生い立ち

幼少期 〜大好きな母を喜ばせたことが、良い人間関係を築くための原体験に

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幼少期の櫻田会長(左)
 

父は岩手県出身で、10人きょうだいの長男でした。当社の創業者である櫻田慧は私の叔父ですが、父が大正元年(1912年)生まれ、叔父は末っ子で昭和12年(1937年)生まれですから、兄弟でも一番上と下では24歳も離れていました。
父の両親(私の祖父母)は、「男性には教育を、女性には商売を授けるべき」という考えを持っていて、長男である父は中央大学の法学部へ進学し、弁護士を目指していました。残念ながら弁護士の夢は叶いませんでしたが、税務署に勤める公務員になり、私はごく普通の家庭に育ちました。
母は大正6年生まれで、91歳まで長生きしました。私にとって母は、特別に好きで最も尊敬できる存在でもあります。専業主婦として家のことは完璧にこなした上で、和裁の腕もありましたので内職のようなこともして家計も助けていました。

幼い頃の経験で忘れられないことがあります。3歳の時、靴磨きの手伝いをした思い出です。
母は主婦の務めとして父の靴を毎日完璧に磨き上げていました。出かける時に父がどの靴を選んでも良いように、毎朝、黒い靴も茶色の靴も綺麗に仕上がっていました。まずカラ拭きで埃や汚れを落とした後、汚れ落としのクリームを塗ってふき取ります。それからガラス瓶に入った靴墨をまんべんなく延ばすように塗った後、さらに乾いた布でしっかり磨き上げると新品のようにピカピカになりました。
子ども心に父の靴を磨く母の姿を興味深く眺めていると、ある日、私の視線に気が付いた母が「ちょっと磨いてみるかい?」と言いました。私は嬉しくなって、いつも母のしているように見よう見真似でやってみました。ところが3歳の私の小さな手では、いつもの母の出来とは比べものにならないレベルだったでしょう。
しかし母は、「とても上手に出来たわね」と本当に嬉しそうな顔で褒めてくれたのです。自分の大好きな母がこんなにも喜んでくれたことで、私は天にも昇るほど嬉しくて幸せな気持ちになりました。
それからの私は、何事にも周囲の人が喜ぶことがしたいという思いが強くなりました。この時、母が「これじゃ全然ダメじゃない」「もっと綺麗に磨きなさい」と私に言っていたら、今はまったく違った人生になっていたかもしれません。大げさな表現かもしれませんが、この時母に褒められた経験は、私の人生にとって最も大きな影響を与えた最初の成功体験だったと言っても過言ではありません。

小学校・中学校時代 〜相手に寄り添う気持が友だちを集める

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友達に囲まれていた小中校時代

それ以来、いつもどうしたら周りの人が喜ぶかを考えて行動するようになりました。
そのせいか男女関係なく友だちは多かったと思います。男子とはよく草野球をしました。また、女子にもお誕生日会に呼んでもらったりしていました。特に女の子は、下の名前で呼ばれることが嬉しいみたいでしたね。普通なら苗字を呼び捨てにすることが多いのでしょうが、私は「ナオミ」とか「マチコ」とか名前で呼んでいました。因みにナオミさんは私が初めて好きになった女の子です。下の名前を呼ばれることで、普通よりもっと親近感が湧くのだと思います。
クラスメイトの中には、不幸にも突然親を亡してしまう友だちもいました。そういう時は、お通夜や告別式の前でも誰よりも早くその子のところへ駆けつけ、悲しみに寄り添うようにしました。そういう行動が信頼できる友人と評価される一つの理由だったのではないでしょうか。

小中学校の頃から周りに人が「集まる人」の特長を良く観察していました。
人が「集まる人」は、素直で元気で明るいのが特長です。勉強が出来るとか何か特別な能力を持っているとかではなく、その人がいるだけで周囲が活気づく人には自然と人が集まって来るようになるのです。
以前、当社の大会で読売巨人軍の長嶋茂雄名誉監督とトークショーを行ったことがありました。長嶋さんが舞台の上に姿を現す前から、会場に集まった人たちがソワソワウキウキしているのが伝わってきました。実際に長嶋さんがステージに現れると、何とも言えないオーラによってその場の雰囲気がさらにぱあーっと明るくなったことが分かりました。長嶋さん独特の感性的な表現や発想で、トークショーとしては必ずしも論理的な展開とは言いがたい局面もありましたが(笑)、彼はそこにいるだけで周囲を明るく元気にしてしまう典型的なタイプだと思います。
また、聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明先生も常に人が周囲に集まるプラスのエネルギーを持った方です。104歳でいらっしゃるにも関わらず、先日お目にかかった時も杖を使わずご自分の脚でしっかりとお立ちになってお話されていました。その時「130歳の時、ボクは何をしているかな?」「80歳はまだまだ少年だよ」とおっしゃっているのを聞いて、私の歳(64歳)をお伝えしなくて良かったと思いました。

高校時代 〜父の急逝により、大学進学を諦める

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父の急逝で高校時代はレストランでアルバイト

高校でも中学の時に始めた吹奏楽(トランペット)を続けたいと思っていましたが、新設されたばかりの高校だったために吹奏楽部はありませんでした。その代わり、陸上部に入り、汗を流していました。
それまではごく普通の家庭で不自由なく暮らしていたはずでしたが、高校2年生の夏休みが終わる頃、父が脳出血で急逝してしまいます。大黒柱を失った母はホームヘルパーとして朝から晩まで働き、既に大学に進学していた兄の学費と家計を支えました。
私もそんな母の姿を黙って見ている訳にはいきません。2学期が始まると、放課後は蒲田駅前の東急ビルに入っていたレストランで皿洗いのアルバイトを始めました。平日と土日も働いて、月に2万円くらい稼いでいました。そのうちの1万円を母に、残りの1万円をお小遣いとしてもらっていました。当時高校生が親からもらっていた金額が3,000円くらいだったと思いますから贅沢と言えば贅沢ですが、親からもらったお小遣いではなく、自分で働いたお金です。
この時のアルバイトの経験はお金だけではなく、同級生よりも早く社会を知る良い経験になりました。先輩と後輩の関係の中で様々なことを教えてもらったり、色々なところへ食事や遊びに連れていってもらうなど可愛がってもらいました。

進路を決める高校2年生の秋になると、先生からどうするのか訊ねられました。私としては大学に行きたいという気持ちはありました。しかし、うちの家計ではおそらく進学はあきらめなくてはならないでしょう。母に相談すると「国立大学なら何とか進学させてあげられる」と言ってくれました。ところが先生には「国立大学を目指すなら、今からでは勉強が間に合わない」と言われ、仕方なく大学進学は諦めることにしました。その年に、全校で大学に進学しなったのは私を含めて3名だけだったと記憶しています。

就職 〜創業者の叔父からの誘いと高校時代のアルバイトが外食業界へのきっかけに

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広告代理店当時の櫻田会長

就職先として入社試験を受けた電器メーカー、百貨店、広告代理店の3社には、全部合格しました。最終的には理系出身でなかったことと百貨店で売り場に立つほどソフトなタイプではなかったので、興味のあった広告代理店へ入社を決めました。新卒同期入社10人のうち、高卒は私だけ。ここでも先輩たちからは随分可愛がってもらい、営業成績も上げました。
入社してから2年半ほど経った頃、叔父からモス創業の知らせを受けました。「お前は、高校のときに飲食店でアルバイトした経験があるだろう?」「飲食店で働くということは、社会人として必要なことを色々学べる。その上、『美味しかった』とお客さまにも感謝される素晴らしい仕事だよ」と一緒に働かないかと誘ってくれたのです。
勤務先の広告代理店の社長に事情を説明すると、半年間かけて仕事の引き継ぎをしっかりすることを条件に退職を認めてくれました。

叔父からは月給6万2,000円の正社員でどうかと誘われましたが、最初はアルバイトとして入社しました。広告代理店を退職する時のお給料は、月3万8,000円でしたから額面での条件は悪くありません。しかし当時は今より労働基準が厳しくなかったので、朝7時の開店から夜9時の閉店まで勤務し、土日も、さらに人が足りない時には普段のシフトとは別に総動員で出勤しなくてはなりません。時給に換算してみると必ずしも割りが良いとは言えず、若いうちにまとまったお金を貯めたかった私は、実働ベースでお給料がもらえるアルバイトにしてもらったという訳です。
当時の私は毎日18時間、多い月には月に550時間働いていました。とにかく一番元気のあった時代です。さらに1日の残り6時間も、お店のスタッフと飲みに行ったり遊びに行ったりしていました。高校時代のアルバイトや広告代理店の新人時代に先輩たちに色々なところへ連れて行ってもらった楽しい思い出から、今後は自分が周りを巻き込んで楽しませたいと思っていたのです。

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台湾赴任時代の櫻田会長

22歳のとき、創業者の叔父からロサンゼルスに遊びに来るよう誘われました。
叔父は家族と先に行っているから、私は後から来るようにとのこと。叔父はモス創業前、証券会社に勤めていた時代に海外駐在の経験がありますが、私にとっては初めての海外です。
今はもうない航空会社エア・サイアムのディスカウント・チケットを買い、当時まだ成田空港はなかったために羽田空港からホノルルに飛び、アメリカのコンチネンタル機に乗り換えてロサンゼルスを目指します。英語など出来ませんし、初めての海外一人旅でトランジットまであることに不安でいっぱいの私を見て、叔父は愉快そうに笑いながら「大丈夫、大丈夫!ホノルル空港に着いたら人の流れに付いて行って、コンチネンタルのカウンターでチケット見せるだけでいいんだから」と安心させるように言いました。
叔父の言葉を信じて羽田空港から飛び立ちましたが、ホノルル空港に到着したのは、乗り換えるはずのコンチネンタル便が既に出てしまった後。初めて降り立ったホノルル空港の構造など分かるはずもなく、どこへ行ったら良いのか途方に暮れました。叔父のアドバイスどおり人の流れについていってみると、ハワイが目的地で空港の外に出て行く人たちのようです。これはまずいと何とかコンチネンタルのカウンターにたどり着き、身振り手振りで担当者に状況を伝えました。
本来であれば、8時にホノルルに到着し50分の待ち時間で8時50分のコンチネンタルに乗るはずだったのですが、実際に到着したのは9時半。お昼の便には乗りたいと思ったものの、カウンターの人に聞いてみると16時15分まで空席はないと言います。
そのうちコレクトコールというものがあることを思い出しました。つたない英語で東京のモスの本部の電話番号をオペレーターに伝えると、しばらくたってオペレーターからは「No Answer・・・」という返答。「ノー アンサー?」最初は理解できなかったのですが、取次ぎ先の東京から返答がないということだと分かりました。「会社に電話をして誰も出ないとはどういうことだ?」またまた混乱してしまいましたが、時差があり日本はまだ出勤前だということに気が付いたのはしばらくしてからでした。
とにかく次の便が出るまでは仕方がないので、空港のベンチで一人、それこそ世界中から取り残されたような心細い気持ちで座って待っているしかありませんでした。
ようやく夕方の便に乗り、ロサンゼルス空港に到着しても様子がまったく分かりません。叔父には結局、半日以上乗り換えが遅れたことも伝わっていません。空港に迎えに来てもらわなければ、もうこの先どうしたら良いのかまったく分からない状況の中で、空港のロビーに叔父の顔が見えた時にはさすがに涙が出ました。
この時の一人旅、特に乗り換えのトラブルを乗り切ったことは、自分にとって大変な自信になりました。その証拠に、アメリカに滞在していた20日くらいの間に、いつの間にか自分からどんどん英語で話しかけられるようになっていました。帰国してからも「アメリカのことなら、何でも自分に聞きなさい」と豪語していたほどです(笑)。
人はどうしようもない状況に追い込まれると、とてつもない力を発揮するものですね。そして、その経験は大きな自信として成長の糧になるのです。今思うと、創業者の叔父が私を一人旅でロサンゼルスに呼んだのは、非日常的な経験の中で私を成長させるためだったように思います。これ以来、人が成長するためには、時には自分を追い込むことも必要ではないかと思っています。

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