちろん、当時の私に理解できる訳がありません。それでも父は、幼い私に向かってたびたび外貨獲得の重要性について語ってきかせました。 幼い時の刷り込みは影響力が強いものですね。私がメディキットを創業してからすぐに、海外に向けて輸出を始めたのは、この時の父の教えが身体の奥深くに浸透していたからだと思います。

終戦の年になると、飛行場のあった日向にもとうとう空襲のおそれがあり、小学校(当時は国民学校)3年生の時に母の故郷である東郷へ学童疎開することになりました。その東郷で、中学校卒業までを過ごすことになります。

中学校時代 ~クラス中からお弁当のおかずが集まる中心的存在

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当時の面影が残る美々津川の風景

今はどちらも同じ日向市になっていますが、疎開先の東郷の方が田舎でしたから、子どもたちは皆裸足で歩いていした。私は砂利道が痛くて歩けず、最初は“あしなか”という短い草履を自分で作って履いたりしていました。ところが子どもの適応力はすごいものですね。そのうち裸足も平気になり、いつの間にか仲間の中でガキ大将になっていました。 学校の帰りは、友だちとワイワイ言いながら美々津川にかかる旧東郷橋のあたりから川を泳いで下校していました。また、橋の欄干の上を川に落ちないように一気に走りぬける競争なんかもしました。

そういえば小学校3年生までずっと当時のお昼は各自がお弁当を持ってきていたのですが、私の家はそれほど裕福ではありませんから、おかずは何か1品と梅干くらいのものです。ところが昼食の時間になると、クラス中の友だちから私のところ少しずつおかずが集まってきて、いつの間にか豪勢なお弁当になってしまうことがありました。これを見ていた先生が「勉強はできるが行いが悪い」と評価されたので、現在の“道徳”に近い“修身”という課目の評価が「優」ではなくいつも「良」止まりだったので、級長にはなれませんでした。

高校時代 ~名監督の下、野球に打ち込んだ3年間

戦争が終わって日向に戻り、富島高校に進学しました。 足が速かったので最初は陸上競技部に入部しましたが、野球部からの強い勧誘を受けて野球部に入りました。 のちに、初めて宮崎商業を甲子園に導いた新名先生が野球部の監督でした。新名先生は大学卒業後、社会人野球の宮鉄(旧国鉄宮崎鉄道)で活躍されていた方で、富島高校には初めて教員と監督として赴任してこられていたのです。 新名監督の下、富島高校の野球部はぐんぐんと実力をつけていた時代でした。高校時代は野球に打ち込んだ毎日でした。

当時は、東九州エリア(大分・宮崎・鹿児島)で甲子園出場校は1校という狭き門です。宮崎県代表として勝ち進んだ我が富島高校は、東九州大会の準決勝で鹿児島実業と対決することになりました。結果は5対3で惜敗し、残念ながら甲子園には手が届きませんでした。 新名先生は文武両道を目指す先生で、勉強がおろそかになっている部員には自宅で個別指導もしてくださいました。 私はそこまでではなかったものの、やはり普通の学生に比べ勉強量が足りなかったためか、浪人したのちに大学に進学しました。

大学時代 ~父の薦めで経済学部へ

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お世話になった「日向寮」
寮友との記念撮影で、前列右から5人目が中島会長

7人兄妹の中で大学まで進んだのは私だけでした。長男主義が色濃い九州ゆえ、両親も私自身も、将来は私が弟妹の面倒を見るものだと考えていました。そのためには、技術が身につく工学部への進学を考えていたところ、父が「技術者は駄目だ。経済学部に行け」と言うのです。父に「経済学って何?」と聞いてみたところ「経済学とは世の中の分からないことを学ぶ学問だ」と教えてくれました。経済学部に行けというわりには随分いい加減な答えですが、幼い頃から私に日本経済強化のために外貨獲得の重要性を説き、父自身は技術者でありながら、人に聞いた話から何となく“商売”や“経済”の重要性を感じていたのでしょう。

最終的に、比較的学費の安かった中央大学を受験することにしました。中央大学なら有名な法学部もいいなと考えていたのですが、こちらも父に「法律は明治以来出来上がってしまっている学問だ」と反対され、経済学部に進学することになりました。
当時、日向の篤志家がお金を出し合って作った「日向寮」という地元出身者けの学生寮が千葉県の稲毛にありました。私もこちらで大学卒業までお世話になりました。鉄筋3階建てでグリーンの外壁が当時としては大変ハイカラで、皆「マンション」と呼んでいました。

柔道やレスリングをやっていた寮友と一緒に、肉体労働系のアルバイトをよくしました。寮から近かった製糖会社の工場では、倉庫から砂糖を運ぶ時、普通なら一俵40キロずつ担ぐところを私たちは二俵80キロいっぺんに担ぐことができました。会社の人からは「君たちはいつ来て働いてくれてもいいよ」と重宝がられたものです。確か当時デパートでのアルバイトが時給270円だったのに対し、製糖会社での時給は340円で割が良かったこともあり、私たちも喜んで働きました。

就職・入社動機 ~松下幸之助の言葉が諦めないビジネス人生のスタート

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新卒で証券会社に入社した頃
 

大学ではせっかく経済学を学んだので、就職は証券会社を希望しました。当時4大証券と呼ばれていた野村・大和・日興・山一證券を受験するためには先に学内選抜があって「優」が30個以上なければ推薦できないというルールになっていました。残念ながら私は28個でわずかに足りず、4大証券へのチャレンジはかないませんでしたが、野村證券直系で中堅上位クラスの光亜証券(後に合併して国際証券、今は三菱UFJモルガン・スタンレー証券)に入社しました。 中央大学の経済学部は、古典派やマルクス経済学ではなく需要と供給のバランス原理で考える近代経済学が中心だったので、証券マンになって、資本主義の社会や仕組みを実際に体感することが出来ました。

証券マン時代、お客さまを案内して証券会館で行われた創業者講演で松下幸之助さん(現パナソニック創業者)の話を聞く機会を得ました。 その時に松下さんは「私はこれまで一度も失敗をしたことがない」とおっしゃったのです。私は「まさかそんなことがあるはずがない」と思いました。ところが松下さんは続けて「それは何事も成功するまでやり続けるからです」と種明かしをされました。それを聞いて「そうか!成功するまでチャレンジし続ければ、結果として失敗はないと言えるんだ」と非常に強く納得したことを鮮明に覚えています。

それからは、零細企業・個人商店が多く株に興味のあるお客さまは少ないからと人気のなかった下町エリアを、2,3ヶ月で靴を履き潰すほど歩き回って営業しました。一度で上手くいかなくても何度も足を運び訪問を続けることで、2年後には上位支店の成績を収めることが出来ました。「諦めずにやり続けること」「人の行かない道を行く」この2つが今思えば私のビジネス人生にとって大事な気付きになりました。

起業まで ~医療機器のカテーテルとの出会いで社会的使命を感じる

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創業当時の工場

証券マンとしてそれなりの成果を上げ評価もされていた一方、市場や相場という目に見えない大きな力に翻弄される世界では、自分一人の力では太刀打ちできない無力感にもとらわれはじめていました。 そんな時、以前からお世話になっていた証券会社の役員の方から、ある企業が新規事業を立ち上げるのでその顧客開拓に力を貸して欲しいとの話をいただきました。

それが私と医療の領域で使われるカテーテルとの出会いになりました。この時も日本中の大学病院をくまなく回りました。当時はフルブライト奨学金でアメリカに留学していたことのある医師も多く、彼らから「アメリカの医療製品はすごい」という話を良く耳にしました。 それならば、先進国アメリカの現場を視察をするしかないと思い、商社に勤める友人のツテを頼って5社ほどのメーカーを訪問しました。昭和45年(1970年)のことです。

ある会社は山の上にあり森の中にも工場がありました。聞けばこれが「クリーンルーム」の為だと言います。精密な医療機器を製造するために、粉塵を除去するためのフィルターを備えた壁が設置されており、空気が清浄な森の中ではこのフィルターの交換期間の長さが全然違うためです。クリーンルームを備える工場など初めて目にしました。おそらく日本人でアメリカの医療機器メーカーの工場を見学するのは私などが最初の方だったと思います。今では考えられませんが、視察した会社や工場の人たちは何でもオープンに説明してくれ、設備を見せてくれました。
そして現在、当社が東南アジアからの視察を受け入れるときには、工場の中もラインもすべてオープンに見てもらうようにしています。当時アメリカのメーカーで親切にしてもらい、当社がここまで成長できたのですから、今度は同じアジアの国のメーカーに対して恩返ししたいという気持ちです。

視察前の日本の大学病院で日本の医療現場の穿刺針やカテーテルが技術的にいかに立ち遅れ、また数量的にも逼迫しているかを実感していた私は、この分野が非常に社会的価値の高い領域だと確信しました。 また、アメリカで森の中にある工場を見た時、学童疎開で過ごしたあの東郷町に自社工場を建てることが具体的にイメージできたのです。 そうして帰国後の昭和46年(1971年)、メディキットの前身である「中島医療用具製作所」を立ち上げました。

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