今いる仲間で「最強のチーム」をつくる
株式会社パジャ・ポス 代表取締役
池本 克之 氏

今いる仲間で「最強のチーム」をつくる 自ら成長する組織に変わる「チームシップ」の高め方 株式会社パジャ・ポス 代表取締役 池本克之氏

株式会社パジャ・ポス 代表取締役
池本 克之(いけもと かつゆき)氏

著者プロフィール

1965年神戸市生まれ。
リース会社、生命保険会社などを経て、ドクターシーラボ、ネットプライスの社長を歴任。
両社の上場や成長に多大な貢献をし「成長請負人」と呼ばれる。現在は組織学習経営コンサルタントとして、大企業から創業間もないベンチャー企業に至るまで、継続的に成長する企業経営のアドバイスを行っている。
著書に、「年商3億円を120億円に変える仕事術」(大和書房)、「プロフェッショナル・リーダーの人を見極め、動かし、育てる法則」(ダイヤモンド社)などがある。

執筆の動機

自身が経営者として悩み続けてきたことの解決策を、自ら手に入れた!

この本のサブタイトルにも使っている「自ら成長する組織」というコンセプト自体は、僕自身がオリジナルとして生み出したものでも、特段、新しいものではありません。このコンセプトの出会いは、新卒で入社したリース会社の後に転職して入ったソニー生命にさかのぼります。ソニー生命は、当初プルデンシャル生命との合弁で設立されたため、プルデンシャルと分離した後も、プルデンシャル流のリクルーティングや人材開発に力を入れている会社でした。リース会社から転職しようかと考えていた時に、当時のソニー生命の教育課長にピーター・センゲの「最強組織の法則」を読むようすすめられ、“学習する組織”という考え方の重要性を知りました。ただしこの時点では、まだ知識として理解したレベルです。それでも、“組織”というコンセプトが僕の心に残ったのは、それまでに下地になるような苦い経験や思いがあったからです。 この本にも書きましたが、僕は大学卒業後から30歳くらいまで、とにかく猛烈に働いていた時に、周囲の人がバカに見えて仕方がなかった時期がありました。僕自身、極端な性格なので、何事もとことんやらないと気が済みません。就職したからにはと、当時、誰よりも働いていました。毎日、始発で出社して終電まで働いていたので、当時の上司が総務部から「池本はオフィスで何か不正を働いているのではないか」と疑われたほどです。人より働けば、当然業績は上がります。ところが周囲には、一生懸命やりもしないで不平不満ばかりを口にしている同僚・先輩がいて、心の中では彼らのことをバカにしていたのです。 業績は上げていますから、24,5歳の時には、年上を含めた部下を7名も持っていました。また、先輩や幹部を飛び越して、社長から直接ゴルフに誘われたりもしていました。休日の朝、若手ばかりの社員寮に社長が車で僕だけゴルフの迎えにくるのですから、周囲の僻み・やっかみは並大抵のものではありません。ところが、当時の僕には、周囲を上手く使って成果を出すという発想がまったくなかったので、バカは相手にせず、信念を持った自分だけが頑張ればよいというますます頑なサイクルに入り込んでいたのです。そんな時に出会ったのが、先の教育課長でした。そこで、組織を使うことが出来れば、一人でフル回転している今のリース会社よりももっと大きな成果が出せると考えたのです。しかし、まだまだ僕にとって“学習する組織”は、頭で理解するレベルで、実践しようとしてもなかなか成果にまで結びつけることが難しいものでした。 ソニー生命の後は、プロ経営者として複数の企業の社長をつとめました。そのうちの2社は、僕が社長の時代に急成長しました。その間も、何とか全社一丸となって成長を目指しましたが、常に何かしらの人と組織の問題で、すっきりと心が晴れることがありませんでした。 その後、コンサルタントとして独立し、これまで多くの経営者の相談に乗ってきました。そこから見えたことは、どんな経営者でも「人と組織」に悩んでいるということです。また、それは個々の社員が持つ能力の問題ではなく、チームとして全員の心がひとつになっていないことに原因があることに気が付きました。

スタッフ自らTDCを行って打ち出した「組織学習経営」
スタッフ自らTDCを行って
打ち出した「組織学習経営」

実は、当社が「組織学習経営コンサル」を打ち出したのは、今年(2014年)の1月からです。それまでは、「業績向上」や、僕自身、経営経験のある強みから「EC」などをテーマに、グループコンサルティングのメソッドを開発して、上手く集客と安定収益を確保することが出来ていました。それが、昨年の秋ぐらいから人が集まらなくなってきたのです。加えて、コンサル終了に伴う自然減の退会もありますから、このままいったらジリ貧になることが予想されました。そこで、今後の会社の方向性やポジショニングを再検討するために、今年の1月にスタッフ全員で合宿をしました。ある意味、自分たち自身が後述するTDCをやってみたということです。その中で合意できたことは、今後のコンサルティングのテーマ(=経営者が解決すべき悩み)を、これまでの「儲かる(収益向上)」から「人と組織」に変えようということでした。1月の合宿後、2月のテストマーケティングの反応が良かったので、3月と4月でプログラムを完成させました。考えてみれば、僕自身が若いときから経営者の時代も含めてずっと悩んできたことが、めぐりめぐってようやくその解決策を自ら手に入れることができたと言えるのです。 そして、数年前から実施していたTDC(Teamship Discovery Camp;チームシップディスカバリーキャンプ)を組織学習経営のメソッドの一つとしてまとめた本書を出版することができました。 プログラムの反応としては、特に、事業承継を考えている50代のオーナー社長に非常に響きました。50代と言えば、まだ自分が10年くらい現役でできる。しかし、少子化のために子供の数が減ってきているので、親族と言っても後継者の候補は多くない。息子がいたとしても、年齢的にはまだ若く不安がある。そのため、今すぐ世代交代というわけにはいかない。かといって、今の幹部の年齢は、自分と同じくらいか年上が多く、次世代としてはこれも違う。それならば、自分がもう少しがんばって息子の成長を待つしかない。そのためには、今いる社員で最高の成果を出せる組織を作っておいてやりたい。そう思うオーナー社長にTDCはピッタリとはまったのです。この場合、キーになっているのは、本のタイトルでもある「今いる仲間で」です。外部からの優秀な人材の採用に過度な期待をせず、まずは、今一緒に仕事をしているメンバーの力を最大限発揮してもらう仕組みをつくろうという考え方が非常に評価されています。

組織の「成長請負人」と呼ばれた著者が、自身も悩んだ「人の問題」を解決するため、長年、試行錯誤して体系化したプログラム、「TDC(Teamship Discovery Camp)」を初公開!4ステップで効果が続く!実践法をやさしく解説。

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生い立ち

生い立ち

幼少期 ~「感覚」「感性」のDNAを受け継ぐ

父は元舞台照明、母や姉は舞台女優という芸術系家系
父は元舞台照明、母や姉は舞台女優という芸術系家系

父は、フリーランスで舞台照明の仕事をしていました。また、母は、父が仕事をしていた舞台の女優でした。そういう意味では、僕は“感性”の世界の人たちから生まれたんですね。実際、4つ上の姉は、一時期、いまでは有名になった劇団に在籍し、シェイクスピアの「マクベス」の準主役まで務めた女優でした。また9つ下の弟は、テレビ局でスポーツの中継をしていました。今は、転職してBS放送のディレクターをやっているようですけどね。僕はコンサルタントなので論理的思考の人間と思われがちですが、実は、本質的には“感覚の人”だと思っています。 結婚を既に、父は収入が不安定なフリーランスから広告代理店に中途入社し、HONDAや文明堂のプロモーションを担当していました。同じ感性・芸術系の人種でも、父と母はまったくタイプが異なり、父は職人気質で女性は家にいて家庭を守るべきという考えを持っており、母は既に女優は辞めていましたが、外に出て働くのが好きなタイプでした。当時、共働きの母に代わって母方の祖母が同居してくれていて、僕はお祖母ちゃん子として育ちました。その祖母によると、幼い頃の僕はとても大人しい子供だったそうです。僕は神戸生まれですが、祖母は自分の出身地である播州あたりまで良く連れて行ってくれました。その時も、僕にはミニカーを2つか3つ与えておけば、いつまでも黙って一人遊びをしていたと聞いています。祖母は冗談半分で「この子はしゃべられんのかね」と言っていたそうです。

小学生時代 ~転校先での大ケンカで自己主張に目覚める

けんかきっかけで自己主張に目覚める
けんかきっかけで自己主張に目覚める

小学校に入学して1学期だけ神戸で過ごし、2学期から千葉県八千代市の学校に転校しました。小さな子供ほど無邪気な残酷さを持っているもので、僕のような関西弁をしゃべる転校生は、今でいう格好のイジメの対象になりました。おそらく相手は、珍しいものへ好奇な眼差しを向けていただけなのでしょう。しかし、こちらは、彼らに対してしっかり主張しなければ、潰されてしまうという危機感がありました。 ある日、クラスで一番身体が大きかったタブチ君がちょっかいを出してきたとき、とうとう僕は本気で反撃に出ました。周囲の机がひっくり返り、教科書が飛び散らかるほど、激しい取っ組み合いの末、結局、僕が勝ちました。それまで、されるがままの大人しい転校生だと思っていた僕が、突如、激しい攻撃を見せたため、クラスのみんなは驚いていました。それをきっかけに、クラスメートの僕を見る目が変わった気がします。それから小学校から中学校まで毎期学級委員を務め、小・中学校とも生徒会長までやりました。
また、大好きな野球は、小学校2年生から始めました。

中学校時代 ~寄せ集め中学で、小学校に続き“外様”の時代

9つ下の弟が生まれたのを機に、少し広い家に住み替えようということになり、ちょうど中学校に上がるタイミングで八千代から新松戸に引越しをしました。新松戸は文字通り新しく造られた町で、旧来からの地域と新興開発された地域を合わせて、学区整理が行われました。新しい学区は、通学路の安全性などを考慮した上で旧学区が部分的に集められ、同じ学校に通いながら、制服や体操服がばらばらという寄せ集め状態でした。その中で、新しく開発されたマンションに住む生徒はマイノリティにグループされていました。引っ越してきた僕も、当然マイノリティ扱いです。中学校でも“外様”な状況に、小学校に続いて自分の意見ははっきり伝えることの訓練になった環境だったと思います。

高校時代 ~人生3度目の“外様”とプロ野球のキャリアを諦める

小学2年生の時に始めた野球は中学校でも続け、高校は、野球の強豪校だった土浦日大高校に進みました。各地から強豪校に野球少年が集まってくると言っても8割は茨城県内出身ですから、千葉県から越境してきた(しかも標準語をしゃべる)僕は、ここでも外様です。しかも、野球部員だけが3年間全寮制です。その上、寮には学校の先生や管理人がいるわけではなく、学生自身の運営になっていたため、血気盛んな高校生たちで、良く言えば自由、悪く言えば荒れ放題です。新入生のとき、先輩から「おめぇ、××だろ?」と訛りのきつい茨城弁で質問され、聞き取れずに「え?」と聞き返したところ、そのまま先輩に殴られるという環境でした。高校に入って人生3回目の外様です。お蔭で、厳しい状況のなかでも自分自身の存在や意見を主張するための力を養うことになりました。

将来の進路はプロ野球選手と決めていたが
将来の進路はプロ野球選手と決めていたが

土浦日大に進学したときから、将来の進路はプロ野球選手と決めていました。ところが、同じ県内の強豪校である常総学院や取手二校などに敗れ、残念ながら甲子園に出場する機会はありませんでした。そうなると、高校時代にプロからのスカウトを期待する訳にもいかず、大学に進んで野球を続けることにしました。大学へ野球のセレクションを受けに行ったとき、高校時代の先輩、しかも僕たちより強かった世代のキャプテンだった人が、グラウンドで練習している姿が目に入りました。しかもただの玉拾い役です。一軍の選手たちは、遠征で学校にはいないはずですから、その先輩含め学校に残って練習しているのは、二軍・三軍レベルです。「あの先輩のレベルでも玉拾いしかさせてもらえないなんて」と愕然としました。また、僕のポジションはショートだったのですが、大学生の選手たちは高校生の自分より2歩ほど後ろに下がって守っていました。たった2歩と思われるかもしれませんがこの差は大きいのです。プロ野球ならばもっと下がって守るはず、それでは自分ではとても送球が間に合わないと思いました。 この瞬間にすっぱりと野球のキャリアを諦めました。そこから、セレクションの結果も待たずに猛然と勉強を始めました。その結果、クラスで1番になり、幸い付属高校でしたから成績で大学へ推薦してもらえるレベルに間に合って、何とか日大の農獣医学部(現:生物資源科学部)に入ることが出来たのです。本当は心理学科あたりに行きたかったのですが、学部は高校の成績順に輪切りで決められてしまいます。僕の成績だと農獣医学部だということになり、周囲からも「これからの時代はバイオだよ」と言われ、「じゃ、ま、いっか」という感じで決めてしまいました。

大学時代 
~サラリーマン以上に稼いだアルバイトと卒業2週間前の就職活動

野球からも勉強からも解放され、大学時代はアルバイトや自分でビジネスをやって、ひと月に20万円以上稼ぐこともありました。もともと起業したいと思いがあったため、周囲と同じような就職活動もしませんでした。それでも、一度は会社生活も理解しておいた方がいいという思いと、普通のサラリーマンの窮屈さは嫌だという両方の思いがあり、「スーツを着なくていい」ことと「海外に行ける」ことを就職先の条件としました。父に頼んで伝手をたどってもらったところ、鉄鋼会社のオーストラリア工場での勤務の話があり、そこ1社で就職を決めてしまいました。しかし、その後、中堅のリース会社から「ニューヨークやロンドンに支店を出しで海外進出するから来ないか」という話をいただきました。大学4年生の3月10日過ぎの時期です。スーツを着なければならないのはちょっと難でしたが「同じ海外ならオーストラリアより、ニューヨークの方がカッコええやん!」と思い、大学卒業2週間前にころっと就職先を変更しました。

就職(新人時代) ~ビジネスの基礎を教えてもらった人との出会い

ビジネスの基礎を教えてもらった人との出会い
ビジネスの基礎を教えてもらった人との出会い

就職したリース会社は中堅といっても、数年後には1兆円近い貸付金がありましたから、ちょっとした銀行並みです。ところが、入社後バブルの崩壊によって、ニューヨーク進出の話も文字通り泡と消えました。お客様の方も借りたお金が返せなくなり、物納が増えてきました。そんな中、物納されたハワイのリゾートホテルの再建を任された会社に出向することになりました。ニューヨークに憧れて入った会社だったので、ハワイにはまったく興味はありません。むしろ、いやだなと思っていました。それでも「どうせ潰れるホテルなら、まあいいや」くらいの軽い気持ちで東京とハワイを行き来する生活が始まりました。この再生案件は、日本ペプシコ社の社長をつとめたこともあるアメリカン・マーケターの浜崎さんという上司と僕の二人で担当することになりました。浜崎さんは、僕のキャリアや考え方に非常に大きな影響を与えてくれた一人です。浜崎さんからマネジメントとマーケティングの理論と実践を学び、これが僕のビジネスの基礎の一つとなっています。

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ビジネス美学

ビジネス美学

顧客目線

当社は、組織学習経営のコンルティング会社として恵比寿にオフィスを構えています。ここで学習する人たちがリラックスでき、かつパフォーマンスがあがるよう、「学びの場」としての空間を非常に大事にしたいと考え、わずか30坪ほどのフロアですが800万円をかけて快適な環境を整えました。これは、僕の見栄のためではありません。学びに来る人=当社の顧客の目線に立って、とことん気持ちの良い環境を作ろうと考えたためです。相手の立場に立つ、顧客の立場に立つという姿勢を、コンサルタントとして自ら実践し見せることが大切だと思っています。

本気を出す

僕は、本気で会社を良くしようと思っている経営者からしか仕事を受けません。偉そうな言い方かもしれませんが、僕もお客様を選ぶということです。僕にコンサルティングを依頼してきた経営者で、イタリアの高級車マセラティに乗っている人がいました。業績が厳しい中、販促費をどのように捻出したらよいかという相談です。僕は即座に「社長、その車を売りましょう!そうしたら、1,000万円くらいすぐに用意できますよ」と言いました。そうすると、その社長は「それとこれとは別です」と言ったのです。考えてみてください。オーナー社長が自分の会社を何とか良くしたいと相談してきた。業績を上げられる簡単な方法が目の前にある。でもそれはやりたくない。自分の会社より車の方が大事だと言う。じゃあ、あなたの会社のために僕は必要ですか?というお話です。この社長はまだ本気ではないのです。ご本人は本気だとおっしゃるかもしれませんが、これは本気とはいえません。僕自身も顧客目線で本気でお客様の改革に取り組んでいるのです。ですから、僕は本気で会社や組織を良くしようとしている人の依頼しか受けないのです。

人を集める

経営者の仕事とは、究極のところ「人を集めること」だと考えています。お客様を集めること、スタッフを集めること、すべては「人」があって、一人ではできない力が出るのです。僕は、集めるなら素直な人がいいと思っています。言い訳をする人はダメですね。

レスポンシビリティ(responsibility)

「責任」というふうに訳されますが、レスポンシビリティには、「レスポンス」という意味が含まれています。ですから、責任には、“反応する”ことそのものも含まれていると思います。僕は相手から何か投げかけられたら、YesであれNoであれ、必ず反応するようにしています。それも、できるだけ早く。「検討しますので、少し時間をもらえますか」という返事でもいいのです。それが相手への責任を果たす、最初の一歩だと思います。

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将来の夢

将来の夢

57歳でリタイアし、NPOで自律型成長組織コンサルティングを広めていく

32歳のとき、あと25年(ちょうど四半世紀)ビジネスの世界で仕事をしたらリタイアしようと決めました。今49歳ですから、残り8年と数か月です。組織学習経営コンサルはライセンス制にしているので、リタイアまでの間により多くのコンサルタントを育て、組織作りで悩んでいる人の手助けをしようと思っています。組織は、必ずしも会社だけではありません。学校やスポーツクラブだって組織です。世の中に組織を上手く運営・マネジメントしたいと思う人たちはたくさんいるはずです。リタイアの時にはファンドをつくって、その利息だけで組織経営コンサルタントの人たちの報酬をまかないながら、継続して自立型成長組織が増えていくことによって、社会から無関心をなくしていきたいと思っています。

アメリカ横断マラソンへの挑戦

リタイアして本格的にNPOを始める前に、大好きなマラソンでアメリカ横断をしたいですね。これは、2-3か月かけてのんびり走ろうと思っています。

■取材チームからの一言

今いる仲間で「最強のチーム」をつくる自ら成長する組織に変わる「チームシップ」の高め方
著者サイン

池本社長は、弊社のビジネスパートナーとしても長くお付き合いいただいている方です。ベジタリアンでマラソン好きで、タイトな出張スケジュールで日本全国を飛び回り、NPO法人の代表もつとめ、ビジネスにおけるアドバイスはいつも端的でスピーディ、そして常に淡々と、飄々と・・・。その超人的な精神と肉体が、どんなストイックな経歴から培われてきたのか気になっていました。もともと中途半端がお嫌いで、何事も徹底的にやらないと気が済まない性分であることは若いときの仕事ぶりも含めてお聞きしていました。 弊社もこれまでの多くの経営者研究を行ってきましたが、良い意味でも時には悪い意味でも、極端な方が多いのは事実です。経営者として唯一無二の存在となるには、普通の人のレベルを超えて、一旦は究極までやり尽くしてみることが必要でしょう。また、ブレークスルーを起こし、リスクテイクを伴う経営判断も、究極どちらかに振らなければならないときがあるでしょう。 池本社長は、そんな激しい一面も持ちながら、今の座右の銘は「程度大切」。淡々とロジカルにお話されるその本質は「感性・感覚」の人。周囲がみなバカに見えるほど、個として業績を上げてきた末にたどり着いたのが「チームシップ」。今までいろいろな経験や逆境も経験されたのちに、自らへの解として生み出された組織学習経営・TDCを手に入れて、池本社長のその目には、今は晴れ晴れとした見通しの良い景色が見えていらっしゃるのではないでしょうか。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 昭和40年11月27日
出身地 神戸市
血液型 O型
生活リズム 平均起床時刻 6時
平均就寝時刻 0時
平均睡眠時間 6時間
平均出社時刻 8時
平均退社時間 21時
自己流 ゲン担ぎ 神社参拝
集中法 ランニング
リラックス法 ランニング
健康法 ランニング
休日の過ごし方 予定を立てない
座右の銘 程度大切
好み 趣味 ランニング、ゴルフ
好きなブランド アシックス
好きな食べ物 フルーツ
好きなお酒 飲まない
好きなエリア
好きな色 白、青、赤
秘書(社員)から一言 こだわりとゆるさ
厳しさと温かさ
両極端が共存する不思議な人です。

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最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か

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