富士フイルムホールディングス株式会社
代表取締役会長兼CEO
古森 重隆(こもり しげたか)氏
著者プロフィール
1939年 旧満州生まれ
1963年 東京大学経済学部卒業後、富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)に入社
主に印刷材料や記録メディアなどの部門を歩む
1996~2000年 富士フイルムヨーロッパ社長
2000年 代表取締役社長
2003年 代表取締役社長兼CEOに就任
デジタル化の進展に対し、経営改革を断行し事業構造を大転換
液晶ディスプレイ材料や医療機器などの成長分野に注力し、業績をV字回復させた
2012年6月から代表取締役会長兼CEO 公益財団法人日独協会会長 日蘭協会会長
2007~2008年NHK経営委員会委員長
執筆の動機
若い世代に私の50年の経験を
デジタル化の進展による富士フイルムの本業喪失の危機を、事業構造の転換によって乗り越えた経営者として、これまで何度も取材や講演、出版の依頼は受けていた。
その中で、今回は非常に熱心に提案をしてくれた東洋経済から、書籍を出版することになった。
この本の前半では、写真フィルムを主力事業としていた当社が、この10年強の中でデジタル化の波によるフィルム市場の急速な縮小の危機をどのように乗り越えてきたかについて述べている。
後半は、私自身が経営者として何を考えたか、経営者は何をしなければならないか、企業の存亡といった有事において経営者はどのように考えるべきかについて書いている。
私自身が初めて執筆した本でもあり、推敲にも時間をかけた。その結果、自分でも良い本ができたと思っている。
私が社会に出てビジネスの世界で生きてきて、ちょうど50年が過ぎた。この本は、私が50年の間に考え、経験し、結論を出したことが詰まっている。
若い人たちがこの本を読んでくれれば、まだ経験していないことでも、私の50年分の経験と哲学に触れ、きっと学ぶことがあるはずである。
是非、多くの若いビジネスパーソンに手にとってもらいたい。
写真フイルム市場が10分の1に縮小するという「本業消失」の危機を、奇跡と称される事業構造の転換で乗り越え「第二の創業」を成し遂げた、富士フイルムホールディングス代表取締役会長兼CEOによる書き下ろし。
10年に及ぶ経営改革の全貌と、リーダー哲学が初めて語られる。
生い立ち
幼少期 ~原体験としての戦争
私は、旧満州(中国東北部)の奉天(現:瀋陽)で生まれ、6歳になる年に終戦を迎えた。
それまで実質的には日本の支配下におかれていた満州だが、日本が敗戦国になったとたんに、日本人に対する略奪行為が激しくなった。
最後に参戦したソ連兵が、自動小銃で威嚇しながら、貴金属類を強奪していく。ソ連兵が空に向かって打つ、自動小銃のタンタンタンというあの乾いた音は今でも忘れられない。
終戦以前と状況がまったく変わり、毎日命の危険さえある混乱の中で、父は身を挺して家族を守ってくれた。
敗戦の翌年の春、私は小学校に上がった。当時奉天にあった百貨店の2階か3階の一角に、にわか作りの教室が設えられた。もともと小学校があったところは焼け野原となり、校舎の木材も全部はがされて燃料として使われてしまっていたからだ。
州で暮らしていた日本人は、徐々に日本に引き上げはじめ、学校に通う子供の数も減ると同時に、小学校の先生も不足するようになっていった。
父は主に軍関係のビジネスをしていたが、終戦によってその需要もなくなった。
私たちの家族も、夏にはいよいよ日本に引き揚げることとなった。
しかし、日本に引き揚げると決めたからといってすぐに出発できるわけではない。比較的内陸にあった奉天から列車に乗って、まずは、海岸沿いのコロ島にある収容所で待機しなければならない。収容所では1ヶ月ほど乗船を待たされた。当然食料も不足しており、コーリャンという雑穀の赤いおかゆで飢えを凌いでいた。後で聞いた話によると、帰国を願って収容所にたどり着いても、乗船を待つ間にそこで亡くなった子供がたくさんいたという。
ありがたいことに、私たちは父母と姉、家族4人そろって日本に向かうことができた。
引き揚げ船が長崎県の佐世保に着いたとき、母方の祖父が港まで迎えに出て来てくれていた。
暴動と略奪の嵐が吹き荒れていた無政府状態の満州に比べると、生まれて初めて目にした日本の風景は、大変穏やかで心に沁みるものだった。
しかし、やはり都市部は、焼き尽くされてほとんど何も残っていなかった。帰国した私も着の身着のままである。
戦前の満州における日本人の立場とある程度恵まれた生活が、ある日を境にがらっと変わってしまった。人間を肉体的、経済的にそして何より精神的に惨めな状況に変えてしまうのが敗戦である。
私は、日本が戦争に負けたことが悔しくてならなかった。
子供心になぜ日本は負けたのだろうかと考えた。そして、負けてはいけない、人間も国家も強くなくてはならないと考えた。そして、負けない強い人間になるためには、真の実力をつけなければならないと誓った。 戦争という時代と合わせて私の原点になっているのは、両親から受けた教育である。
それは大変シンプルな教えであり、人間としての基本の倫理そのものである。
- 曲がったことをするな。
- 卑怯なまねをするな。
- 正直であれ。
- 嘘をつくな。
- 負けて泣くな。
- 弱い者いじめをするな。
- 人様に迷惑をかけるな。
- 姿勢を正しくせよ。
生きるための細かなテクニックではなく、人間としてあるべき姿を、両親から繰り返し叩き込まれた。
私から言わせれば、今の日本の子供たちは親からも学校でも、せせこましいことばかり教えられているように思う。子供たちへの躾や道徳教育は、本来こういった基本的かつ本質的ことだけで十分だと思う。
中学・高校時代 ~多感な時期に学力だけでなく教養力を身につける
私は、小学校のときから勉強もスポーツも得意な方で、身体も大きく、いわゆる“ガキ大将”だった。
小学校から中学に進む際に、将来の進学を考えて親元を離れ下宿をすることになった。中学では、遊んでばかりいたが、しかし活発な生徒だった。
高校に進学すると、受験勉強をスタートさせた。
当時は「四当五落」といわれ、4時間睡眠で勉強するなら合格するが、5時間も寝ているやつは受からないという受験競争の厳しい時代だった。眠気を覚ますために太ももに畳針を突き刺しながら勉強するという話もあったくらいで、私も実際、真冬に窓を開けたまま一番冷え込む時刻まで勉強に励んだこともあった。
一方で、学校や受験勉強だけでは、人間として真の実力はつかないということを直感的に理解していた。そこで、人間の根本になる力をつけるためには「教養」を蓄えることが重要だと考え、受験勉強のかたわら、文学や歴史など様々なジャンルの本を読み漁った。
学校の図書館から世界文学全集を借りてきて、読破したのも高校生のときである。ドストエフスキー、トルストイ、スタンダール、バルザック、ロマン・ロラン、シェークスピアなど、当時読んだロシア、ドイツ、イギリスなどの文学は、今でも私の血肉になっている。
幼いころに両親に叩き込まれた「人の道」と、親元を離れた中高時代に吸収した幅広い「教養」が、今の私の基盤になっている。
大学時代
~アメリカン・フットボール部で心身ともに“闘う”ということを学ぶ
目標としていた東京大学に入学すると、さすがもう勉強はしたくないと思った。
高校時代は大好きな運動を封印してきたため、東大入学後すぐ、当時創部されたばかりのアメリカン・フットボール部に入部を決めた。アメフトには、「力」や「スピード」と同時に、「戦略」や「チームワーク」が必要とされる。これは、スポーツに限らず人間の根本的な力になるものだと考えたからである。
もうひとつ、アメフトだからこそ学べたことがある。「闘魂」である。入部後、初めて防具をつけて相手の選手とガツーンと激しくぶつかった衝撃に、「これが俺の求めていたものだ!」と体感した。
それまでも格闘系の球技でいえばラグビーはやったことがあったが、がっちりと防具をつけて戦うアメフトとは当たり方も衝撃もまったく違う。
アメフトの勝負には、先の4つの要素に加え「闘魂」が必要だ。相手と対峙したら、身体中のアドレナリンを分泌して“魂”でぶつかっていく。スポーツゆえにルールはあるが、喧嘩と同じだ。
アメフトで培われた強い心と身体は、その後のビジネスの世界においても、私が力を発揮し続ける源となった。 4年生になると卒業後の進路を考えなればならない。
私は“モノづくり”のメーカーを志望することにした。
たまたま、広告関係の仕事をしていた叔父が、富士フイルム(当時は富士写真フイルム)のことを良く知っており、良い会社だと勧めてくれた。叔父の話を聞いてみると、富士フイルムは若い人にも仕事を任せる、人を大事にする会社だという。
そこで、大学4年の7月頃、富士フイルムに応募した。
面接で会った富士フイルムの社員に対しては、みな人柄が良いという印象を持っていた。人事部長の面接でも「ケミストリーが合うな」と感じた。理屈ではなく、そういった感性で判断した結果は正しい選択であることが多い。
その日の夕方に人事部から電話がかかってきて、内定を告げられた。私はその場で、「よろしくお願いします」と富士フイルムへの入社を決めた。
就職(新人時代) ~会社における自分の価値を問い続ける
新卒でまず配属されたのは、経営企画部での需要予測の仕事だった。机の上で計算機を手回しして数字をはじき出す仕事だった。学ぶことも多かったが、一方で「これが何の役に立つのだろう」という疑問も常にかかえていた。デスクワークは自分の性に合わないと思い、営業職への転換を希望して、産業材料部に異動となった。
当時、本業の写真関連の事業は感光材料部と呼ばれていたのに対し、写真関連技術を他の産業分野に適用しようとしていたのが新しく創設された産業材料部だった。コア技術を他分野へ展開することにより、多角化・新規事業を推し進める部署である。産業材料部のメンバーには優秀な人材も多く、私は発奮した。
異動してすぐ、フジタック(現在では偏光板用保護フィルムとして液晶パネルに使われている)という製品の営業を担当することになった。
フジタックは、私が社長として経営改革を進める中で、成長性の高い事業として集中投資を行った製品であり、今では富士フイルムの事業構造を支えるひとつの柱となっている。
しかし、入社3年目でフジタックを担当した当初は、売上が落ち込んでおり、会社として生産停止・撤退の話まで出てきていた。
このとき私は、「この商品の将来性は未だ判らない。少なくとも見極めるまで続けるべきだ。」と考え、死にもの狂いでその事業を続ける覚悟を決めた。それからは工場の技術担当も巻き込み、フジタックの新販路の開拓のために寝る間も惜しんで知恵と身体を使った。何とか新用途を開発し、その事業を継続することが出来た。
今、フジタックが新しい富士フイルムを支える柱となっているのは、不思議な巡り合わせだと思う。 実は、私が「会社のために働きたい」「会社の役に立ちたい」と強く思うようになったのにはきっかけがある。
まだ若いとき、ある上司が私をリーダーに抜擢してくれた。私の実力を認めて権限を与えてくれたのだ。私に期待してくれている人には必ず報いなければならないと誓った。その時が私にとってひとつの転機となった。
それから、課長になり、部長になり、役員になりと権限も責任も徐々に大きくなっていったが、基本的な考え方は同じである。
社長そして会長になった今は、もっとも会社のために働かなければいけない立場であるのは言うまでもない。
ビジネス美学
品質第一
メーカーである以上、品質第一を守っていく。
マーケットには、ナンバーワン、オンリーワンの製品を出し続けていく。
フェアプレー
フェアプレーに徹する、フェアネスに徹する。
賢く・鋭く・強く・素早く、そしてイノベーティブに
当社の基本方針にもなっているキーワードである。
ただ勝てばいいのではない。「賢く・鋭く・強く」勝つことが重要だ。
それだけではなく、スピード感も大事である。
さらに企業が成長し続けるためには、常にイノベーティブでなければならない。
将来の夢
”第二の創業期”から再び成長期へ漕ぎ出す
富士フイルムにとって、デジタル化の波の中で本業の写真フィルムからの事業転換を進めてきたここ10年は、大変に過酷な状況であったといえよう。
私が社長になってからの事業構造改革と新分野への挑戦などにより、現在は次の成長に向けた新しい展開が始まっている。
ここからは、市場での競争力(コスト競争力、販売・マーケティング力、R&Dの力、スタッフの付加価値生産性など)を一層強めていくことによって、これまでの写真フィルムやゼログラフィー(コピー)技術のような超ウルトラA級の製品がなくても、利益を出して伸び続けていける会社にしていきたいと考えている。今は”第二の創業”の第一段階を終えたところで、まだその途上にある。
特に、新しい分野での競争力はもっと高めなければならないと思っている。ヘルスケアがその市場だ。
写真フィルムもファインケミカルの世界だが、市場こそ違えども薬もファインケミカルであり、技術的には非常に近い。
ケミカルの分野では、当社には優秀な化学者がたくさんいる。また、これまでに蓄積された経験やノウハウも豊富にある。そういう意味で化学分野は当社の強みであると考えている。
特に生産が難しいバイオ医薬の分野に関していえば、写真乳剤の品質管理の技術を持つ当社は、生産技術という観点では従来の医薬品メーカーより優れているはずだ。
バイオ医薬は生物に生産をさせるため、低分子医薬よりももっと厳密な品質管理の技術を必要とされるからである。
とは言うものの、医薬品の世界は早期に新薬が出せるわけではない。製品が大きく当たればホームランだが、いつでも打てるわけではない。だから、他の事業が、ヒットや二塁打をつないでコンスタントに利益を出し続け、会社全体を支えていく。そして機が熟せば新しい医薬の領域でホームランが出るといった、このフォーメーションがつながっていくのが理想だ。将来の夢ではあるが、当社にはできると信じている。
■取材チームからの一言
古森会長の原体験は戦争にあります。 敗戦によって、それまでの日本の立ち位置や評価が変わり、そのせいで生活の状況が180度変わりました。敗戦直後の混乱の満州で、理不尽な暴力や略奪行為を目の当たりにし、命がけで生き抜いた日々。日本に引き揚げる前の収容所でも、飢えと帰国を前にして無念にも死んでいった多くの子供たち。
無垢な子供の目ですべてを失った日本を眺めたとき、負けることによってもたらされる悲惨で屈辱的な状況に「負けてはならない」「そのために真の実力をつけなければならない」と誓ったといいます。
生きるか死ぬかの極限状況に身を置き、それにともなう貧困や恐怖や痛みを自分の身体に感じ、周囲では人間の尊厳の崩壊やむき出しの本性を目の当たりにし、国家レベルでの価値観の崩壊を経験したからこそ、古森会長は人間や組織が本当はどういうものかを知っていらっしゃるのだと思います。 リーダーが責任を取らないとどれほど悲惨な状況を招くか、誰かひとりでも役割を果たさないメンバーがいると組織全体にどれだけダメージを与えるか、繁栄や隆盛やそれを支えている価値観や体制は不変のものではなく、みずからが努力して勝ち取り、守っていかなければ脆いものであることを自分自身の痛みとして理解しているからこそ、真の経営者として高い視点をお持ちなのだと思います。
また、これまで様々な局面において、理屈以上に直感による判断を大事にしてきたというお話がインタビューの中で何度か出てきました。この本もまさに「魂の経営」というタイトルです。このようなセンスの高さや心の強さは、生まれながらの資質に加え、子供の頃の極限的な経験とみずからを限界まで追い込む環境のなかで、磨き上げ、鍛え上げられてきたものではないかと感じました。
生まれたときから恵まれた環境が与えられ、平和ボケした中で甘く育てられた私たちの鈍磨した感性や近視眼的な視野とはレベルがまったく違うのです。
次の世代として日本や企業の成長をになっていかなければいけない私たちには根本的に足りないものが、僅かながら分かったような気がしました。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1939年9月5日 |
---|---|---|
出身地 | 長崎県 | |
血液型 | B型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 6:00 |
平均就寝時刻 | 23:00 | |
平均睡眠時間 | 7時間 | |
平均出社時刻 | 8:30 | |
平均退社時間 | 20:00(外出先から帰宅の場合も) | |
自己流 | ゲン担ぎ | 特になし |
集中法 | 特になし | |
リラックス法 | 入浴・スポーツ・読書 | |
健康法 | ゴルフ・栄養のバランスをとる | |
休日の過ごし方 | ゴルフ・休養 | |
座右の銘 | 不撓不屈 | |
好み | 趣味 | 読書・ゴルフ |
好きなブランド | なし | |
好きな食べ物 | 肉 | |
好きなお酒 | ワイン・焼酎 | |
好きなエリア | 山岳 | |
好きな色 | ブルー |
My Favorites
オススメの本
愛読書
・ミステリー
・歴史書
ビジネスパーソンに薦めたい本
・経営者自身が執筆した書籍(経験が凝縮された本)