生い立ち

幼少期 母の姿が商売の指針に

両親については今でも尊敬しています。特に美容院を営んでいた母に関しては、父以上に尊敬しています。自宅と美容院が同じ敷地にあったとはいえ、ほぼ365日、私が朝起きる前から働いており、当然ながら家事も行っています。そして、学校の部活を終え帰宅してもまだ働いています。そんな母の姿は商売を行なう上での指針になりました。

小学1年生の時のM先生は、今でもハッキリと覚えています。普通、小学校での机の配置といえば、教室に他の生徒と並んでいますが、私だけ特別に教壇の横にありました。ヤンチャといいますか、騒がしい生徒だったので、常に目が届く所にという先生の配慮です。

厳しい中にも愛情があり、何かしら気にかけていてくれた事は幼心でも分かります。商売をしていたため、母と接する時間が少ない分、先生と接する事で母親を感じていたのかもしれません。ちなみに先生の娘さんは後年、母の弟子になりますので、そこにも何かしらの縁を感じています。

大学生時代 アルバイトに明け暮れた大学時代

大学時代はホテルでアルバイト
大学時代はホテルでアルバイト
大学時代は勉強よりも渋谷でのアルバイトに精を出していました。今でも、大学時代にアルバイトでお金を稼いだ経験が自分を大きく変えてくれた、と思っています。

主にウエイターを中心としたバイトをしていましたが、合間にバイク便のライダーも経験しました。運ぶ荷物は写真のフイルムで、主に撮影現場から現像所までの往復です。

バイク便のアルバイトでは、フイルムを運ぶついでに集金の手伝いも行なっていました。

ある日、カメラマンに支払いの封筒を渡されたので、中を確認もせず直ぐに領収書を渡し、そのまま帰ろうとした瞬間、カメラマンがかなりの剣幕で怒ってきました。なぜ怒られるのか分からずにいると、「おまえ、支払いの金額が正しくなかったらどうするんだ」と教えてくれました。今から考えれば当たり前の事なのでしょうが、当時の自分はお金に対しての価値観や世間の常識を分かっていませんでした。集金の帰り道では怒られたショックよりも、恥ずかしさのほうが心に響きました。

また、結婚式の披露宴でのテーブル担当も経験しました。そこで、親族の高齢の方から、「心付け」をいただきました。初めての経験でした。海外でのチップはサービスの対価と感じますが、「心付け」には日本人の精神性が感じられ、少しですが大人の世界に触れた気がしました。

社会人時代 厳しかった就職活動

東京日産の営業所で
東京日産の営業所で
3年生になれば就職活動も考えなくてはなりません。ただ、この時は少し気楽に考えていました。大学の先輩達は続々と銀行や証券会社などに就職しており、超人気企業などより好みさえしなければ、どこかしらに入社できるものだとずっと思い込んでいました。そして、いざ就職活動を始めてみると、一向に内定を取ることができす、かなり落ち込んでいました。在学中から車が好きだったので、日産自動車も受けましたが残念ながら三次面接で終了しました。その後、東京日産自動車販売会社への入社が決まりましたが、きっかけはジュリアナ東京で行なわれた会社説明会でした。ZOOが説明会に出演するということもあり、遊び感覚で参加した説明会でしたが、そこで東京日産自動車販売の方に声をかけていただき、その後はスムーズに内定へと進みました。

東京日産自動車販売では荻窪分店へ配属され、営業エリアは練馬区となりました。
1年目の営業は、お客様に会えさえすれば何か起こるのでは? という希望だけの営業で、あまりにも非効率なもので、当然ながら成績も伴いません。

ところが、2年目にA課長が荻窪分店へ異動してきて一変しました。
分店には基盤カードという顧客のカードがあります。このカードには既納カードと未納カードの2種類があり、まずはこのカードを区分けします。そして、既納カードのお客様は定期的には訪問し、開拓していかなければならない未納のカードのお客様には、ライバル車であってもとにかく点検に来てくださいと、少しずつ距離を縮めていく営業です。この結果、3年後には未納カードを大幅に減らす事に成功しました。

同期には話し上手な社員もいました。話は上手いので、その時は売上を作ることができますが、いかんせん後が続かきません。同期入社の中でも圧倒的に話すのが苦手な私にとって、ロジカルに物事を考えるA課長の営業方法はフィットしました。営業がシナリオを作り、お客様を育てていく方法です。シナリオといってもお客様にカタログを届ける、といった事からJAFの加入手続きなど、それこそ多岐にわたります。

大きな公園に行くと、車の営業マンらしい人たちが寝ている光景をよく見かけます。そのような光景を見るたびに、私は常々もったいないと思っていました。私の営業方法は必ず実績に繋がると信じていましたし、無駄な時間は一切ありません。公園で寝るような営業マンには負ける気はしませんでしたし、その結果、私の営業成績は上位になることができました。

安定か挑戦か!?

3年間勤めていた東京日産を退職し、佐川急便や宝石販売といった職を経験した後に、おしぼり会社に転職の機会を得ました。現在では社員数800人ぐらいに成長している会社です。そこでは、女性数十人のマネージャーとしての内定を貰いましたが、ふと心に風が吹き込みました。果たしてこの会社で自分の運命は開けるのかと。この会社で順調に出世したとしても役員止まりではないのか。おしぼり会社に内定するのと同時期に、東京日産自動車販売時代の先輩が働いていた会社から熱心に誘われていました。安定か挑戦か?悩みましたが、社員4名のカーワイズに入社しました。
新しい会社を自分の力でどこまで大きくできるかを試したほうが自分らしいと感じたからです。

愛される営業へ

カーワイズでの事業は車の買い取りが中心です。
ワイズ山川起業当時
ワイズ山川起業当時
街の車屋さんから依頼があった車種に値段をつけて買い取ります。そこで発生した差額が利益になります。
「山ちゃん、この車を〇〇万円で買い取ってくれる?」、「この値段ならお客様が新車を買ってくれるんだよね」と、様々な依頼が舞い込みます。これまでドアのチャイムを押し、時には怒鳴り返される様な営業を行なってきた自分にとって、あまりにも新鮮でした。「必要としている人から(売りたいと思っている人から)、必要とされている金額で買い取る(希望金額で買い取る)」こんな素晴らしい仕事があったんだ!と。

こうなると仕事が面白く、家にいる時間がもったいなくなり、年に3日ぐらいしか休みませんでした。働けば働くほど稼げるということに加え、必要とされる存在だと伝わってきたからです。

この時、社長によく言われていたのが「人気者になれ」ということ。お客様に喜ばれれば自然と人気者になる。これはビィ・フォアードを立ち上げてからも社員には教えています。

家内との出会いもカーワイズ時代でした。ただ、デート中も仕事の事で頭が一杯で、実際に仕事の依頼の電話がひっきりなしに鳴り続けていました。元町に遊びに行った時にも、あまりにも掛かってくる電話の多さに、家内から「もう帰りましょう」と言われたこともありましたね。

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