株式会社クライアントサイド・コンサルティング
代表取締役社長
越石 一彦(こしいし かずひこ)氏
著者プロフィール
1965年北海道函館市生まれ。
函館大学卒業後、山一證券株式会社へ入社。
営業として、富裕層のお客様の資産運用に携わる。
取引金額の最も高い営業に贈られる「社長賞」を2度受賞。当時史上最年少の31歳で池袋支店のライン課長に就任する。
1997年、会社廃業に伴い、メリルリンチ日本証券株式会社に移籍。
池袋支店において、ファイナンシャル・コンサルタントとしてトップの成績を挙げる。
2001年、独立し、株式会社クライアントサイド・コンサルティングを設立。
ブレーンネットワークを駆使した経営コンサルティング会社として、企業経営者より絶大な信頼を得る。
これまでに250社以上の企業の顧問を引き受けている他、上場企業や公共団体等からの講演依頼、トップセールスマン研修、管理職研修などの依頼を受けている。累計受講生は3万人以上。「明日から行動が変わる実践型の研修」として各企業・公共団体等に好評を得ている。
証券会社のトッププレイヤーだった時代を含め、食通の多い経営者とのお付き合いも多く、これまでに持参した手みやげは1000以上。
「ビジネスに効く」手みやげについて一家言を持つ“必殺手みやげ人”。
執筆の動機
相手の「心の壁」を取り払うために、あなたの想いを手土産で伝えて欲しい
ビジネス書には、様々なテクニックやノウハウを紹介しているものが多数出版されています。
私も日頃からビジネスパーソンの力になりたいという思いを持ち続けているなか、こういった従来のビジネス書とは少し異なった切り口によるコミュニケーション本を出したいと考えていました。 自分自身のビジネス生活を振り返ってみたとき、証券会社に勤めていたまだ若い頃、多くの富裕層のお客様に対して、資産運用のご相談に乗る必要がありました。そのためには、お客様ご自身やお金のこと、また、お客様のご家族や人生設計まで、かなり踏み込んだお話をお聞かせいただく必要があります。しかし、こちらがどんなにお客様のことを知りたいと思っていても、お客様にある「心の壁」にはね返されてしまうことが何度もありました。
そこで、私も手書きのお手紙をしたためてみたり、お伺いする前にしっかりと話の組み立てを考えたりとコミュニケーションにいろいろ工夫をこらしてみたものの、なかなか上手くいきません。
そんな試行錯誤のなかで、ある日、何ということもない手土産をお持ちしてお伺いしたところ、お客様に大変喜んでいただいたことがあったのです。
考えてみれば、手土産をいただいてイヤな顔をする人はいません。このことをきっかけに、相手の「心の壁」を取り払い、こちらの心を伝えるコミュニケーションの手段として、効果的な「手土産」を追究してみようと考えました。
もちろん、手土産が商談を成功に導いているわけではありません。それでも、こちらの相手を想う気持ちをお伝えすることはできるのです。本書の帯にもありますが、「10通のメールより1つの手土産」の力は偉大です。
どんなに言葉を重ねても相手に自分の心が伝わらないとき、あきらめないことが大事です。相手の「心の壁」にはね返されそうなときは、コミュニケーション本で仕入れたフレーズを表面的に真似するのではなく、行動で表すのです。 少なくとも手土産を選んでいる時間は、あなたは相手のことを考えているはずです。これだけ相手のことを考えて、実際に手土産まで準備すれば、訪問時にはかなり自分に自信を持てているはずです。そうなれば、手土産という「モノ」によってではなく、お客様に飛び込んでいったあなた自身によって、お客様の心を開くことができたことになるのです。
今回は、これまで私が持参した1,000以上の「手土産」の中なかから厳選し、実業で役に立つビジネス書として出版しました。お客様を想う気持ちを託す手土産が、皆さんの生涯顧客を増やす心強い武器のひとつになるよう、お役に立てれば幸いです。
ゴルフクラブ、花束、高級菓子……
何をあげても喜ばなかったお金持ちが思わず息をのんだ「手みやげ」とは! ?100億円の取引を生んだ、成功する人の「手みやげ」術を公開!
1万人以上いる大手企業で、トップ営業となった著者の手には、いつも「手みやげ」があった!
お客様や大切な人に喜んでもらうための手みやげとは? 選び方、渡すときの伝え方を含め、エピソードとともに紹介する。
生い立ち
幼少期 ~函館生まれ函館育ちのおばあちゃん子
私は、北海道函館で生まれ函館育ちで、今では「はこだて観光大使」にもなっています。
父はJR(旧国鉄)の車両点検のスペシャリスト、母はNTT(旧電々公社)に勤めていました。私が生まれたときには、曾祖母と祖母も同居していました。 私には4歳年上の姉がおり、きょうだいとしては二番目の子ですが、家にとっては長男です。父から聞いた話では、私が生まれたとき、父は曾祖母から「“骨たなき”が生まれて、おめでとうございます」とお祝いされたそうです。“骨たなき”というのは、骨を持つ・抱えるという意味の方言で、「お葬式の時にあなた(父)のお骨を抱いてくれる人=跡継ぎが生まれて、おめでとう」という喜びの言葉です。
私の父は11人兄弟の長男で、祖父(父の父)が比較的早く亡くなったために、若いときは一家の大黒柱として大変苦労をしたと聞いています。その父に長男が生まれたわけですから、曾祖母が非常に喜んで、仰々しいほど時代がかった挨拶になったということのようです。職人気質で几帳面な父も、この挨拶にはさすがびっくりしたと聞きました。 そんな曾祖母は、私がものごころつく前に亡くなってしまったので、私自身に記憶はありません。その代わり、父と母が共働きだったせいで、私はおばあちゃん子として、いつも祖母にくっついて育ちました。
小・中学校時代 ~小学校低学年から野球の才能が開花
実業団(新日鉄室蘭)で野球をやっていた叔父の影響を受け、小学校から野球を始めました。実業団時代で実力を評価され有名になっていた叔父は、プロ(大洋球団:横浜ベイスターズの前身)からも声がかかるほどのレベルでした。 その叔父と同じ血が流れているからかどうかはわかりませんが、私も、小学校1・2年生のときから5・6年生と一緒になって試合をしても、結構上手かったと思います。3年生になると、本格的に少年野球チームに入りました。
家族の休みや旅行のときでも、試合や遠征のスケジュールが入っているほど、小学校時代は野球漬けの毎日でした。 この後も大学まで野球を続け、その間、ずっとキャプテンを務めました。
小学校低学年にはじまり、最後は大学野球部の100人の大所帯をまとめた経験は、ビジネスの世界でのマネジメントの良い訓練になっていたと思います。
高校時代 ~地区大会で元同期の応援に感激
小・中学校と打ち込んでいた野球で、函館工業高校から受験のお誘いをもらいました。函館工業高校は、甲子園にも出場し、卒業生から何人もプロ野球選手が出ている野球の強豪校です。 ところが残念なことに、私が入学したときは、野球のことをあまり良く知らない先生が監督になっていました。
私は1年生の後半にレギュラーメンバーに入っていましたが、そのほかの1、2年生には、リサイクルの換金目的で部活の時間に空き瓶回収をさせるような先生でした。そのせいで、3年生に上がる直前には、20数名の同期が「もう、全員で野球部辞めようぜ」という話になり、いっせいに退部してしまうという事件がありました。 野球を辞めたくなかった私は一人残り、キャプテンとして・2年生だけのチームを率いて、地区大会に出場しました。
地区決勝では、確か全校応援の態勢だったと思います。気がつくと、スタンドから一番大きな声を出して応援してくれているのは、退部していった仲間たちでした。やはり、それぞれ野球に未練があったのでしょう。一人で残った私と後輩たちが頑張っている姿を見て、自分のことのように応援してくれたのだと思います。
残念ながら、甲子園に出ることはできませんでしたが、このときの感激した気持ちは忘れられません。
大学時代 ~就活スタートは遅れるも、大学初の山一證券合格
大学進学では、野球の強豪である函館大学から特待生での受験のオファーがありました。
試験の結果、4年間特待の3名に選ばれました。
スポーツ特待なので、試合や遠征の場合、授業は公休扱いになるのですが、私はそれに甘えるのが嫌で、試験はしっかりと受けました。そうは言っても、授業は欠席しているわけですから、試験前は勉強ができる友達のノートを借りまくって勉強したものです。借りたノートのページの間に挟まっていた消しゴムのカスの跡さえも記憶してしまうほど、眼光紙背に友達のノートを読み込みました。その結果、4年間53単位のうち、「優」が52単位、残りの1単位は「良」の成績を修めることができました。 ところが、4年の秋までキャプテンとして試合に出ていたため、就職活動については、まったく周囲に遅れた格好です。
もちろんノンプロのチームからスカウトもあったのですが、遅ればせながら、興味のあったアパレルのメーカーの試験を受けたりしました。(野球漬けの体育会系が、「なぜ急にファッションの世界に?」とお思いかもしれませんが、私は大学時代に“街のアイビーリーガー”というキャッチーで『メンズCLUB』に載ったこともあるんですよ。当時は、紺のブレザーやモカシンなど、アイビー・ルックが流行していた時代です。懐かしいですね。) そんなとき、当時4大証券と呼ばれていた一社である山一證券から試験を受けてみないかという声がかかりました。
当時はバブル最後の絶頂期で、山一證券も営業職として新卒学生の大量採用を進めているなか、大学の学長が山一出身だったために、依頼があったのだと思います。それまでの卒業者の就職先としては、証券会社は準大手・中堅止まりでしたから、依頼された学長の面子もありますし、後輩へも道を開くという意味で「是非、お前受けてみろ」という話になりました。 山一證券は同じ大学から何人か受け、結局合格したのは、私を含めて2名だけでした。
そうなると学長から総務部長に至るまで「是非、山一證券へ入ってくれ」とお願いされました。
野球部の監督からは、「もしノンプロに入ったとしても、その後、プロになるのは並大抵ではない。お前はきっとビジネスの世界に行った方が成功すると思う」というアドバイスをいただきました。私にとって、監督は一番尊敬する絶対的な存在でしたので、この言葉が山一證券を選ぶ決め手になりました。
就職(新人時代から独立まで) ~祖母の教えとお客様に育てられて
生まれてから大学卒業までずっと函館で過ごし、就職で初めて東京で暮らすことになりました。
東京に発つ日、ずっと親代わりにそばにいてくれた祖母が、私に3つ伝えておきたいことがあると言いました。
ひとつは、「俺が(我)、俺が(我)の我を捨てて、おかげ(下)おかげ(下)の下で暮らせ」、
ふたつ目は、「大人になるということは年齢を重ねることではなく、人の心の痛みが分かるようになったとき、初めて大人になったというんだよ」、
みっつ目に「“お金”持ちになるためには、“人”持ちになりなさい」ということでした。
はなむけの言葉を伝えた祖母は、私を乗せたタクシーが見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。車のミラーにずっとその姿が映っていた光景は、今でも忘れられません。
山一證券に入社してみると、同期の営業職は400名もいました。
最初は大宮支店に配属になり、若いときから富裕層のお客様を中心に成績を上げ続け、その間、本店の事業法人部から何度も異動のラブコールをもありました。
支店長としては、若手の稼ぎ頭を手放したくないという思いがあったのでしょう。結局、大宮支店には8年半在籍しました。 そこでようやく、次は従業員組合専従の副委員長として出ることになりました。組合専従で副委員長ということは、一般的には、将来の幹部候補と目されているということです。
私は、国内は中部地方と海外はヨーロッパ地域の担当として、忙しく担当地域の支店を回る毎日が続きました。
もともと、何事もやり抜く性分が、周囲にはやり過ぎととらえられたのでしょう。1年で組合から戻ることになりました。 戻った先は、池袋支店、最年少での課長のポジションでした。そのため、私のサブについてくれた部下は年上です。着任にあたっては、彼に「社内では、立場上、部下として命令しますが、一歩社外へ出たら、先輩として礼を尽くさせてもらいます。」と伝えました。実際に、オフィシャルな場では私は課長としてふるまいましたが、夜一緒に飲みに行ったときは、率先して年上の部下にお酌をしました。周囲もそんな姿を見て、若いながら私を信頼してくれていたと思います。
実際、当時、全国137か店中130位程度だった池袋支店の業績は、私が着任してから6位にまで急上昇しました。 ところが、池袋支店に着任してから約1年後、山一證券は破綻しました。
その日は土曜日で、課のメンバーとバーベキューに行く予定にしていました。当日の早朝、部下からの「課長、大変なことになっています!早くテレビをつけてください!!」という電話で突然、廃業を知ることになったのです。 お客様を守るため、山一證券の店舗や社員のほとんどはメリルリンチ日本証券に移行・譲渡されました。私もたくさんの重要顧客を抱えていたため、いったんメリルリンチに移籍しました。その中の複数のお客様から非常勤でいいから、是非顧問として自分の会社に来てくれないかとのお声をかけていただきました。会社の就業規則で副業は禁じられていたため、無報酬でならと思い、人事に掛け合ってみましたが、報酬の有無に関係なく、他社の顧問を兼任するのは駄目。それなら、肩書きなしで税務相談などに乗るのはどうかと確認したところ、税理士など公的資格もないのにそのようなサービスをするのも駄目だと言われてしまいました。
そのとき、「私はこれまで、お客様に育てられ、お客様に助けてきてもらったのではないか。それなのに、会社勤めをしていることが、お客様のお役に立つための足かせになってしまうなんて何と無力で、本末転倒ではないか」と愕然としました。 そこでメリルリンチに移籍から1年半後に、私は独立することにしたのです。それから今日まで14年間、最初はお客様のファイナンシャルプランナー的な立場でお役に立っていましたが、だんだんと、経営コンサルから営業研修、顧問など、幅広くご支援をさせていただくことになりました。
これもすべてはお客様に導かれて、ここまで来ることができたのだと、心から感謝しています。
ビジネス美学
クライアント・サイド
社名にもあるとおり、私のお客様に対するときのスタンスは「サイド」(側:そば)にあります。
金融はカウンター越しに「対面」でお客様と向き合うのが一般的ですが、私はお客様の側に回って、できればお客様と並んで、お客様の目指す方向を一緒に見て、お力添えをしていきたいと考えています。
すべては「自分ごと」
お客様と向き合うとき、どこかで「これはビジネスとしての付き合いだ」「しょせん、お客様は他人だ」「商談さえ上手く決まれば良い」と思っていませんか?
私は、お客様についてはどんなことも「自分ごと」として考えるようにしています。お客様が何気なくつぶやいた一言、お客様の周囲や背景にいらっしゃる家族や人脈などにも、心を配るようにしています。すべてを「自分ごと」として受け止めるからこそ、本当の意味で心から相手を思い遣る気持ちが生まれてくるのです。
将来の夢
ビジネスパーソンに勇気を与え続ける
今回の出版を含め、これからもコンサルティング、研修、講演など、様々なかたちでビジネスパーソンに力や武器を与える仕事をしていきたいと思いっています。
ビジネスパーソンの皆さんに、単なる知識や精神論ではなく、実業・実践において、これまでの自分とは変わったと実感してもらいたいと考えています。 一言で言えば「営業の質を上げたい」ということです。今、思うように業績が上がらず苦しい思いをしている人が、商いを通して、ビジネスを越えた生涯のお付き合いのできる関係を築けるようになって欲しいと願っています。生涯顧客を一人でも多く持てること、営業の喜びはこれに勝るものはありません。
■取材チームからの一言
越石社長は、本サイトの「手土産評論家」として以前から登場していただいていました。弊社サイトでいくつかご紹介させていただいたお品も含め、今回、このようなかたちでご本が出たことを弊社としても大変嬉しく思います。
また、越石社長は、ビジネスパートナーとして、弊社クライアントでの講演や研修もたびたびお願いしています。ご挨拶や打ち合わせで弊社にお越しになるときには、必ず手土産をお持ちくださいます。その品選びのセンスの良いことは、女性でも舌を巻いてしまうほど、こまやかで気が利いたものばかりです。
野球で鍛えた大きな身体と包み込まれるような柔らかな語り口は安心感があり、あえて「いかにも」でないところにお洒落心を忍ばせたファッションとセンスの良い手土産が大人のチャーミングさを引き立てている上、いつも礼儀正しく接してくださる越石社長は、誰からも愛される存在です。ビジネスは、知識やテクニックではなく、自分という人間そのものを丸ごと評価していたくことなのだと改めて思いました。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 昭和40年7月11日 |
---|---|---|
出身地 | 北海道函館市 | |
血液型 | O型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 6:20 |
平均就寝時刻 | 0:00 | |
平均睡眠時間 | 6時間 | |
平均出社時刻 | 9:00 | |
平均退社時間 | 19:00 | |
自己流 | ゲン担ぎ | クツは左から履く |
集中法 | 坐禅 | |
リラックス法 | 半身浴 | |
健康法 | 楽しくいっぱい食べる | |
休日の過ごし方 | 子供の世話 | |
座右の銘 | 俺(我)が俺(我)がの我を捨てて、おかげ(下)おかげ(下)の下で暮らす | |
好み | 趣味 | 野球・釣り・スキー |
好きなブランド | 気にしない | |
好きな食べ物 | 筋子・うに | |
好きなお酒 | 日本酒(北の誉) | |
好きなエリア | 函館 | |
好きな色 | セルリアンブルー | |
秘書から一言 | ガッツだぜ! |
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