スターバックスコーヒージャパン株式会社元CEO
リーダーシップコンサルティング代表
岩田 松雄(いわた まつお)氏
著者プロフィール
1958年生まれ。
大阪大学経済学部卒業後、日産自動車株式会社に入社。生産、品質、購買、セールスマンから財務に至るまで幅広く経験し、UCLAアンダーソンスクールに留学。
その後、外資系コンサルティング会社ジェミニ・コンサルティング・ジャパン、日本コカ・コーラ株式会社役員を経て、ゲーム会社の株式会社アトラスの代表取締役社長として、三期連続赤字企業をターンアラウンド。
株式会社タカラ常務取締役を経て株式会社イオンフォレスト(ザ・ボディショップ)の代表取締役社長に就任。店舗数を107店舗から175店舗に拡大、売り上げを67億円から約140億円に拡大させる。
その後、スターバックス コーヒー ジャパン 株式会社のCEOとして「100年後も光り輝くブランド」を掲げ、業績を右肩上がりに成長させる。2010年度には過去最高売り上げ1016億円を達成。
それらの実績が認められ、UCLAビジネススクールより全卒業生3万7000人から、「100 Inspirational Alumni」(日本人でわずか4名)に選出される。
現在、リーダーシップコンサルティングを立ち上げ、次世代のリーダー育成に力を注いでいる。
執筆の動機
本当のリーダーシップのあり方をまとめる ~スターバックスCEO退任後の大きな流れに乗って
私にとって、2年前の2011年3月11日の東日本大震災の前後1週間は人生激変のタイミングだった。
震災直前にスターバックスコーヒージャパンのCEOを退任し、震災によって自宅が傾き、以前の膝の術後が芳しくなく震災後3日目に再手術のために入院をした。
入院中の退屈にまかせて自分の天中殺を調べてみたところ、まさに今がど真ん中ということが判明。退院した後も、前から出版したいと思って進めていた出版の企画が何度も流れたり、いろんなことが裏目に出ることが多かった。
スピリチュアルなものを信じているわけではないが、そういう時期はいたずらに動き回らない方が良いというアドバイスにしたがって、1年ほどは静かに過ごしていた。
そんな中、昨年のはじめに私のセミナーに参加したサンマーク出版の担当者から連絡があり、本を出しませんかと声をかけてくれた。
震災直後は何度も流れてしまった出版の企画だが、今回はとんとん拍子で話が進み、昨年10月には、シリーズ一冊目となった『「ついていきたい」と思われるリーダーになる51の考え方』を出版することができた。
本が売れないと言われている今の時代、あっという間にこの本は30万部を超えるベストセラーになり、スターバックスのCEOを退任して立ち上げたコンサル会社(リーダーシップコンサルティング)としても多くの依頼が来ている。
その後も間を空けず『ミッション』『スターバックスCEOだった私が社員に贈り続けた31の言葉』の出版が続いた。
考えてみればこれはちょうど先の天中殺を抜けたタイミングに合致しており、人生における大きな流れ・運がまためぐってきたのだと思った。こういう時は、流れに乗った方が良い。昨年秋以降に依頼される案件については、基本的にすべて断らず受けることにしている。 医師であり脳科学者・認知科学者としても高名な中野信子さんの近著『科学がつきとめた「運のいい人」』によると、運をつかむための最終結論は「祈りなさい」というものである。運のいい人は、運がやって来たときにしっかりとアンテナが立ち、それをしっかりと掴むことができるのだという。祈るというと宗教の匂いがするが、祈るということは「信じる(信念)」「自己暗示」でもあり、それがチャンスを引き込む力となるのだ。
また、松下幸之助は「謙虚であることが運を呼び込む」と言っている。成功を自分の力だと思うのではなく、謙虚な心で他者へ感謝できる人のところにはまた運がやってくるという考え方だ。
さらに、『ビジョナリー・カンパニー2』における第五水準の経営者は「成功を収めた時は窓の外を見る(他者・環境のお蔭と考える)。結果が悪かった時は鏡を見る(自分の責任と考える)」と言っている。
呂新吾の呻吟語深にある「沈厚重なるは第一等の資質」も同様の考え方である。
これら識者による経営者、リーダーに関する見解は、実は本質的に同じことを指摘している。
残念ながら、今の日本に本当のリーダーは少ない。震災後の原発事故の対応においても、様々な復興施策においても、日本に良いフォロワーは沢山いるのに、良いリーダーがいないのは残念である。
私は日本が大好きであるからこそ、これまでの自分自身の経験に照らし、識者それぞれの見解に対して「点」で共感していたリーダー像を統一的に整理して、日本に良い経営者・リーダーを育てるべく昨年から集中的な出版を進めている。
ザ・ボディショップやスターバックスのCEOを務めてきた岩田さんも、もちろんかつては部下だった時代があります。
部下時代にはどう仕事や勉強に向き合っていたか。
そして上司や経営者になったときにはどんな部下の存在に助けられたか……。
かつて部下だった経験と、上司として部下を持った経験と。
その両面から見た「君にまかせたい」と言われる理想の部下の姿について51項目にまとめました。
同じ著者によるおすすめ著書
「ついていきたい」と思われるリーダーになる51の考え方
ミッション 元スターバックスCEOが教える働く理由
生い立ち
小学校時代 ~小さいころから周囲にぶつかりまくる「個」の強さ
祖父は岐阜から大阪に出てきて、7,8人の従業員を使いながら古紙再生の商売を始めた。
父は祖父の意向で夜間高校を出た後、家の商売を継いだが、本人としては納得していなかったのだろう。祖父が亡くなるとすぐ古紙再生の商売はたたんで、自分で喫茶店を開き、長いこと経営していた。
私は幼い頃からませていたらしく、保育園は飛び級して最初から年中組に入園、年中組に2年いてから年長組になった。言葉をかえれば「個」が立った生意気な子供だったとも言える。大人からすれば生意気な子供は可愛くないだろう。特に可愛いがられた印象はないのだが、小学校3年生の時、担任の先生が「岩田くんはきっと大物になる」と言ってくれたことを母から聞いた。この言葉はこれまで自分を信じる力の原点になったと思う。
一方、担任が代わった4年生の時、新任の大卒新米先生を前にして「頼りないなあ・・・」と大きな声で口に出してしまったことで先生を泣かせ、PTAでは大問題になったと聞いた。
さらに4年生の時には、友達と喧嘩をして相手の「お前なんか転校してしまえ!」の売り言葉に対し「おお、だったら転校してやる!」の買い言葉で本当に転校することになってしまった。小さい頃からゴツゴツと色々なところにぶつかりながら進んできた人生である。
しかし、転校先の担任の先生が大変教育熱心なことから心機一転、優等生になろうと決意し、同じクラスで家も隣同士の良いライバルにも恵まれたこともあって、ここでは一所懸命勉強した。
中学校時代 ~水面下で努力し、チャンスが来た時に結果を出す
小学校の時から野球が大好きで、中学に上がったら野球部に入ろうと決めていた。
ところが入学の前年に野球部が廃部になったことを知り、早速、野球部復活のための署名活動を起こした。周囲にも協力を求め、中学生ながら200名ほどの署名を集めたと思う。小学校時代の恩師も直接中学校に掛け合ってくれたが、グラウンドが狭いなどの理由で現実には復活は難しいということになった。自分なりに動いてみたし、信頼する大人の協力も得られた結果として希望が叶わなかったことには意外とあっさり納得ができた。 仕方がないので野球と一番近いスポーツをやろうと考え、陸上部に入った。ところが、先生からは目をつけられていたのだと思う。授業中大勢で騒いでいても、いつも私だけが「岩田、お前ちょっとグラウンド10周して来い」と言いつけられるのである。そういう時は文句を言わず、制服のまま黙々とグラウンドを走った。
バレーボールも得意で、中学2年生になった時、頼まれて陸上部からバレーボール部に鞍替えをした。普段はレギュラーで3番目くらいの実力だったが、試合に出るとポイントゲッターとして活躍した。部活の時だけでなく、家でも地道な練習を重ねていたのである。周囲は本番に強いやつだと思っていたかもしれないが、水面下ではコツコツと努力を重ねていた。
勉強の方も学年ではいつも10番台を維持していた。こちらもそれなりに勉強をしていたからだ。ただし、いかにも勉強しているということを周囲に知られたくないと思っていた。自宅と学校の門をくぐるまでの通学時は一所懸命勉強するが、いざ学校に着くと涼しい顔をしているのが自分の美学・プライドだった。
高校では今度こそ野球がしたいと思い、自分としては当時公立としては強かった池田高校に行きたかった。父は自宅の近くの北野高校を行くことを勧め、悩んだ結果、結局北野高校を受験することにした。
普段勉強しているところを見せないせいで、私が進学校である北野高校を志望していると周囲は思わなかったのだろう。ペーパーテストの出来はそこそこ良かったが、私の音痴を気の毒に思い「岩田君の内申、少し色を付けてあげておいたからね」と言った音楽の先生が、私の志望校を聞いてびっくりしていたのは笑い話である。
高校時代 ~生涯のパートナーとなる妻と運命的な出会い
入学すると念願の野球部に入部。野球が好きと言っても小学校の時に草野球をしていた程度。小学校・中学校と野球部で鍛えてきた同期のレベルには全く及ばない。
また、1学年上の先輩たちのレベルが甲子園を狙うほど特に高く、2年生になっても上級生のいない2軍でも、なかなか試合には出してもらえなかった。それでも、裏方の仕事や練習はまじめにコツコツを続けていた。
3年生が引退し、新チーム結成となる2年生の夏、監督から次期キャプテンとして指名された。後輩の1年生たちが「是非、岩田さんをキャプテンにして欲しい」と推薦してくれたという。試合には出られずとも一所懸命練習する姿を、先輩たちも評価してくれていたと聞いた。
私がキャプテンに抜擢されたことにより、本来キャプテンになる実力のある2名は副キャプテンとなって新体制がスタートした。
キャプテンになったからと言って野球が急に上手くなる訳ではない。ところが、キャプテンとしてオーダー表を提出しに行った際、「4番」に自分の名前を見つけた時には、本当にびっくりした。
試合に出ると、キャプテンで4番という評価と機会を与えてくれた期待に応えるべく勝負強くダントツに打ちまくった。
キャプテンになってからも順風満帆だった訳ではない。副キャプテン同士の不和による片方の退部や下級生中心のチームになってしまったことによる成績不振など、キャプテンとしての自分の不甲斐なさと同時に、自分自身もモチベーションを落としてしまった時期もあった。しかし、退部した副キャプテンが何とか戻ってきてくれ、それ以降は体制も気持ちも立て直して試合に臨んだ。 甲子園を狙えるほどの実力のあった1学年上の先輩でさえ初戦敗退していた3年生の夏の大会で、私たちのチームは4回戦まで戦った。最後の試合に負けた時、チームメイトが涙を流すなか、私は不思議と涙が出なかった。キャプテンの重圧から解き放たれた開放感の方が強く、その時は悔しいというよりもようやくほっとした気持ちになったことをよく覚えている。 高校3年の夏が終わると大学受験態勢に入り、予備校に通い始めた。その予備校で出会った彼女が今の妻である。 妻との出会いは偶然が重なり運命のようなものを感じている。
予備校での試験の日、
- 二人とも開始時刻を間違えて早めに到着し、会場でしばらくぽつんと二人きりになったこと
- 回答用紙がマークシート方式切り替わったばかりの時期で、慣れない私は、問題用紙の方に回答を記入してしまっていた。試験終了時、白紙の回答用紙に気が付いて「ああっ!」と叫んだら、反対側にいた彼女も同時に「あっ!」と声を上げていた
- その試験の帰り道、ちょうど私の前を彼女が歩いていたことから一緒に帰ることに
- その日の彼女の服装はトラッドスタイル。実は、私はトラッドが大好きで、彼女本人というよりも彼女のセンスに惚れたのだが、後で聞いてみると彼女がトラッドを着ていたのはたまたまその日だけで、本当はトラッドは嫌いだったとのこと
それぞれの自宅も駅2つの距離でちょうど中間に公園があり、出会った翌日から一緒に帰ることになった。そして1週間後には彼女の方からプロポーズ。これにはさすがの私も慌てた。それから彼女とは7年お付き合いし、今では妻としてかけがえのない人生のパートナーになっている 実際の受験では、私立を含めて複数大学を掛け持ちする経済的余裕がなかったため、受験料も惜しんで国立大学1校のみの受験となった。高校3年生(現役)の時は大阪大学人間科学部を受けたが残念ながら不合格、浪人ののち、同じ大阪大学の経済学部に合格することができた。
大学時代 ~野球部でこれまでの努力の集大成を発揮
野球については高校時代にやりきった感があったので、大学ではやらないと決めていた。
そこで、「ムツゴロウ」さんの影響で生物が好きだったことから生物部に入ってみたが、実態は南の島でシュノーケルばかりするサークルで、自分の性には合わずにすぐ辞めてしまった。
また、子供の頃、勝負事が好きだった父が従業員の人たちと自宅でよく囲碁・将棋・花札などで遊んでいるのを脇で眺めていて、それぞれルールを一通り覚えてしまっていた。そこで今度は囲碁部の門を叩いてみたところ、入部審査として奥から出てきた先輩との手合わせで、あっという間に黒石がすべて白石に変えられ、そのまま門前払いとなってしまった。
大阪大学の同期には、大阪の野球の強豪校から17名くらい入学してきていた。その中のメンバーから野球部に誘われ、紆余曲折ありながら結局、大学でも野球部に入ることになった。
当時、大阪大学は、ドラフトにかかるような文武両道の優秀な先輩が中心メンバーになって近畿Ⅰ部リーグにのし上がっていた。 高校と違い、大学では早くから外野手として試合に出してもらっていた。しかし、膝を壊して入院・手術し、リハビリを余儀なくされてしまった。復帰の時、今度は子供の頃からの夢だったピッチャーを目指すと宣言したら周囲にはびっくりされた。当然経験のないピッチャーとしては、ずっと鳴かず飛ばずの状態。それでも練習だけはものすごい量を黙々とこなす毎日を送っていた。
日々の努力を見ていた同級生が監督に進言してくれたお蔭で、ようやく3年生の秋の最終戦に登板するチャンスが巡ってきた。5回も持たないだろうと周囲には思われていたが、結果は2失点のみで完投、勝ち投手となることができた。
チームには高校時代ピッチャー経験のある有望な下級生は何人もいた。しかし、何人もの有望選手は、スピードはあるがコントロールが良くない。私の場合、スピードはそれほどないが、彼らよりコンロトールが抜群に良かった。スピードかコントロールかといえば、ピッチャーの決め手はコントロールだと思っている。毎日、いかにコントロール力を上げるか考えて黙々と練習を続けていたのである。
4年生の時には3試合投げ、それと合わせ2勝2敗防御率2.00で野球生活を終えることができた。 私のこれまでの人生は、必ずしも最初から才能に恵まれている訳ではない。チャンスが巡ってくるまではコツコツと地道に努力をする。そして必ずその努力を見てくれている人が実力を発揮すべき機会を与えてくれる。そのときにしっかりと結果を出すことで、評価を勝ち取ってきたと言える。 4年生になって就職活動では、商社・金融・メーカー(鉄鋼・自動車・電機など)をはじめ、とりあえず全業種をトップ3~5社を受けてみた。ところが、活動した結果、どこに決めて良いのかわからない。
たまたま、内定解禁日前日に会った日産自動車で働いている大学の先輩の話を聞いた時、その人に惚れこんで、その場で「よろしくお願いします」と頭を下げたことが日産自動車入社の決め手となった。
就職 ~問題児がブレーク・スルーを起こす
入社後は、購買・生産・品質管理・販社への出向・財務と様々な部署を経験した。その中でも、上司や取引先など社内外でぶつかることが多く、小学校の頃から相変わらずの問題児的な言動がたびたび物議を醸していた。
個々のエピソードについては、是非今回の本を手にとって欲しい。
自分がどんな時にも一貫していたのは強い信念と、目の前のミッションに集中してやるべきことをやり遂げるということだった。そのために人一倍の勉強と努力は欠かさない。それは必ず誰かが見ていて報われるときがくる。
ビジネス美学
企業の存続そのものが社会貢献であること
どんな企業にも創業の理念がある。企業は公器といわれるように、創業時の理念に基づいて世の中の役に立つ存在でなければならない。
世の中の役に立っているからこそ企業は存続し、利益を伸ばしていくことができる。利益は再投資され、さらに成長していくというのが企業の健全なサイクルである。
しかし、中には利益を上げることが目的化してしまっている企業もある。これでは本末転倒だ。利益はあくまでも企業存続のための手段である。大企業含め多くの経営者は利益を目標に経営を行っている。それは大きな間違いである。ぞれぞれの会社のミッション(経営理念、存在理由)のために事業を行い、利益はその手段である。
最近、CSR=企業の社会的責任という言葉が流行っているが、利益が目的になってしまっているから、CSRという大儀を立ててあるいは特別に組織をつくって、何かしなくてはいけなくなってしまっている。CSRは企業の特別な活動として行うものではない。利益は企業存続の手段という考えに基づき、事業そのものが社会の役に立つものでなければならないのである。
「必要最小限の利益」の大きさ
ピーター・ドラッカーは企業の利益について「必要最小限の利益」が重要と述べている。利益はできるだけ大きい方が良いに決まっていると思い、私は最初、この言葉の意味がわからなかった。
しかし、利益を出すためには、お客様に適価で商品/サービスを売り、株主には適正な配当を行い、従業員には適正な給与を払い、さらに次の成長に向けた適切な投資を行う必要がある。その上で、利益を出すということは、実は必要最小限の利益がいかに大きいものかが理解できるだろう。
利益は目的ではなく手段であるという前提にたってこれを考えると、利益を上げること=企業の存在、経済活動そのものが、世の中の役に立つこと(商品/サービスの提供・配当・給与・投資など)であるためには、企業はどんどん適正で最小利益を越えた利益を追求すべきである。
将来の夢
世界から憧れられる日本の国に
3年前、日本は中国にGDPを抜かれた。また、かつて”アメリカン・ドリーム”という言葉があったが、今でも経済におけるグローバリズムの中心はアメリカである。同様に、ノーベル賞レベルの日本人科学者の研究活動はアメリカの大学を中心に行われており、スポーツの世界でも日本で少し実力が付いた選手はアメリカに渡ってしまう。アメリカには世界中の優秀なタレントが集まって来ている。それがアメリカがまだ世界でナンバー1を保っている一番の理由だと思っている。
日本はまだまだ世界からみて憧れの国にはなっていない。このような状況から、世界の人々、特にアジアの人々から「日本で学びたい」「日本で働きたい」と憧れを持たれる存在に変えていきたいと思っている。
それには日本という国が、「個」として立ち、周囲から尊敬される国になる必要がある。そのために私ができることは、一人でも多くの優れたリーダー・経営者を育てていくことだと思っている。
具体的には、
- 経営者に対するコーチングとコンサルティングを融合させた「エグゼクティブ・コーチング」を提供し、
- 次世代リーダー候補である多くの人には、これまでの私の経験や考えを経営者・リーダーとしてのあり方として出版しながら、
- ビジネススクールでも教える
ことによって、尊敬される経営者・リーダーを育成していく活動を続けていきたいと思う。
ミッションを「進化」させる
私は常々、自分のミッションは、
- 好きなこと
- 得意なこと
- 人の役に立つこと
この3つが重なるポイントをヒントに考えるとよい言っている。
また、ミッションというと変えてはいけない絶対的なものと理解されているが、自分自身の成長のステージと時代の変化や周囲からの要請といった外部環境に合わせて変わっていくものだと考えている。すなわち、ミッションは変るもの=「進化」させていくものである。
実際、私は「日産」で様々な部署を経験し、その後は「専門経営者」⇒「次世代リーダー育成」とミッションを進化させてきている。
そしてこの後も、要請があればまたどこかで経営者をやってみたいと思う。それは進化させてきたミッションを逆行するものではなく、経営者として尊敬される日本を目指すための次世代リーダーを育成のひとつでもあり、ミッションを変化させることによる新たな進化だと考えているからである。
■取材チームからの一言
これまでのご経歴からキレモノで威圧感のある方だろうと想像しながらお待ちしていると、インタビューの中でも「私はトラッドが好き」とおっしゃっているように、当日はノージャケットにピンクのボタンダウン・シャツで登場され、びっくりしました。 プロフィールだけを拝見すると挫折のない人生のようにお見受けしますが、この本の中でもインタビューでも、様々な困難を乗り越えて今日に至っていることを理解しました。
そして、困難な状況においては、まず「自分を信じる」こと、それから来るべきチャンスに対して人知れず「努力を続ける」こと、ここ一番というチャンスが来たときには「感謝」し「結果出す」ことで期待に応えるというリズムで、ここまでの実績を作ってこられました。
その確固たる自信が、気負ったり飾ったりする必要のないご自身のありのままののスタンスとなっているのだと思います。それを半分テレもあって、ご本人は「普通のおじさん」とおっしゃっているのかもしれません。
また、豊富な外資系企業での経験からは合理性・効率性優先の人と思われがちです。しかし、現場を良く知り、ご自身が誰よりも努力と苦労の人であることが、様々な企業で経営者をつとめたキャリア、本やインタビュー・講演で語るリーダー像に強い説得力を与えています。説得力があるということは、周囲から尊敬され、「この人についていこう」「この人と一緒に働きたい」と思わせるということです。
ご自身が実践されてきたことでもあり、これから日本の次世代リーダーが目指すべきは、日本人の“強さ”と外資(グローバル)の“良さ”を融合した新しいリーダー像であると考えていらっしゃることを理解したインタビューでした。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1958/6/2 |
---|---|---|
出身地 | 大阪 | |
血液型 | B型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 6:30 |
平均就寝時刻 | 12:00 | |
平均睡眠時間 | 6時間 | |
平均出社時刻 | 決まっていない | |
平均退社時間 | 決まっていない | |
自己流 | ゲン担ぎ | なし |
集中法 | ガム | |
リラックス法 | 車中の音楽(ジャズ) | |
健康法 | 犬の散歩、ゴルフ、ソフトボール | |
休日の過ごし方 | ゴルフ、ソフトボール、読書 | |
座右の銘 | おもしろきことなき世をおもしろく | |
好み | 趣味 | ゴルフ、読書、ジャズ |
好きなブランド | ローレックス、ベンツ、ヴィトン | |
好きな食べ物 | じゃがいも | |
好きなお酒 | 赤ワイン | |
好きなエリア | 丸の内 | |
好きな色 | グリーン | |
秘書から一言 | 普通のおじさんです |
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