生い立ち

幼少期・小学校 ~祖父母・父母の愛情を受けて育つ

私は四国、徳島県の生まれです。両親は共働きでしたので、主に祖父母の薫陶をうけて育ちました。祖母がお茶とお花の師範だったため、週に1回はお弟子さんなどの来客と一緒に食事をする機会があり、そのせいか、幼い時から人見知りはしませんでした。

中学校時代 ~勉強もやれば出来る!

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中学時代、必死に勉強した

勉強はあまり得意ではありませんでした。中学に上がっても、成績は学年で370人中150番から170番くらい、真ん中くらいでしょうか。 当時、どうしても欲しいものがあって、一計を案じ、「成績が学年でベストテンになれば買って欲しい」と両親に頼み込みました。必死に勉強すると、半年後には8番まで急上昇しました。この時、得意でないことでも、工夫と実践次第で出来るようになるということを子供心に実感しました。面白いもので一度良くなった成績は、卒業するまで20番台以内を維持しました。
会社の営業強化も同じです。変革に成功し、組織体制と仕組作りをしっかりと行っていれば、新たに強力な競争相手が出てくるまでの一定期間は、その強い状態は継続するのです。

高校 ~たった1回の試合出場、開始5分でまさかの骨折

第2回トヨタカップ(1981年)で来日したジーコ(後に日本代表監督)のプレーをテレビで見て、高校入学するとサッカーを始めようと決めていました。
進学校でしたが、中学時代ベスト4のレギュラークラスが同期だけでも10人いたため、1年生の頃は、全く試合に出してもらえませんでした。自主的に朝練1時間と居残り練習を毎日1時間続けた結果、2年生になり、初めて練習試合で先発するところまでいきましたが、試合が始まって5分後に転倒しました。グランドでいつまでも倒れている私にチームメイトからも「いつまで寝そべってんだ!」とヤジが跳びましたが、一人では立ち上がれない様子を見て担架が出動し、病院に運び込まれると骨折していました。それからは、二度と試合には出してもらえませんでした。それでもサッカー入部の際に、最後まで続けることを決意していましたので、3年生の1学期まで部活動は続けました。

部活も引退し大学受験を控えた頃、成績は偏差値が65と40の2種類のみ。国語と英語が65、それ以外の教科は40でした。しかし、私立大学の受験では、抜きん出た教科のある方が有利でした。
これは、ビジネスの世界でも同じではないでしょうか。何でも満遍なくこなす優等生のような会社よりも、何か突出した強みを持った会社の方が、確実に営業が強くなる傾向があります。

大学 ~大学2年のとき自己変革でESSに入部、就職ではメガバンクに内定

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就職活動の時期、バブル景気の真っ最中だった

大学進学で初めての一人暮らしがスタートしました。
ところが、付属高校から内部進学してくるグループの雰囲気に馴染めず、1年生の時は図書館と食事に出かける以外は、ほとんど引きこもりのような生活をしていました。
一日の会話といえば、お店でオーダーする時の「ランチ」と夕食の「定食」という二言だけ。人間としてこれでは駄目だと思い(笑)、2年生になるとE.S.S(ENGLISH SPEAKING SOCIETY)に入部しました。

就職活動の時期は、ちょうどバブル景気の真っ最中。新卒で入社した1989年12月に日経平均株価が過去最高の約3万9,000円をつける前の年でした。当時、三菱地所のロックフェラー・センター買収など派手な話題もあり、海外への憧れから銀行や商社を中心に応募しました。
中でも三井グループは、最も人材を輩出している企業として邦光史郎の「三井王国」にも描かれ、ダイナミックな仕事をしているイメージを持ちました。「人の三井」と呼ばれ、室町時代から現在まで続く企業に対して憧れに近い興味もありました。
結果、銀行に内定をもらうことが出来ましたが、内定後に面接官から「お前一人くらい変り種タイプがいた方がいいと思った」と言われました。

就職・新人時代 ~変わり種の新人に仕事の意味を考えることを教えてくれた上司

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銀行入行時、様々な業務を行った

新卒社員は入行して半年間、店頭窓口、融資、営業、大きな店であれば外為と、銀行内の様々な業務を一通りローテーションします。
当時の私は、思ったままを口にするタイプでしたので、支店の先輩からは「君、銀行員には珍しいタイプだね。辞めずに続くといいね」と興味半分、期待半分で言われたことがあります。
ある日、支店長から「銀行に入って何年も経つと、銀行の考え方や決まったやり方に染まってしまう。どうだ?辻君、新人のフレッシュな目で是非、銀行について忌憚のない意見を聞かせて欲しい」と言われ、感じたままを率直に答えてしまいました。その結果、血相を変えた副支店長に会議室で、新人のくせに出過ぎた振る舞いであり、支店長への話し方がなってないと教育的指導を受けることになりました。今思うと、幼い対応だったと思うところはあり、大企業では長幼の序は組織を円滑に動かすための大事な秩序です。一方、中小企業やベンチャーでは、経営者から意見を求められたら、経営者の機嫌を損ねない程度には言うべきことは言った方がよい場合があります。

同じ支店の一年上の先輩は、銀行在籍時だけでなく、この年齢になっても、20代であれほど気働き・気遣いの出来る人はいないほど優秀でした。その上、書類や資料はまだ手書きが中心の時代に、書道3段以上と字まで達筆でした。年齢の近い先輩はその人しかいなかったため、ただでさえ変わり者の私が、常に、支店の銀行員としては最優秀レベルの先輩と比較評価されることになりました。
ある日、優秀な先輩の見よう見まねで稟議書を書いて提出すると「辻君、ここに『前稟議書と同』と書いてあるけど、“同”ってどういうこと?」と上司に質問されました。先輩は、一度もそんなことは聞かれずにすんなり稟議が通っています。私は、「先輩がそう書いていたので、同じように書きました」と答えました。すると続けて、稟議書を指さして「どうしてこの記入欄があるの?」と重ねて聞かれました。正直そんなこと考えたこともないので、「わかりません」と素直に答えました。それを聞いた上司は、「辻くん、仕事には必ず意味があるんだよ。以下同文とか、前からある記入欄でも、何か意味があってそうなっているはずだ。単に流れ作業をせず、なぜそうなっているかの背景や目的を考えることが大事なんだよ」と教えてくれました。この場面は、いまでも想い出せるほど強烈でしたし、私のビジネス人生でも非常に重要なものになりました。
今までコンサルティングした企業でも、「仕事のやり方は教えてもらえるが、仕事の背景や意味までは教えてくれない」「そのくらい言わなくても分かるだろう」ということがよく起きています。仕事の背景や意味から教えるということは、現在において、更に、その重要性が増していることなのかもしれません。

また、営業の外回りをするようになると、銀行の内勤仕事とは違って、上司はいるものの自分の判断で仕事をせざるをえないことが多くなりました。自分のやり方や工夫だけでは成績をあげるのに限界があると考えて、先輩に一日同行させてほしいとお願いしたことがあります。その時、先輩は「営業はみんなライバルなんだよ。教えるということは自分の手の内を明かすことだから、営業の人は教えないのが普通。そういう僕もね。だから、自分で学び取っていくしかないんだ」と本音を聞かせてくれました。
これは営業にかかわらず、企業における人材育成の本質を突いています。「会社が教えてくれない」「上司が教えてくれない」と言っていても仕方がないどころか、普通に会社経営している限り、そうなってしまうのは当たり前なのです。

転職 ~旅行ベンチャーH.I.S.で新規開拓営業を鍛えられる

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旅行ベンチャーH.I.S.で新規開拓営業を鍛えられた

新卒から銀行の業務を一通りローテーションした結果、銀行の仕事は、自分本来の良さや持ち味が、本当の意味で活きないと考えはじめました。
銀行を辞めて1年間は、あえてすぐに転職しようとせず、図書館に通って本や新聞を読みながら時流を見極め、これからの自分についてじっくり考えました。
若者も含めて個人の海外旅行が増えてきた時代に、格安航空券の販売から海外旅行パッケージへツアーの企画・販売も手がけ始めたH.I.S.に興味を持ち、創業者の澤田秀雄さんの考え方にも大きく共感するところがありました。

H.I.S.入社後まもなく、関西営業法人部門の立ち上げに参画するように命じられました。今のようにインターネットで地図やナビ情報がある時代ではありません。営業先のリストも地図もないところからのスタートでしたので、最初は飛び込み営業を並行して実行し、1年で上場企業3社を含め数億円の売上を上げることが出来ました。
前職の三井銀行だと、名刺を出せば、経営者や部長に合わせてもらえたのが、H.I.S.の名前で訪問すると受付の女性が「何だか良くわかりませんけど、“KGBさん”が来てまぁーす」(「KGBって、オレ、ロシアの諜報機関か?」)と社内に向かって呼ぶ声が聞こえたり、「ありがとうございました」と挨拶して退出する際に、オフィスの扉が閉まる向こうで今渡したばかりの名刺がゴミ箱に捨てられるといった経験に直面しました。
当時は、しんどい思いもしましたが、そんな状況から決裁者に会い、新規契約を獲得し続けたのが、現在、顧問先を支援する際、本当に役立っています。

二度目の転職から起業まで ~コンサルタントに求められる価値を知る

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コンサルタントスキルを経験から学び独立

H.I.S.には5年半在籍し、それなりの成果を出し会社に貢献出来たと思います。おかげで、報奨旅行でオーストラリアに無料招待してもらえた等もありました。
その頃、北海道拓殖銀行の破綻と山一證券の廃業が立て続けに起こりました。大手企業や老舗企業でも一夜にして消えてしまう時代になったことを実感し「いざという時に一人で生きていけるようにしなくてはいけない」と感じました。独り立ちするのであれば、定年のない税理士かコンサルタントと考え、コンサルティング会社に転じました。
コンサルティング会社では、コンサルタントとしてのコンテンツや方法論などの勉強になりました。また、「複数部門を連動して動かす勘所」「現場に気持ち良く働いてもらう」「新プロジェクトを一から立ち上げる」こと等については、三井銀行とH.I.S.に在籍した時の体験も非常に役に立ちました。

コンサルタントの育成期間が終わり、営業部長のところに挨拶に行ったところ「一人前、おめでとう。でも君には実績がないから営業部から案件は回せないよ」とニベもなく言われました。
待っていても仕事がくる可能性がゼロなので、営業部から出入り禁止のリストをもらう等して、新規の営業電話、飛び込み営業からのスタートです。訪問先でも「コンサルティングで飛び込み営業って珍しいね」と言われました。3ヶ月くらい新規開拓を続けたあたりからやっと「アカンかったら、金は払わんからな」という条件付きで契約してくれる企業が出てきました。関西なのでコストにシビアなのと言い方が少しきついのですが、背に腹はかえられず、こりゃ、下手打てば解雇だなという覚悟をもって仕事を受けました。この原体験が2社~3社と続いたことでコンサルティングの価値と、経営者が求めるていることを骨身に沁みて理解することが出来ました。そうやって受けた会社で業績が年商2割から5割アップし、リピートもするようになって、ようやく営業部からも案件が回ってくるようになりました。

コンサルタントのキャリア(経歴)は、「Up or Out」と言われ、社内で昇格するか会社を辞めるかが一般的です。もともと独立してもやっていけるスキルと成長を求めてコンサルティング会社に転職したので、会社の経営方針の大きな転換に合わせて、いよいよコンサルタント独立することを決めました。

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