生い立ち

幼少期~中学生 小学生時代から将来の夢は社長だった

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小学生の時から進むべき道は決まっていた
父親が建築会社の社長ということもあり、小さい頃から現場に遊びに行ったりしていました。この経験が後に建築業界へ進む下地となっていたのかもしれません。

スポーツは小学生から高校生まで野球一筋で、特に足は速かったです。中学生時代には陸上競技の千葉県大会にも出場したことがあります。そして、小学生時代の夢は社長になることでした。当時から自分でお金を稼ぐことが好きな子供で、家族には内緒で捨ててある空き缶や空き瓶を集めて換金するなど、お小遣い以外の収入を自分で作っていました。

中学生時代は硬式野球をやっていましたので、生活のメインは野球になりました。とはいえ、自分で稼ぐことも引き続き行なっており、この時は1個何円といった内職を家でやっていました。当時はオリックスのイチロー選手が活躍しており、同じスパイクが欲しかったのです。イチロー選手のスパイクを買うためには、何個の内職をすればいいのかと計算していました。負けず嫌いな性格で誰よりも良い道具で野球をし、より良い高校で甲子園に行くことが大きな目標でもありました。

高校生時代 ~最後の大会、引退後にアルバイトに没頭

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目指せ甲子園!野球少年なら誰もが描く目標だ。
高校時代は3年生の夏まではアルバイトもせず野球に没頭していました。また、3年生の時には副キャプテンに就任しました。そして、夏の県予選。結果、敗退してしまいましたが、部活の引退後はアルバイトに没頭しました。

なぜ、そんなにもアルバイトがしたかったのか。私には将来に対する明確なビジョンがあったからです。当時は自分で起業するのか、実家の建設会社を継ぐのかは分かりませんでしたが、あくまでも目標は社長になることでありました。高校卒業後は建築のことを幅広く学べる国際理工専門学校へ進み、卒業後は大手ゼネコンの清水建設株式会社へ入社。そこで大手の経営を見た後は中小企業へ転職し、その企業が大手へと成長する過程を経験したかったのです。

また、就職するまでに出来るだけ多くの業種でアルバイト経験をするという目標もありました。それは、社会人になってから職を変えるということは、簡単に出来ないからです。 様々なアルバイト経験し、そこから学んだことが社長になった時に生かせるのではないか。この考えから、高校から専門学校時代の期間に、教材販売、カラオケ屋、ゲームセンター、本屋、ビールの売り子、コンビニエンスストアの店員といったアルバイトに励みました

専門学校 ~月に100万円を稼ぐ学生アルバイター

専門学校では設計と現場監督の資格を取るなど勉強はもちろん、それ以上にアルバイトにも精を出しました。高校を卒業したての18、19歳といった年齢の時は、多くの若者と同様に車やファッションに興味があり、また、当時の携帯電話料金は今より月額の利用料金も高く、これは普通のアルバイトでは到底、間に合わないと考えました。そこで、歩合制で家庭教師の教材を売るアルバイトを始めました。このアルバイトでは月に100万円は稼いでいました。売り方としては、馬鹿正直に教材を売るのではなく「家庭教師をやりませんか」と、本当に売りたいものは表には出さず、あくまでも家庭教師をすすめる形から始めます。一つクッションをはさむこの手法は他の業種でも使えますし、多くの営業の方が実際に使っていると思います。当時は受験ブームということもあり、おかげさまでアルバイトでは全国1位にもなりました。

ただ、このアルバイトは一つ問題がありました。学生の身分で月に100万円を稼いでいたので、いざ就職して月給をいただいても数十万円にしかなりません。そのためモチベーションを保つのに苦労しました。

就職・新人時代 目標である清水建設への入社

清水建設への入社
短い在職期間だったが清水建設での経験は
貴重な経験値となった
就職活動では、目標である清水建設株式会社1本に絞り、他の会社への就職活動は行いませんでいた。

気合を入れての就職活動になるはずでしたが、学校側の推薦もありましたのですんなりと内定をいただきました。ただ、面接の際に人事の方へ「清水建設には長くいるつもりはない」と正直に言ってしまいました。このような生意気な発言をしても内定を取ることが出来たのは、清水建設株式会社の懐の深さもあったのかもしれません。

念願の清水建設株式会社に入ったからには、オフィスビルの建設といった大きな仕事に携わりたいと思っていました。自分が携わったなかで一番大きい案件は老人ホーム施設の受注です。金額にすると約80億円になります。学校を出たての若者が扱う案件としては大きいと思いますが、皮肉なことに、この施設を作る際、中学時代に野球で使用したグラウンドを潰さなくてはならなかったことが印象に残っています。自分がプレーしたグランドを潰すのは仕事とはいえ切なさを感じました。

結局、清水建設株式会社は1年半で退職いたしました。僅かな期間でしたが学ぶものも多くまだ覚えなければならないこともありましたが、大手であるがゆえに、本当にやりたいことができないジレンマを感じたからです。

清水建設株式会社を退職し、次に選んだのが株式会社レオパレス21です。ここでは「30年家賃を保証します」といったトークで投資家向けの営業活動をしていました。不動産投資に関わったのはこの時からになります。東日本1位(全国6位)の営業成績を収めることが出来ました。

株式会社レオパレス21時代にはリーマンショックを経験しました。リーマンショックの影響は不動産業界にも波及し、会社も含め投資家も大打撃を受けました。

その後、創業間もないMDIに転職し、営業活動をしているなかで同じ銀座にあるスマートライフ社と顔見知りになりました。徐々にアドバイスを送るような間柄になったある時、スマートライフ社の先代社長からある相談を受けました。年数が経った建物は当然ながら価値が下がります。それに伴い家賃も下げざるをえなくなります。これは地主や投資家にとっては頭の痛い問題であり、なんとかならないかと。以前からこの問題について考えていた私はシェアハウスという形態でこの問題を解決しました。私のアドバイスのおかげで、スマートライフ社の売上も右肩上がりになり、先代の社長から引き継ぐ形でスマートライフの二代目社長に就任いたしました。

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