30歳で400億円の負債を抱えた僕が,もう一度、起業を決意した理由
起業家
杉本 宏之 氏

0歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由 起業家 杉本宏之氏

起業家
杉本 宏之(すぎもと ひろゆき)氏

起業家 杉本宏之氏
起業家 杉本宏之氏

著者プロフィール

高校卒業後、宅建主任者資格を取得し、住宅販売会社に就職、22歳でトップ営業マンとなる。
2001年に退社し、24歳でエスグラントコーポレーションを設立。デザイナーズワンルームマンションのデベロップメント事業を皮切りにプロパティマネジメント、賃貸仲介業、人材派遣業、中古マンションの再生販売、一棟収益ビル事業と事業を拡大し、総合不動産企業に成長させる。
2005年12月20日、名古屋証券取引所セントレックス市場に不動産業界史上最年少で上場を果たす。業容は拡大したが、2008年のリーマン・ショックの影響から急激に業績が悪化、2009年に負債191億円を抱え、民事再生を申請、受理される。
その後、再起し、元部下や友人と共にエスグラントに匹敵する規模にグループを育て上げた。

執筆の動機

現在の自社の社員と世の中の人々に、
何ら恥じることのない私のビジネス人生を知って欲しい

堀江貴文さんと新たに会社を立ち上げようと打ち合わせをしていた際に、お互い「あの時は・・・」「そういえば・・・」と当時の話がいろいろ出ました。その際、堀江さんがすぐに永江一石さん(Eコマースコンサルタント)とダイヤモンド社の人を紹介してくださり、話を聞いていただいたところ「これは面白い!是非、出版しましょう」と、翌日にはダイヤモンド社の編集長も来ていただき、とんとん拍子に話が進んだのが、直接の出版に至ったきっかけです。
サイバーエージェントの藤田晋社長にも「杉本君が復活したら、本を出すと良いよ」と言われていたことも頭にありました。 起業から48ヶ月、不動産業界史上最短・28歳最年少で2005年にエスグラント社を上場させ、わずか1年半後の2007年6月期には、売上高377億円、経常利益23億8,000万円にまで成長させました。一転、リーマン・ショックのあおりを受けて2009年3月に民事再生を申請し、会社を清算せざるを得ませんでした。3年強という短い間に天国と地獄を味わった私の経歴を、既に今の会社の新卒入社社員は知りません。
彼らの今後の人生の糧や人間育成の一環として、私の経験や想いをこれを機に知ってもらいたいと思っています。 また、会社を民事再生した際には、何の関係もない人たちから「実は海外に億単位で金を隠している」など、いわれのない疑いをかけられ、根も葉もないゴシップを流されました。
虚勢を張った私自身の弱い心が引き寄せた結果であり、自業自得とも言えます。しかし実際は民事再生を選び、可能な限り債務弁済の責任を果たしたつもりです。私個人についても民事再生の方法をとることは可能でしたが、自己破産の手続きによって売却できるものはすべて売り払い、免責されない税金は借金をしながらも納めました。私自身の未熟さから会社こそ潰してしまいましたが、最後までお客様と債権者を守るために誠意を持って精一杯できることをし、何ら恥じることはありません。出版という形であの時何が起きていたのかを正々堂々と記すことが出来るのは、当時、ご迷惑をお掛けした皆様への誠意の証だと思っています。それが、この出版の大きな意義です。
お蔭様で、今の企業グループも今期の決算では売上約170~180億円、経常利益10億円程度は達成できそうです。ピーク時のエスグラント社にはまだ及びませんが、財務内容、永続的な利益という面では、エスグラント社を超える事が出来ています。どん底で苦しんでいた時、今の会社をエスグラント社と同じレベルまで成長させたら本を出そうと決めていたこともあり、それが見えてきたこの時期に出版を決意しました。

業界の風雲児として急成長企業を育て、最年少上場記録を打ち立て、最高益を叩きだした矢先、リーマンショックで巨額負債を抱え破たん。どん底から再起動へと歩む青年社長は、失敗から何を教訓とし、迷惑をかけながら支えてくれた人々に何を伝えるのか?

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生い立ち

生い立ち

幼少期 ~貧乏が「お金を稼ぐこと」に対する原体験

6畳一間の貧乏生活
6畳一間の貧乏生活

生まれたのは茨城県守谷市ですが、私が3歳の頃、父が営んでいた不動産会社を潰してしまったために、その後は大宮、川崎など何度か引越しを繰り返しました。
物心もついた頃には、6畳一間のトイレもお風呂もない家に住み、貧乏だった記憶が残っています。幼心に見た、母が台所の流し台の洗面器に水をためて身体を拭いている姿は、今でも鮮明に目に焼きついています。私も夏場になると、何とか学校の帰りに友達の家のお風呂に入れてもらえるための口実を考えていました。
私は今37歳ですが、既に日本全体が豊かになっている中、同年代でこれほど貧しい生活を経験した人は少ないと思います。「貧乏」が私にとっての原体験であり、お金を稼ぎたいという強い想いが私の人生とビジネスにおけるパワーの源泉となりました。

小学生時代 ~母が一家の生活を支える

交通事故に遭い、生死の間をさまよう
交通事故に遭い、生死の間をさまよう

8歳の時に交通事故に遭い、生死の間をさまよって3ヶ月入院しました。その時の怪我で、今も私の左足の指は動きません。
ぶつかった車を運転していた相手から何とかお金を引き出そうとしている父を見て、改めて自分の家が貧乏であることと、自分でお金を稼ぐ必要性を感じました。
事業に失敗してからまともに働かない父に代わり、母がパートに出ていました。そのお金さえも、父はパチンコで使い果たしてしまうような生活をしていました。次第に疲弊していった父は、今の世の中や他人の批判ばかりをするようになっていきました。
しかし、三つ子の魂百までとは良く言ったもので、それでも私は父母の愛情を持って育てられたと思います。小学生の頃は、明るく社交的で協調性のある真面目な子供でした。成績も良い方でした。

中学校時代 ~母の死をきっかけに自分と父の生活が荒んでいく

生活環境が一変
母の死がきっかけで、生活環境が一変する

中学に上がると部活に入って身体も鍛え、外見にも自信が持てるようになってきました。勉強もそこそこ出来る方で、特に文系教科の国語と社会は学年1番の成績をとったこともあります。
ところが、中学2年生のときに母が胃ガンで亡くなりました。家計を支えるために働き、なかなか医者にも行こうとしなかった母は既に手遅れになっており、入院からわずか1ヵ月半のことでした。借金取りが家に来るようになると、父は、家に帰らなくなりました。
そこから私の生活は荒れていくのです。私も家に帰らなくなり、地元の不良チームに入ってかなりやんちゃをしていました。
思春期の多感な時期に母を亡くし、堕ちた生活をしている父を見ながら、当時の私は世の中に対する訳もない不平不満を持ち、やりきれない思いを抱えて、常に何かに苛立っていたと思います。

高校時代 ~仲間の大切さを学んだ不良チームから抜けた訳

中学までの明るく真面目な私は鳴りを潜め、堕落した父と同様、高校時代は最も荒れた時代でした。

仲間の大切さ・組織マネジメントの初歩を学ぶ
仲間の大切さ・組織マネジメントの初歩を学ぶ

私が入ったチームは、もともと地元のやんちゃ遊びグループだったものが、次第に大きな組織になっていきました。
仲間とビジョンを語ることで将来像を共有し、当時ファッション誌に掲載されたり、テレビの取材を受けたりしたことが、結果としてメンバー集客のマーケティングになっていたのかもしれません。組織の中で幹部に押し上げられる格好となり、気がつくと私は不良チームでNo.2の地位になっていました。
不良チームの話ですから必ずしも褒められることではありませんが、「武闘派」であれ「ビジネス派」であれ、どちらも仲間を信じ、組織を束ねる力が求められます。仲間を大事にすること、仲間が困っていたら必ず助けに行くことは私の信条でした。 喧嘩や抗争に明け暮れながら、自分の家庭環境のフラストレーションの捌け口として、ただ気の合う仲間と楽しく過ごすことが楽しく生きがいでもある日々でした。
一方、組織が大きくなっていく中で、本当は自分はこんなことがしたくて不良になった訳ではないという思いが常に頭の中にありました。幹部としてチームを束ねながら、いつもどこかに弱い心・醒めた目を持っていたと思います。
10代の有り余るエネルギーと行き場のないフラストレーションが、仲間と語る美化されたビジョンという夢の力を借りて、大きくなり過ぎた組織が暴走し始めました。
ある夜、後輩が敵対する暴走族に襲われ、亡くなりました。もともと刺激を求めてチームに入った人間が多いため、仲間が死んだという極限の非日常に妙に高揚しているメンバーもいました。

大学受験のため猛勉強に励む
大学受験のため猛勉強に励む

しかし私はそこで「俺は、いったい何をやっているのだろう?」とすっと醒めたのです。
17歳の冬、後輩の死をきっかけに私は不良チームを抜け、大学に行くために遅まきながら猛烈に勉強しました。仲間からは「あいつは俺たちを裏切った」とそしられ、しばらくは地元の友人と断絶していた時期もあります。
猛勉強の末、何とか大学に補欠合格したものの、学費のことを考えていませんでした。大学から送られてきた入学案内を見ると、到底、私の家の経済状況で払える額ではありません。

専門学校 ~半年で宅建を取り、父と同じ不動産の世界に

そこで、経済的にも時間的にも大学進学よりビジネスの道、父の仕事でもあった不動産業界の道を選ぶことにしました。あれほど堕落した姿を見せられ、文字通り流血するほど衝突した父でも、父に連れられて歩いた不動産ビジネスのダイナミズムに私も惹かれていたのです。
不動産業界で生きていくためには、何はともあれ宅地建物取引主任者(宅建)の資格が必要と考え、奨学金の試験を受け、専門学校に通いました。がむしゃらに勉強し、専門学校に入学した年の10月には宅建に合格しました。宅建さえ取れてしまえば、専門学校に用はありません。
就職情報誌で見た、一番報酬の良い不動産販売会社の面接を受け、1社目で合格した会社に就職しました。

就職・起業・上場・破綻 ~自分の力で稼ぐことの絶頂からどん底まで

わずか3年で営業成績トップへ

入社後、当時の面接担当者から何度も「杉本は面接のときからお金のことばかり聞いていた」と笑い話にされるくらい、自力でお金を稼げるようになった私は夢中で働き、3年目から営業成績はトップになりました。
ここから私のビジネス人生が始まります。
起業を決意するきっかけ、エスグラント社を立ち上げたころの苦労、急成長から上場の絶頂から破綻までの地獄と奈落の底、再起するまでの苦悩と周囲の支援などについては、是非、この本を手にとってみて欲しいと思います。

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ビジネス美学

ビジネス美学

会社を永続させるため、自分たちの強み分野に特化してやるべきことをやる

単身向けマンションの賃貸を中心とした堅実なビジネスモデルに転換
単身向けマンションの賃貸を中心とした
堅実なビジネスモデルに転換

エスグラント社では、資金にレバレッジを効かせてバランスシートを膨らませるビジネスモデルで天国と地獄を見ました。
今の会社は、ワンルームマンションのディベロッパーとしてスタートしたエスグラント社の持つノウハウを強みに、物件も都心11区、特に港区、渋谷区、新宿区、世田谷区などに特化して、回転率も良く住む人も買う人も多い1ルームや1DKなどの住宅向けマスマーケットとオフィスでも3億から5億をメインにした小規模なものをターゲットにしています。
つまり、少ない資本で確実に家賃収入や管理費を積み上げていくストック型のビジネスモデルを基盤とする方向に転換しました。
エスグラント社時代に比べれば対照的とも言える地道なビジネスですが、地政学的に大きな変動がないかぎり、毎月から年間のキャッシュフローが読め、社員にも安心して働いてもらえる会社になりました。 エスグラント社破綻後に再起を図っていたころ、実はある有名な投資家の下で修行をしました。
彼は膨大な金融・財務の知識と市場に対する鋭い読み、ある意味クレイジーと言えるほどの論理的思考を持っている人で、経営者としてのファイナンシャルリテラシーはここで徹底的に鍛えられました。
天才と呼ばれ、一匹狼で少数精鋭を得意とする彼に「お前はいつもそんなスローペースでちまちまとやっている」と言われた時、私は彼の金融面でのスピード感とスケール感にはどうしてもかなわない。かなわないなら、仲間とビジョンを語る自分らしいスタイルで自分のできることをやっていこうと誓ったのです。彼には本当に多くの事を学び、今の私の経営者としてのスタイルを確立させてくれました。
経営者の大事な仕事のひとつは、バランスシートの健全化、つまり財務戦略に特化することだと思います。
それは、社員が安心して働き続けられ、お客様に価値を提供し続けるために、会社を永続させていく必要があるからです。

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将来の夢

将来の夢

5年後のシェア ナンバー・ワン

我々が勝てる領域で地道にこつこつと実績を積み上げ、ようやく単身者向けマンションでは日本でシェアトップ10に入ってきました。今の家賃収入と管理業務をメインとしたストック型のビジネスで、3年後には社員全員が食べていけるところまで基盤を固めていきたいと思っています。
そして、5年度には再びシェアナンバーワンと言われる企業に育て上げていくつもりです。

いつでも上場できるだけの体制づくり

現在のエクイティ・リスク・プレミアムが9%であることを考えると、一般的に2億円と言われている上場コストとその後の維持費用と弊社の時価総額の見合いとを考えたとき、短期的には上場までは考えていません。それでも、今現在、既に相応のコストをかけて、国内でも上場できるだけの体制を構築してきています。

■取材チームからの一言

30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由
起業家 杉本宏之氏 著書

必ずしも恵まれなかった家庭環境から切った張ったの10代のやんちゃぶり、不動産業界最年少での上場と華麗な人脈、民事再生に至るまでの壮絶な葛藤と周囲からの厳しい責め上げ、捲土重来を期すまでの恥を忍んだ食いしばり・・・。まるで劇画か仁侠映画のような世界を生きてこられた杉本さんは、実際にお目にかかると、とても知的で冷静な目を持ち、長身の身体全体に周囲より少し温度の低い空気をまとわせた、とても静かなたたずまいの方でした。
30代の前半までに普通の人は経験しえない天国と地獄を味わった方のインタビューを前に少々緊張していただけに、その静かな口調や立ち居振る舞いに驚かされました。
壮絶かつ厳然たる経験に担保されている方が語る言葉には、派手なパフォーマンスや声の大きさなど必要としないのでしょう。
不良グループに入っていたときですら、熱くなる仲間たちの中にあって「俺は本当にこういうことがやりたいんだろうか」と冷めた目を持っていたそうです。ご本人は、それを「弱い心」と言いますが、幼い頃から常に自分を客観視できるもう一人の自分を持っていらっしゃるのだと思います。
同時に、どんな逆境にあっても「自信を持て。奮い立て!」と自身を鼓舞し、どん底から這い上がる絶対諦めない強い気持ちさえも、自分はまだ前に進めると客観的に判断したもう一人のご本人がいたのではないでしょうか。
加えて、経営者としての先輩や仲間、政財界含めた素晴らしい人脈、エスグラント社から現在の会社にいたるまで志を同じくする幹部、社員など、杉本さんの周囲には人が集まってきます。
インタビュー後、青山の路地を背筋を伸ばして真っ直ぐ歩いて帰られる後ろ姿に、静かにそして自信を持って歩みを進めていくこれからの杉本さんの姿そのものが重なりました。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 昭和52年6月25日
出身地 神奈川県川崎市
血液型 A型
生活リズム 平均起床時刻 8時30分
平均就寝時刻 1時30分
平均睡眠時間 7時間
平均出社時刻 9時30分
平均退社時間 19時
自己流 ゲン担ぎ とくになし
あえて言うなら年1回靖国神社へのお参り
集中法 とくになし
リラックス法 とくになし
健康法 妻の健康管理と食事
休日の過ごし方 様々
座右の銘 一流のインテリジェンスとは、一見相反する二つの考え方を一つの脳に同居させることが出来る事である
好み 趣味 読書、筋トレ
好きなブランド デザイナーでは、リカルドティッシ、クリスバンアッシュ、トムフォード、トムブラウンブランド
ブランドなら、エルメス、ゴローズ、ナイキ
好きな食べ物 和食
好きなお酒 最近ドクターストップでお酒が飲めなくなりました
飲めたときは赤ワイン
好きなエリア 麻布十番から六本木ヒルズ
好きな色 黒と白
秘書(社員)から一言 物事はシンプルなんだといつも教えていただいている通り、相談するとハッとするような一言で解決してしまいます
これからも傍で勉強させてください

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