生い立ち

幼少期・小学校時代 ~複雑な出生と祖母に叩き込まれた生きるための基本的な力

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憧れの母の膝の上に抱かれて
 

私は昭和23年(1948年)、新潟県で3人姉妹の次女として生まれました。私たち姉妹は、地元の医師とその医院で働く看護師との不倫によって生まれた子です。当然のことながら実父と実母は別れるように周囲に取り計らわれ、実母は他の男性のもとに嫁ぎ、私は本妻の家も含め転々と預け先が変わった後に、八千代という養母に引き取られることになりました。
母は美しく、義理人情に篤い気風の良い女性で、幼い頃の私の憧れでもありました。中学を卒業する直前まで、私は彼女が実の母だと思って成長しました。

3歳くらいの時だったでしょうか。母と出場した親子スキー大会で入賞したことがありました。
賞品にいただいたセルロイドでできたピンクのお裁縫箱がとても嬉しくて、長いこと大事にしていたことを良く覚えています。
その頃の私は、母の夫である養父にも十分な愛情をかけてもらい、穏やかで幸せな毎日を暮していました。

その一方で、私は幼い頃から感受性が強く、勘が良い子でした。それが、大人たちには神経質な子どもに見えてもいたようです。どちらかと言えば暗いタイプで、心の中にはネガティブな影を抱えていました。
母が最初の夫と別れて再婚した2番目の養父と私は折り合いが良くありませんでした。6歳か7歳になっていた私は、自分の意思や判断力もついてきて、2番目の養父には反抗的でした。綺麗でお裁縫でも料理でも何でも出来る母と比べれば、変に勘が鋭く子どもらしくない私は可愛げがないのでしょう。「お前は神経質で不器用だ」と決め付けられ、義父からは躾と称して虐待もされました。屈折していくしかなかった私は、頭全体にとびひが出来るなど、とうとう身体にも不調が出るほどでした。
そのうち仕事が上手くいかなくなった2番目の養父は出奔してしまい、母と私は新潟県から母の故郷である群馬県前橋市で暮らすことになりました。

小学校2年生の時、高崎のだるま市に出掛けた時にうつされて猩紅熱にかかってしまいました。今でこそ抗生物質ができ、猩紅熱は法定伝染病ではなくなりましたが、私はすぐに隔離病棟に入院させられました。医師からは「お嬢さんは今日が山場です。その代わり、もし命が助かったら、きっと丈夫なお子さんになりますよ」と言われたそうです。そして私は無事に命を取り留めることが出来、お医者さまに言われたとおり回復後は本当に丈夫な身体に生まれ変わりました。

その後、母は温泉旅館に住み込みで働くことになり、小学校3年生の時、今度は群馬県の片品村に住む母の母(私にとって祖母)に預けられることになりました。市街だった前橋に比べ、片品村は田舎です。藁布団の上に何匹もノミが跳ねていてびっくりしました。食事は、妙に黒っぽいご飯とトマトやナスを切っただけのおかず。それでも「働かざるもの食うべからず」というのが祖母の信条でしたから、私はありとあらゆる家の仕事をさせられることになりました。炊事・洗濯・掃除は勿論、薪集めや畑の野菜の収穫、飼っていた鶏の餌やりも私の仕事です。

祖母の家には八千代の妹が産んだ3人の男の子も一緒に預けられていました。私は勘の良さと同時に記憶力も良く、学校の勉強も良く出来ました。従兄弟たちはそれほど勉強が出来なかったため、かえって私の賢さが際立つことになり、家で勉強をしていると「女に学問はいらない」という古い考えの祖母から怒られました。それでも祖母の目を盗んで本を読み、勉強は先生の話をきちんと聞いて授業の間にしっかり理解するようにしました。

祖母は桃中軒雲右衛門などの浪曲(浪花節)や駒形茂兵衛が主人公の「一本刀土俵入り」など義理人情物の歌舞伎が好きで、大好きだった三波春夫の舞台が回って来ると必ず私を連れて観に行きました。
私たちの年代は若い時にビートルズに刺激を受けたという人が多いのですが、私の根底には三波春夫の義理・人情・浪花節が流れているのです(笑)。

祖母は労働にも躾にも江戸時代と地続きの古くて厳しい価値観を持った人でした。
祖母から飴をもらう時は、たった一つでも両手で捧げるように受け取り、いったん自分の脇の畳の上に置いてから口に入れるよう躾られました。

礼儀作法に厳しく義理人情を大切にし、食べるためには働くことを信条とする祖母に、私は人として生きるために大事な価値観を仕込まれたと言ってよいでしょう。それは非常にシンプルでありながら、私がこれまで生きてこられた基礎になった力でもあります。
そう考えれば、厳しく恐ろしかった祖母は私にとって助けの神でもあったのです。血のつながらない私を引き取った娘(母)に代わって寝る場所と食事を与え、人間にとって働くことの意味と厳しさを教え、世の中で生きていくための処世の方法を教えてくれたのです。また、祖母の家では粗食で働きづめだったことが、結果として肉体的にも精神的にもさらに私を強くしました。

その中でただ一点だけ、祖母の家は自分にとっては借家であったことが、将来自分の家が欲しいと強く願う原点になりました。
また、「働かざるもの食うべからず」が身に染みている私は、お金を稼いでいないと不安になります。お金を稼ぐということは働くということです。ですからこれまで仕事を辞めようと思ったことは一度もありません。

祖母の家を含め、小学校の間に6回転校しました。行く先々の学校で、転校生は可愛いか、勉強が出来るのかという期待と興味の目にさらされます。実際に私は、田舎の子どもたちの中では綺麗で背も高く、勉強も出来る方でしたが、転校先それぞれの学校で求められる姿を演じるようになりました。そのため、空気を読んで周囲の期待に応える能力が身に付きました。同時に、周囲の視線に負けない強い気持ちも持てるようになりました。

中学校時代 ~早熟な少女の心に響いた島崎藤村の詩

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母のお店の前で

前橋に自分の店を持てるようになった母とは、中学に上がる少し前から親子水入らずの暮らしが始まっていました。
私は団塊の世代ですから、前橋にあった一中から六中にはそれぞれ500人もの生徒が通っていて、同時に非常に学校が荒れていた時代でもあります。

中学生の私に大きな影響を与えた先生が二人います。
一人は担任になったハンサムな男の先生。革新的な考えを持つ先生で「人間はもっと平等で文化的な生活をする権利がある」とよく言っていました。先生に感化された私は、早速家で先生と同じ主張をしてみましたが、現実の生活に生きている大人には「働いている者と働かない者が平等である訳がない」と言い負かされ、養ってもらっている立場としては結局何も言い返せなくなってしまいました。
もう一人は、私に島崎藤村の詩を教えてくれた先生です。浪漫主義に満ちた藤村の詩は、多感な時期の私を虜にしました。藤村の詩は全部暗唱し、藤村の歌碑の拓本をとりに友だちと一緒に長野県の藤村ゆかりの地に出掛けたりもしました。
彼女とは、仲の良い友だちでした。彼女の家も貧乏でしたが、人間としての品性や文化的な生活を大事にしていらっしゃるお家で、遊びに行くと必ずクラッシックを聴かせてくれました。彼女とクラシックを聴いたり、藤村の詩を諳んじたりする環境は、祖母仕込みの浪花節が浸み込んでいる私にとって新鮮で美しいものに触れることの出来る大事な時間でもありました。
彼女とは「一緒に“前女”に行こうね!」と話していました。“前女”とは群馬県の優秀な女子生徒が集まる前橋女子高校のことです。

岐路 ~進学校受験を諦め、理容学校へ

ところが、周囲の大人たちは私の高校進学を諦めさせました。家庭の経済的な理由とともに、当時、安保闘争が激化していた時代に、学校の先生の影響とは言え社会主義的なイデオロギーを口にしたり、早熟で頭も良かった私は、このまま高校へ進学させると過激な活動に走るのではないかと心配されたのです。
その頃、養母の母と祖母の二人が頭を寄せて、ひそひそと私の進路について話し合っている姿を見かけました。そこで二人が出した結論は、女が一人で生きていけるよう手に職をつけるため、私を理容師にするということでした。
最初は冗談じゃないと抵抗しました。しかし、ここまで育ててもらった親に高校に進学させる経済的余裕がないと言われてしまえば、仕方がありません。理容師を目指すという新たな道に、自分の気持ちを切り替えることにしました。
それでも勉強したいという思いは捨てきれず、昼間の理容学校と同時に前橋女子高校の定時制にも通うことを何とか認めてもらいました。
私は理容学校、定時制高校いずれの入学試験もトップの成績で合格し、どちらも入学式で新入生代表としての式辞を任されました。

理容師の修行時代 ~住み込みで修行しながら定時制高校へ通う“二毛作”の生活

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日本一の理容師を目指していた頃

理容学校を1年で卒業すると、前橋市内の理容店で住み込みの修行が始まりました。
当然、最初からお客さまには触れさせてもらえません。店主の家の炊事・洗濯などの家事と雑用をすべて引き受け、夕方からは定時制高校に通います。学校から戻ると、櫛や鋏の手入れをし、その日使われたすべてのタオルを手洗いで洗濯してから、最後に店中の鏡を曇りなく磨き上げなくてはなりません。
入店2年目からは少しずつお客さまも担当させてもらえるようになりましたが、不器用と言われていた私は、実技については人一倍の努力が必要でした。夜、定時制高校から戻ってこれまでと同様に店の片づけが終わった後に、さらに風船を使って剃刀をあてる練習やコテの練習が加わりました。睡眠時間は毎日2,3時間です。寝る間も惜しみ誰よりも努力することで、県内の競技会に出場すれば入賞するくらいまでに腕は上がりました。しかし、それでは私自身は満足出来なかったのです。目指すは日本一の理容師。その思いを胸に、20歳の時に一人東京を目指しました。

上京から起業まで ~ビューティアドバイザーへの転職と渡仏がエステティックの道の原点に

“人生二毛作”が信条の私は、東京でも昼間は都心の竹橋の理容店に勤めながら、夜は居酒屋のアルバイトをしました。当時の私の夢は、早くお金を貯めて日本一の理容師として独立することでした。とにかく昼も夜もがむしゃらに働きました。
理容店でお客さまのトレンドを見ているうち、これからは美容の知識と技術も必要になると思い、すぐに山野美容学校の通信科にも入学しました。
理容店・アルバイト・美容の勉強と、二毛作どころか三毛作の生活に、知らず知らずのうちに疲労とストレスが溜まっていたのでしょう。その頃から酷いニキビに悩まされるようになりました。

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ビューティアドバイザーへの転身が
エステティックの道への第一歩

勤めていた理容店と同じビルの中に、日本に当時進出したばかりの外資系化粧品会社のお店があり、そこでニキビの相談をしたり化粧品を買ったりするようになりました。
ある日、ビューティアドバイザーから「今、ウチでビューティアドバイザーを募集しているから、あなたも挑戦してみない?」と誘われました。美容学校のスクーリングに通うためにちょうど理容店を退職したばかりでしたので、軽い気持ちでその誘いに乗ることにしました。
1か月の研修の後、私が配属されたのはプロモーション課というところでした。プロモーション課は、2年以上の経験者が配属される全国の百貨店や販促イベントを回るビューティアドバイザー憧れの部署です。未経験の私がプロモーション課に配属になった理由は「研修室の鏡を磨いていたのはあなだだけだったから」だと教えてもらいました。確かに研修中の同期は、鏡に映った自分の顔を磨き上げることには一生懸命でした。その中で研修後に鏡を磨いている私は目立ったのでしょう。しかし、前橋の理容店で下働きから仕込まれた私にとっては当たり前のことでした。

理容店の時の習慣で化粧品会社に入ってもしばらくサンダルを履いていました。それを見た高卒入社の年下の同期に「やっぱり、あの人は床屋だからね・・・」と馬鹿にされるような言い方をされることもありました。そういう悪口や批判さえも糧にして、私はビューティアドバイザーとして相応しい外見を目指し自分を磨いていきました。
流行りのメイクとファッションで街を歩けば、銀座で「モデルになりませんか?」とたびたび声をかけられるようになりました。田舎で貧しい暮らしをしながら、恋愛も知らず朝から晩まで働いていた頃には考えられない状況です。
環境と気持ちは人の顔さえも変えていきます。いつの間にか目もぱっちりと二重になり、どんどんと垢抜けていきました。

しかし、ニキビだけは治りません。ファンデーションで隠してはいるものの、ニキビをしっかり治して美しい肌になりたいと切実に思いました。
上京してすぐに美容理容芸術協会の会長をお訪ねした際、パリの美容がいかに素晴らしいかというお話を伺いました。その時の記憶と、パリで自然治癒力による美顔を目指すエステティックがブームになっているという新聞記事を目にして「そうだ!パリに行こう!」と決めました。パリの先進的で自然の力を利用した美容なら、私のニキビも治るかもしれないと思ったのです。
当時の価格で24万円のオープンチケットをなけなしの貯金を下ろして買い、英語もフランス語も出来ないままパリへと飛び立ちました。

パリでは化粧品会社で同僚だった友だちのアパートの屋根裏に居候させてもらうことにしました。美容師と理容師の国家資格があったお蔭で、何とかパリのサロンで雇ってもらうことも出来ました。しかし任されるのは雑用ばかり。しかし、理容店での下働き仕込みの私にはまったく苦になりませんでした。むしろ店の仕事を何でもこなす私は重宝がられ、いつの間にか8か月が経っていました。

日本に帰国してからは、独立すると言ってもサロンを持たずに何か面白いことがしたい、有名になりたいと思っていました。
ちょうど日本は好景気で、新しい成功者のモデルとして女性企業家が求められていた時代です。
パリからはドイツ製の美顔器を持ち帰っていました。日本で買ったら20万円もするものです。私はこれを日本向けに改良し、2万8,000円と手ごろな値段で売り出したのが『ヴィッキー』です。通信販売で次々と売れ出しました。全国の店舗向けにとコーセー化粧品から3,000台もの注文も受けました。
ある時、大量に仕入れた訪問販売業者が「売れなかった分を1台5,000円で引き取って欲しい」と言ってきました。卸値との差額がまるまる利益になる上に、返品分はまたよそで販売出来ます。何人か女の子を使い、社長としての体裁も出来てきました。当時の女社長やベンチャーブームに乗って、気が付くと私はいつの間にか有名人になっていました。

しかし、この頃が一番自分の人生に悩んでいた頃です。『ヴィッキー』のお蔭でビジネスとしては儲かり、有名にもなりましたが、パリで学んだエステティックの技術をどう生かしたらいいのか・・・。日本にはまだエステティックサロンなどありませんでした。
ところが不思議なもので「お金を出すから、もっとしっかりビジネスをした方がいいよ」「友梨ちゃんが何かビジネスを始めるなら、自分に投資させて欲しい」と多くの友だちが励ましと同時に出資を申し出てくれた時期でもあるのです。
そんな時、当時ブームになっていた友人のヨガの教室を見に行くと、確かに繁盛していました。同じフロアーには10坪ほどの空き室もあります。私は、ヨガ終わりの人たちに、そのままエステティックに寄ってもらえたらとひらめいたのです。
すぐにビルのオーナーに会いに行きました。ビルのオーナーは私と同じ新潟から裸一貫で出てきた人で、本来一括払いの保証金を分割払いにしてくれた上に、家賃も負けてくれました。オーナーを紹介してくれた不動産屋も「自分も木更津の田舎から裸一貫で出てきた身だから」と仲介料を半額にしてくれたのです。

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ついに一号店がオープン

何かに導かれるように次々と上手く進む話に、私のなかから迷いは消えていました。ここをスタートに、自分が日本で初めてのエステティックの道を開いていくことに決めたのです。私の道のために周囲がすべて味方してくれると感じました。その日は、自宅に帰るタクシーの中でもバックミラー越しに私の顔を見た運転手さんから「お客さん、もしかして○○さん?」と女優さんと間違えらるというおまけつきでした。それだけその時の私の身体からは、プラスのエネルギーというかオーラを発していたのでしょう。
「たかの友梨ビューティクリニック」の一号店はこうしてスタートしました。

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