人を動かす力、お金を動かす力
エイベックス・インターナショナル・ホールディングス・リミテッド 代表取締役社長
北谷 賢司 氏

人を動かす力、お金を動かす力|エイベックス・インターナショナル・ホールディングス・リミテッド 代表取締役社長 北谷賢司氏

エイベックス・インターナショナル・ホールディングス・
リミテッド 代表取締役社長 
北谷 賢司(きたたに けんじ)氏

エイベックス・インターナショナル・ホールディングス・リミテッド 代表取締役社長 北谷賢司氏
エイベックス・インターナショナル・ホールディングス・リミテッド 代表取締役社長 北谷賢司氏

著者プロフィールエイベックス・インターナショナル・ホールディングス・リミテッド代表取締役社長。
金沢工業大学虎ノ門大学院教授。

ワシントン州立大学財団理事。ワシントン州立大学卒。ウィスコンシン大学大学院にて博士号を取得。
26歳でワシントン州立大学の助教授に就任した後、インディアナ大学テレコミュニケーション経営研究所副所長を務めながら、日本テレビ放送網顧問として海外番組の販売や米国現地法人の開設に携わり、『鉄腕アトム』英語版52本の脚本を制作する。
また、TBS顧問やTBSインターナショナル上席副社長、TBSメディア総合研究所社長、大手商社顧問などを歴任。
その後、東京ドーム取締役兼米国法人社長として、ローリング・ストーンズやマイケル・ジャクソン、マドンナなど超大物アーティストのコンサートツアーと、NFLや大リーグなど国際スポーツ興行の招聘交渉を手がけ、「伝説的プロモーター」として業界に知れわたる。
1999年には、ソニーの出井伸之社長(当時)にスカウトされ、同社顧問に就任。
2001年からは同社執行役員兼米国本社エグゼクティブ・バイス・プレジデントとして、ストリンガー現会長の下で北米グループ企業のマーケティング統括責任者を務める。
2004年に両親の介護の為に31年ぶりに帰国してからは、ソニーやローソン、ぴあ、オークローンマーケティングなどで、顧問、社外取締役を勤め、2011年7月から現職。

執筆の動機

自分のユニークな経験が若い人々のこれからの人生やビジネスの糧になればという想い

執筆の動機

もともと、自ら自身の経験談や自伝を出すつもりがあった訳ではない。
なぜなら、我々は仕事柄、アーティストやスポーツチームなどとの守秘義務があり、プロジェクトの進行中は勿論、プロジェクトが終了した後も、業務上知り得た知識や情報の詳細を一般に開示して、報酬を得ることは相応しくない行為だからだ。
当然、本を執筆することは基本的にお断りしてきた。
現在、新書・ビジネス書を賑わしているソニーのストリンガーに関しても、彼がアメリカのトップになった時から自分がNo.2であったため、実際、様々な出版社から声がかかったが、これも全てお断りしている。
だが今回は、私の豊富な海外生活体験、上場会社での役員の経験、プロモーターという特殊な業界でのビジネス経験というところから、通常の政財界人とは異なった切り口で、今の若い人たちに対して、何かユニークで有益なメッセージ・示唆を与えることが出来るはずと出版社の方にご提案いただいた。
自分としては、興行ビジネスという特殊な業界での経験では、あまりご期待に添えないのではと考えたが、出版社の方に何度も熱心に説得された結果、華やかな世界の光と影を描くことを目的とせずに、自分が経験から得たことがこれからの若い人に少しでもアドバイスになればという想いで執筆を引き受けた。
この本の印税については全額を寄付している。

「プロモーター」・・・それは、イベントに必要なお金、場所、人、時間、これらすべてを統括管理する人間のことであり、「人を動かす力」と「お金を動かす力」の二つが必要とされる職業のこと。
著者はマイケル・ジャクソンやローリング・ストーンズ、マドンナなどの超大物のコンサートツアーから、NBAや大リーグなどのスポーツまで、数々の大型興行を成功させ、「伝説的プロモーター」としてその名を轟かせる人物。
そんな著者が、業界の慣習を壊し、スーパースターたちから要求される無理難題をクリアし、そして一癖も二癖もある怪しい人物たちと交渉してきたなかで培った仕事の哲学とは?

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生い立ち

生い立ち

父親のリベラルな教育方針が、“多様性”を受け入れる原点に

小学校はカトリック系の私学

両親の影響は非常に大きいと思っている。 特に、父は、呼吸器を専門とした臨床研究医として、複数の大学病院で研究を行いながら、最終的には医局長まで勤めた人間である。
私の生まれは関西だが、父が「関西弁に漬かった生活だけでは、色々バランスが悪くなる」という考えから、小学校はカトリック系の私学へ入学することになった。 この小学校は、当時には珍しく、1学年2クラス、しかも1クラス10名~15名という少数教育を行っており、また先生もイタリア人神父やカナダ人シスターが普通にいるといった環境だった。
同級生は芸能系やスポーツ系、中小企業のオーナーの子息や、開業医の息子など、裕福な家庭の子供が多かった。父は開業医ではなかったために、おそらく学費に関しては苦労してくれたのだと思う。
小学生時代にこのような環境に身を置いたことから、外国人に対する違和感はなく、週3時間から4時間の英語の授業があったために、外国人が話す英語に対するバリアというもの感じなかった。 中学・高校は、小学校の系列で東大・京大・医学部などを輩出する進学校に進んだ。
ところが、進学してすぐに、「小学校から高校まで私学の環境ばかり漬かっていると、世の中の本当の姿が見えなくなる。」という父の考えから、大阪市内に公立中学に転校することになったのである。
父の言い分はもっともだと思い、転校そのものに反発はしなかった。
だが、私学にはいない様々な家庭環境から集まってくる友達には、正直ショックを受けた。
同時に、「なるほど私学だけでは世界全体は見えてこない」と実感させられた。

高校は医学進学系コース

2年間ほどで、また私学に戻ることになった。
医者の一人息子ということから、周囲も自分も当然医学部を目指すものとの考え、高校は医学進学系コースを選んだが、実は理系教科の数学・物理が苦手で、むしろ文系教科の方が得意であったため、私が友人の倫理の宗教ノートなどを作成してあげる代わりに、数学・物理を教えてもらっていた。
そんな状況で、大学入試は国立1期校・2期校とも不合格、それでもなんとか私立医大に合格した。
自分としては、それでも倍率40倍の競争率を乗り越えて合格したのだから、これでなんとか医者になれると安堵していた。
しかし、父は「医者になるなら一流大学へ行け、そうでないなら頭を冷やして別の道を考えろ」と私立医大進学に強く反対した。
父は、もともと文系志向で京大法学部を目指していたが、親のたっての願いで理系に転向し、第七高校を中退、そこから勉強しなおして私立医大を経て、大阪大学で医学博士号を取得した。
父が私立医大進学を強く反対したのは、象牙の塔の中、他学出身者で研究医にまでなった苦労の人であり、医者の世界の実情をよく知っていたからだと思う。
父は、結局最後まで私立医大入学に首を縦に振らず、自分としてもよくよく考えた結果、関東の予備校でしっかり勉強し、再度医学部を目指すことにしたのである。

東京でのエド・マーロウの伝記との出会いが、“ギア・チェンジ”のきっかけ

東京の下宿は、六本木の榎坂

東京の下宿は、六本木の榎坂という遊ぶには絶好な場所にあったため、高額な寄付金によって親がかりで東京の私立医大に入学した友人達が、夕方になると入れ替わり立ち替わり誘いに来た。
親元から離れた誘惑的な環境で、年頃でもあり、医大生と一緒にいるとモテるということもあって、あまり勉強もせずに青春を謳歌していた。
それでも、これではいけないという気持ちがどこかにあったが、やはり興味の向かない理数系の勉強は相変わらず頭に入らなかった。 当時、予備校への通学路にあった赤坂のTBS会館には、週末、深夜放送の公開収録のために、若者が行列しているのをよく見かけた。

最初は興味がなかったが、放送局やテレビ局の大変な人気に驚き、マスコミ関係の本がたくさん置いてある金松堂書店でいくつかの本を手にとるうち、エド・マーロウの伝記に出会った。
エド・マーロウとは、テレビジャーナリズムによってマッカーシズムを打破したり、人種差別を撤廃の方向に持っていったり、ロンドンからナチスの空襲下にリポートを送ったりしたことで有名なアメリカのジャーナリストである。
彼の伝記を読んで、「自分は絶対これになりたい!放送ジャーナリストになりたい!」と強く思った。 そこで、父に、自分は理系に向いていないこと、放送ジャーナリストになるための勉強をしたいことを話すと、当然最初は反対されたが、本気であることを伝えると「アメリカのきちんとした大学から入学許可証がとれるのならやってみろ」ということになった。
自分としては、今回は何をしてでも条件をクリアしたかったため、アメリカ大使館併設のアメリカ文化センターで留学のアドバイスを受け、参考書ももらい、必死で勉強し、さらにアメリカンスクールにも通った。

ワシントン州立大学から入学許可証

統一一次試験もTOEFLも受けて、結果をアメリカの大学に送ったところ、エド・マーロウの母校であるワシントン州立大学から入学許可証が送られてきた。
父はその努力の成果を認めてくれ、海外留学をさせてくれた。
今想うと、当時1ドル360円時代の高い学費を捻出するために、一番やりたくなっかったであろう製薬会社のための論文を書いたり、行きたくない病院の当直をしたりして費用を捻出してくれたのではないかと思う。
自分としても浪人した時間を取り戻したいという気持ちもあり、好きな放送ジャーナリズムを必死で勉強し、本来4年で卒業するところを3年弱で卒業することが出来た。

卒業直後の就職での失敗が、“開拓者”となるさらなるエネルギーに

卒業直後の就職での失敗

日本で就職するために帰国したが、当時は海外大学卒業者に採用の門戸は開かれておらず、コネが必要だといわれた。
さらに、オイルショックの影響で日本は不景気の真っ只中にあり、新卒の採用数は絞られて非常に厳しい状況にあった。
父が根回ししてくれ、元大臣の先生に色々とテレビ局なども紹介してもらったが、そもそもコネ入社が多いテレビ業界で、採用数も絞られている上、海外の大学卒業生を採用するという先例はないと言われ、いよいよ無理かという状況だった。
しかし、唯一、某キー局だけは、トロイカ体制のユニークな経営者が揃って「面白い奴だ、俺達のところへ来い」という話になった。
しかし、人事からのオファーは、近く外人向けにケーブルテレビ事業を始めるので、アメリカでの知識があるなら好都合だから、とりあえず嘱託で入れば、来春には正社員にしてやるというものだった。 当時のアメリカの常識では、メディアを専攻した学生の就職先の最上位はテレビ局・ラジオ局、その次が広告代理店、その次がPR会社という序列で、ケーブルテレビは最下位層に位置していた。
なぜなら、ケーブルテレビは、コンテンツ自主放送なしの再送信サービスのみだったためである。
自分としては、アメリカでジャーナリズムを一生懸命学び、せっかく大学まで卒業したのに、なぜ東京の外国人相手にケーブルを売らなければならないんだという思いで、全く面白くないと考えていた。
父からは、「日本の企業では、経験を積んで能力を認められてから、報道でも何でも異動を希望すればいいではないか。贅沢を言うな。」と言われたが、やはり自分としてはどうしても納得できなかった。 そこで、アメリカに戻って勉強し、世間に認められる資格を取って、もう1度チャレンジしたいと考えた。
今度は父に学費の面倒を見てもらう訳にはいかないので、奨学金をとることも自分から申し出た。
父は「どうせ資格をとるなら、弁護士でも博士号でも最高位の資格をとってこい」と送り出してくれた。
短期間、母校の大学院に在籍したあと、ウイスコンシン大学の法科大学院に奨学金を得て進んだ。 そこまでは順調だったが、当時のアメリカでは、帰化するか永住権を取得しなければ法曹資格試験は受けられず、再び壁にぶつかってしまった。
指導教授に相談したところ、「それなら、君は国際法廷の弁護士になるべきだ」との指針を示してくれ、さらに「君は少し山っ気があるからビジネスの勉強もした方がいい」と、MBAとロースクール、そして専門領域のテレコミュニケーションの良いところ取りで博士号がとれるカリキュラムを組んでくれた。
また、奨学金はもらっていたものの、父は引き続き学費の心配をしてくれ、それを元手に先生から勧められたヨーロッパでのインターンに3年連続で参加した。
先生方の配慮で、現地の放送局に受け入れてもらえ、当時、アカデミズムの世界で議論が盛んだった「国際情報流通論」なども、報道の第一線の現場で検証することが出来た。

母校のワシントン州立大学

博士課程が修了する頃、幸運なことに母校のワシントン州立大学に助教授の欠員が出来、戻ってこないかとの誘いがあり、そのまま助教授に着任することになった。
アメリカの大学ヒエラルキーは大変厳しく、出身校のレイヤーより高い大学の教授にはなれず、また同じレイヤーの大学の教授になるためには、それより低いレイヤーの大学で数年の修行を積むというのが通常のキャリアであった。
そのような中、最初から母校の助教授に就任できたというのは、本当にラッキーなことだと言える。 その後は、1980年に日本で“ニューメディアブーム”が起こり、当時の電電公社をはじめテレビ局など通信・メディア業界で新しい取り組みが始まった。
そこで、唯一その分野で日本人として精通していた私に、色々なところから次々とお声がかかって来たわけである。
それからは求められるままに仕事を引き受けているうちに、気がついたら今の自分がいたと言える。

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ビジネス美学

ビジネス美学

騙されていてもいいから、人には親切に

「信頼」されるためには、騙されていてもいいから人には親切にすること。
100人に親切にして、その中の1人でも2人でも10年後に「ありがとう」と言ってくれるのであれば、それで良しと思うことにしている。
自分の親切に対して、相手からの見返りを求めない。
なぜなら、自分は相手にとって良かれと思ってしていることが、相手にとって本当に嬉しいことかどうかはわからないからだ。
こちらとしては精一杯相手に誠意をつくすが、相手からの見返りを期待しない、そう思った途端に吹っ切れて、一つ上のステージに行けたような気がする。
ここに気付くまで20年くらいかかった気がするが、それで人生が随分生き易くなった。

富や名声を築くことが幸せではない

仕事柄、若いうちから富裕層の人たちをたくさん見てきた。
一流のビジネスパーソンもいれば、大物アーティスト、スポーツ選手など色々な人がいる。
それも、少しくらいのお金持ちではなく、我々とは生きる世界も価値観も桁違いに異なる巨万の富や名声を築いている人たちである。
しかし、彼らのほとんどはHappyではない。
彼らはお金を持っているが故に、それを狙う多くの有象無象の取り巻きが集まり、だんだん裸の王様になってしまう。
また、同じ世界に生きる人間同士の間で渦巻く激しい嫉妬や醜い競争、見栄の張り合いなど、エゴとエゴの闘いを見て、そこに幸せはないと感じるようになった。
食べるには困らない中流の少し上で、心許せる家族や信頼関係で結ばれた仲間との中で人生を過ごすことが一番幸せではないかと思っている。
40歳過ぎたころから、金欲・物欲が全く消え、お金があるのなら高級なものを買うより大学に基金を創って寄付した方がよいと考え、行動している。

若い人と自分のために大学で教え続ける

若い人と自分のために大学で教え続ける

現在、ビジネスと社会人大学院の教授という、いわば2足の草鞋を履いているが、どんな状況になっても大学では教え続けようと思っている。
人に教えるためには、まず自分が一生懸命勉強しなくてはならない。
人生、常に勉強し続けることは、自分の頭のアップデイトのためにも、教えられる人たちに失礼がないようにという意味でも大変重要なことだと思っている。
また、大学で若い人たちに触れていると、世相やトレンドがよく分かる。
自分自身が身をおいているエンターテインメントの世界は、特に若い人たちの興味や感性に対する感度が重要である。
このような想いから大学で教鞭をとることで感謝されるのであれば嬉しいことである。
今回エイベックス社に縁を得たのも、ソニーのコーポレイトユニバーシティで教えた社員がエイベックス社にヘッドハンティングされ、彼から声をかけられたことにある。
見返りを求めずにしていることが、相手のためになり感謝され、回りまわって自分に返ってくるのであれば、素晴らしく幸せなことだと思う。

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将来の夢

将来の夢

日本のアーティストと若いビジネスパーソンが世界市場で活躍すること

日本のアーティストはクロスオーバーで海外に出ていくことが出来ていない。
だから、世界の市場で彼らが活躍し、評価されるよう送り出していく仕事がしたいと思っている。
エイベックスの社員、そして日本の若い人たちには、世界で活躍する“志”を持ってもらいたい。
今、韓流スター、K-POPなどの勢いが素晴らしいが、韓国人に出来て、日本人に出来ないはずがない。
韓国人のすごいところは、皆プライドを持っている。
このプライドは、人をポジティブにさせ、また強いアイデンティティの基になる。
日本人もプライドを持ち自信を持って欲しい。
今後は、どんどん外に目を向け、活動の場を広げていって欲しいと思っている。
自分が死ぬ時に、お金やモノは残していけない。
だから、これからの若い人たちに対して自分の“想い”や“ネットワーク”を残していくことが私の役目であり夢でもある。

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語録

語録

北谷語録1「ソニーのストリンガーより名刺ホルダーが大きい男」

名刺ホルダー

ストリンガーのNo.2として、アメリカのソニーに在籍していたときに、彼から「何故、社長の私より君のローロデックス(回転式の名刺ホルダー)の方が大きいのか?」と不思議がられた。
ストリンガーにしてみれば、私は東京のCEOから送られた目付け役ではないかとの疑念に加え、一般的な日本人の海外駐在員のイメージとは異なることに不信感を抱いたのではないかと思う。
しかし、ローロデックスの大きさは、そのまま私が築いてきたネットワーク・信頼関係の大きさである。
実は、ストリンガーと私は共通のリスペクトで結ばれている。ストリンガーは、尊敬するエド・マーロウと同じCBSに入社した経歴を持ち、私は、エド・マーロウの伝記に出会ってこの道を選んでいるからである。同じリスペクトで結ばれた2人が、今度はお互いをリスペクトしあう関係になっていったのである。

北谷語録2「人がやらないこと・人が失敗したことをやることは楽しい」

常に正しい方向はどちらということを意識している。
まだ誰もやったことのないことや人がやらないことに挑戦することには興味がある。
また、色々な人が試行錯誤して上手くいかなかったことだからこそ、やってみようかという気持ちも持っている。

北谷語録3「愉快犯」

見返りを期待せずに人には親切にするようにしているが、やはり人に喜んでもらえることをすることは嬉しい。
エイベックスでも、担当事業とは異なる部門の社員が次々と相談に来る。
ビジネスと個人の成長ために、色々とアドバイスしたり、自分のネットワークを紹介したりしている。
それで彼らのビジネスが上手く行き、個人も成長も出来るのであれば面白いと思っている。
そういう意味では、“愉快犯”でやっているのかもしれない。

■取材チームからの一言

プロモーション代表 菅原と
プロモーション代表 菅原と

海千山千の興行の世界で、ローリング・ストーンズ、マドンナ、マイケル・ジャクソンといった世界レベルのトップアーティストを日本招聘し、数々の上場企業の役員や顧問を一匹狼的に歴任しながら、大学院で教鞭を取る・・・。
インタビュー前は、どんな迫力のある方だろうと、初対面でこちらの魂を抜かれないようにと緊張していたが、穏やかに淡々と語られるお話は、大変清明で悟りの世界に近いことに逆にびっくりした。幼少からのリベラルな教育と、ビジネスで頂点を極めた人たちを間近で見てきた環境が、人生とビジネスの本質を見抜く静かで温かな目(価値観)として結晶されていらっしゃるのだろうと感じた。

著者サイン

何ものにも代えがたい人生の財産=(信頼)を築き上げることの意味を、まさにたたずまいとして体現されていらっしゃる方で、インタビューが終わったときには、別の意味で魂を奪われるような気持ちになっていた。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 非公表
出身地 兵庫県芦屋市
血液型 非公表
生活リズム 平均起床時刻 午前6時
平均就寝時刻 午前2時
平均睡眠時間 4時間
平均出社時刻 午前9時30分
平均退社時刻 午後7時
自己流 ゲン担ぎ 無し
集中法 耳栓
リラックス法 読書
健康法 水泳
休日の過ごし方 ジムと映画鑑賞
座右の銘 築いた橋を燃やして渡るな
好み 趣味 ビジネスディールメイキング
好きなブランド 高野山清浄心院
好きな食べ物 牛ヒレ肉
好きなお酒 飲酒しません
好きなエリア 米国ワシントン州北西部
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Voice 秘書(社員)から一言 世界中を飛びまわって常に寝不足なので少しお休みしてください!

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