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生い立ち

幼少期 3歳から一人で留守番

一番古い記憶は3歳時の留守番
一番古い記憶は3歳時の留守番

母からは「一人でできることは、自分でやりなさい」と幼い頃から躾けられて育ちました。
自分にとって一番古い記憶は、3歳の時の留守番です。今の世の中では考えられませんが、当時としても3歳児の留守番は珍しかったと思います。玄関の鍵をかけて、お昼の12時から夕方5時くらいまでの時間を、一人で過していました。そんな留守番生活も1年たったある日、「チロリン村とくるみの木」というTV番組を観ながら、つい寝てしまったのです。当時はアパート暮らしだったので、玄関の鍵が開かないと誰も入れません。母は玄関のドアを叩きながら「ヒデキ、ヒデキ!」と私の名を呼び続けたそうですが、TVの音もあり、まったく気づかずに眠りこんでしまいました。幼心ながらも、かなりの責任を感じたことが、自分にとっての最古の記憶です。空腹に耐えかねて、石鹸をかじってしまったこともありました。

母は非常にクリエイティブな人でしたので、出かける前には必ず、留守番の注意事項を歌にして、聞かせてくれました。「蛇口をひねってはいけないよ♪」「マッチをすってはいけないよ♪」と、全部で10番ぐらいありましたが、これを全部歌ってから「いってくるわね」と、毎日仕事に出かけていきました。

演劇やミュージカルをこよなく愛し、後にひょんなことから実際にミュージカルカンパニーを持ち、経営していた母ですが、その布石は幼い我が子に対する愛情から生じたのかもしれません。

そして、留守番には家族の食事を作るという大事な仕事もあります。当然食事を作るには材料を買わなければなりません。小学校3年生からは、1,000円札1枚と買い物カゴを持って、当時はスーパーもないものですから、商店街を回って買い物をしました。安い食材を探したり、肉屋のおじさんにコロッケをおまけしてもらったり。この夕飯の買い物で、私は経済を学んだと言っても過言ではありません。
料理も徐々にですが作れるようになり、中学生になる頃には、生活に関することは、ほぼ全て一人で出来るようになっていました。

高校生時代 祖父の一言で弁護士を目指す

弁護士を目指した早稲田大学へ
弁護士を目指した早稲田大学へ
中学、高校は玉川学園で学びました。男女を問わず多くの友達ができ、楽しい毎日でした。我が家は女系家族でして、親戚の女性に囲まれた生活が長く、女子ともすぐに打ち解けられました。

部活は剣道部に入部し、汗臭い野郎たちと徹底して鍛えあうという、なかなかメリハリが利いた学園生活でした。ちなみに剣道は三段の腕前です。

高校生になると、手に職というか、何か資格を持たなければ、と考えるようになりました。そんな時、実業家でワンマンの典型だった祖父から「医者か弁護士を目指せ」とかなり高いハードルを突きつけられました。そこで、東京医科歯科大学を目指そうかと、早速、赤本を購入。数学の問題を解こうとペンを持った瞬間……「医者は向いていない」と感じました。それでは弁護士だ。祖父からは、「司法試験といえば早稲田、中央のどちらかだから、絶対に合格しろ」と厳命を受けました。

玉川学園は“お坊ちゃん、お嬢ちゃん校”的なイメージがありますが、全人教育という、素晴らしい理念に基づいたホリスティックな教育を実践しています。例えるならば「アートをしつつも、田植えもする」「肥桶も担ぐし、ピアノも弾く」といった具合です。私が思うに玉川学園の創立者である小原國芳(おばらくによし)先生は、教育者でありつつ、起業家としても非常に優秀な人物で、私は幸運にも、先生のご存命中に薫陶を受けた最後の世代です。小田急線の「玉川学園前駅」を作った際の、政治家とのやりとりのエピソードなどは起業家の立志伝そのものです。我々は尊敬の念から「玉川の親父」と呼び、慕っていました。

玉川学園の学風は、現在の自分を育ててくれた、性に合うものでしたが、大学には法学部がありません。当時は今以上に、内部進学が当たり前でしたが、弁護士を目指すために早稲田大学を受験。現役での合格は、ほんの数点の差でかなわず、翌年の春入学することとなりました。我ながら、創意工夫を凝らして勉強しました。そして、そのときの勉強法や経験が、後に創った早稲田塾の基盤になったのです。
 

大学生時代 学生ながら、起業した理由は?

設立直後の早稲田塾
設立直後の早稲田塾
早稲田大学に在籍中に、早稲田塾を起業しました。そのきっかけは……母の「塾を創りなさい」の一言です。浪人時代の私を間近で見ていた母だからこそ、私の勉強方法や性癖が、塾経営に活かされるとわかっていたのでしょう。わが母ながら、類まれなる眼力の持ち主でした。そして、若干19歳、しかも学生の身分でしたが、素直に「はい、わかりました」と早稲田塾を立ち上げたのです。

もうおわかりでしょうが、私はかなりのマザコンです。母は昨年の3月25日、享年83歳で亡くなりました。これは私にとって一番恐れていたことです。
早稲田塾は、母との二人三脚で創りました。株式会社サマデイの社員も皆、母から薫陶を受けており、まさにビッグマザー、大家族の長(おさ)的な存在でした。過去、母に若干の反抗をした時期もありましたが幼少期から「絶対にサラリーマンにはなるな」と母なりの帝王学を叩き込まれ、そして、起業家になれというミッションについては、その道を歩んでいますので、少しは親孝行出来たのかな、と。亡くなってから、いっそう身近に感じられということは、きっと今も見守ってくれている証であると信じています。

早稲田塾の話に戻ります。最初の生徒は、たったの5名。父親のネットワークを使い集めました。当時父は、一級建築士として工務店を経営しており、その関係筋である畳屋、左官屋といった業者の方に頼み、三顧の礼をつくして、お子さんに入塾していただきました。

これが、浪人は当たり前だった時代に「現役高校生のための予備校」という、世の中に存在しなかったコンセプトを打ち立て、後に急成長した早稲田塾の原点です。
 

20歳で株式会社サマデイを設立

20歳になり、母から「私とあなたの50%ずつの持ち株会社を創ろう」といわれ、これまた素直に、昭和54年3月23日に株式会社サマデイを設立しました。今期で38期を迎え、おかげさまで一度も赤字を出すこと無く継続することが出来ています。母の残してくれた最大の財産である理念を引き継ぎ、発展させ続けていきたいと思っています。

その筆頭の理由は、「塾を通じて、日本という国の教育改革をしたい」と思っているから。
開国から明治にかけての激動の時代「塾」が日本の未来を拓いた。松下村塾、適塾、後の慶應義塾など、幕府の藩校ではなく、進取の志を持つ若者が集い、切磋琢磨した塾から傑物が輩出され、近代日本の礎を築いたのです。

「自分はこれだけは絶対!」という核を持つと、自走してさらに深く突き詰めたり、広い世界を見たいと思うようになる。それには、若い時代に、吉田松陰のような先達に出会うことがとても大切なんです。私も「これぞ!」と思った方には、どんどん会いにいきます。この、エリートたちとの出会いが、『目のつけどころ』の本の題材にもなったのです。

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