生い立ち
幼少期 ~納得しないと動かないとういう子供の頃の原体験~

監督、コーチ、先生方、誰に対してもそうで、理由が納得できればどこまでもやる。現代っ子です。当時、同級生に「親からあっちゃん(当時の呼ばれ方)と遊ぶなって言われたから、今日は遊べないよ」って言われたことがあり、中学受験をするような親御さんからも問題児扱いされていました。それを僕の親に伝えたらとても悲しまれたということがありました。

学生時代 ~「野球で日本一を目指す」を本気でやってきた~
小学生から大学までの16年間、野球ひと筋。小中高大の全てで全国大会に出場し、日本一を2回、甲子園ベスト8を経験しています。


家庭環境
父親は62歳で亡くなりました。バブル絶頂期の平成初期に独立をし、事業で失敗。仲間の裏切りもあり、いつの間にか不動産の連帯債務者となっていたりと、いろいろありまして。小学校高学年くらいの頃から、毎晩家庭ではお金の話で険悪な雰囲気の中過ごしていました。唯一、自分の野球と勉強の結果が明るい話題となっていたこともあり、あらゆる遊びや誘惑を断ち、とにかく結果を出すことに必死でした。高校進学後、ついに家庭が経済的にも精神的にも持たなくなってしまいました。母親から現状を伝えられ、今後の生活のことを話す中で、「離婚しても良いのでは」という話になりました。兄もそれぞれ実家を出ており、母子家庭になった方が市からの補助も出て、生き延びられるという事情もあり、冷静に選択をしました。とはいえ、生活は厳しいまま、兄は学校を辞めて働きに出て、僕の高校の学費を負担してくれました。
高校大学一貫の慶応高校で、奨学金の申請者は一定数いるのですが、補助金の申請をするのは創立以来初めてだと事務の方に言われました。『巨人の星』の星飛雄馬みたいでした。母親にもそのことを伝え、大学に進学するかどうかを相談すると、涙ながらに「立派に卒業して欲しい、野球も続けて欲しい」と言われました。そんな背景もあり、大学に進学することは自分への投資であることを強く認識し、明確な意思を持って進学させて頂きました。
野球は続けたい、しかしプロになるわけではない。自分もアルバイトをしないと食っていけない状況下、最適な選択肢が体育会の準硬式野球部でした。このチームで結果を出すことが将来に繋がると確信し、自らが指揮を執りたい旨を上級生に提案し、学生コーチという役職を自ら作り、監督業をやらせて頂きました。
学業の方も、大学は研究会(ゼミ)で、学部生初の学会発表(論文発表:認知科学会・人工知能学会)を実現し、一番身近な大人が教授だったこともあり、当時は教授を目指していました。しかし、そこでもまた挫折がありました。教授になるまでの時間軸が読めなかったことです。ステップはおおよそ見えている、しかしポジションができるかどうかは別問題。そこに政治も必要だし、苦戦している博士課程の先輩方を何人も見ていたので目標設定に確信を持てないでいました。一方、となりの教室ではゲスト講師として、ディー・エヌ・エーの南場会長(当時社長)が登壇し「寝ないで働くのよ!」という旨の力強い発信をされていて、そこで起業という選択を知りました。今すぐ起業できるとは思えませんでしたが、ベンチャー企業で社長の近くで働き、ビジネスで結果を出す方が教壇に立てるスピードが速いかも、と思い、新卒で子会社社長が輩出されているサイバーエージェントへの入社を決めました。
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