禅トレプレナー協会代表理事
島津 清彦(しまづ きよひこ)氏
著者プロフィール
1965年東京都生まれ。
1987年に千曲不動産(現スターツコーポレーション)株式会社に入社すると、2001年に異例の早さで取締役人事部長に就任。6,000人以上と面接を重ね、「適材適所」のプロとなる。
その後、専務取締役を経て、スターツピタットハウス代表取締役を務めるなど、ビジネスの最前線で活躍する。
しかし、みずからも被災した東日本大震災を機に経営コンサルタントとして独立起業。
まもなく出会った禅に運命的なものを感じると、その直後には曹洞宗高雲山観音寺にて得度、仏門に入って禅の研究に傾倒する。
人生、ビジネスの成功法則は禅の中にすべてあることに気づき、一般社会団法人禅トレプレナー協会の立ち上げに尽力、代表理事としても活躍する。
執筆の動機
禅の言葉はビジネス・経営の本質に通じる ~起業と禅との出会いが重なって
以前より、いつか自分で書いた本を出版したいと思っていました。
私自身、本が好きで良く読んでいる方だと思っています。また、スターツ時代にも「社長ブログ」を書いていたり、書き物をすることも好きな性分です。
ただし、まだスターツにいたサラリーマン時代には「まあ、実際に出版できるようになるのは定年退職後かな」と考えていました。
ところが、昨年(2012年)の春に起業したことで、出版のタイミングが早まり、当初は私が強みとしてきた「若手のモチベーションアップ」をテーマにしたものを考えていました。
起業したことをきっかけに、これまでの自分のキャリアの棚卸しをし、強みや好きな分野、また自分の経営・マネジメントスタイルについて整理をしてみました。
そうすると「観察」→「傾聴」→「自己開示」→「信頼」→「実行」→「共感」→「調和」→「感謝」というシンプルな8ステップに落とし込むことが出来たのです。
これを周囲の人に話してみたところ、これは禅そのものの考え方だという指摘を多くの方から受けました。究極的には、般若心経の思想に合致していたのです。
これが、私とこの本のテーマになっている「禅」との出会いです。
このことがきっかけで、禅は世の中の真理やビジネスにおける人を動かすこと・経営することに通じるものがあるのではないかと考え、毎朝坐禅を実践する傍ら100冊を超える禅の書籍を読み漁りました。
そんな中で、ある方から青森の曹洞宗観音寺の前田憲良師を紹介してもらう機会がありました。確か、東京品川の喫茶店で初めてお目にかかったと記憶しています。その時、初対面にもかかわらず、私は直感だけで「得度(仏門入り)させてください」と師にお願いしてしまいました。師は最初びっくりした顔をされていましたが、少し考えてから「8月に青森はねぶたがありますから、その時にいらっしゃい。」とおっしゃってくださいました。
禅の言葉に「?啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。これは、卵の中からは雛が殻を破るためにコツコツとたたき、外からは親鳥がコツコツとたたいて、その機が上手く合った瞬間に雛が卵からかえることが出来るということです。私と師の出会いも、まさに?啄同時であったといえます。
師が約束してくださったとおり、私は昨年の8月に得度し、9月には「社団法人禅トレプレナー協会」を設立、10月には1回目のセミナーを開催することが出来ました。
禅の本質的な教えはビジネスや経営のヒントとして置き換えることが出来るという考えに共感、賛同してくれる方がたくさんいらっしゃり、複数の出版社からオファーをいただきました。その中でも、宗教コーナーではなく、ビジネスコーナーに並ぶ禅本という提案をしてくださったサンマーク出版さんから出版を決めました。
出版後、もともとお付き合いがあった方からは「普段明るくて元気、その上、若くして順調に出世をしてきた島津さんが、意外と苦労していることを知って安心した」という有難いやら複雑な気持ちになる感想もありましたが、「勇気・元気をもらった」「内容が濃いので、傍に置いて何度も繰り返して読みたい」という純粋に嬉しいものも数多く寄せられました。
変化のスピードがこれだけ激しく、また混迷の時代だからこそ、長い歴史の中で日本に根付いている禅や文化から私たちの拠りどころとなる本質を学び、普段の生活やビジネスに生かしていくことが、私たちが成長し、社会に貢献することになるのではないかと考え、この本がその一助となれば幸いです。
スティーブ・ジョブズ氏や稲盛和夫氏も禅を学び、ビジネスで成功しています。「ZEN」で伝わるほど世界で普及している禅ですが、日本ではあまり普及しておらず、「ビジネス」と結びつける人はほとんどいません。しかし、「禅の言葉」にこそ、ビジネスにおいて最も大切なことが含まれているのです。
生い立ち
幼少・小学校時代
~女きょうだいの中で男の子1人、明るく周囲を楽しませる人気者
私は、東京の下町の代名詞でもある門前仲町・深川で生まれました。
父はもともと山形県生まれの次男坊で、地元では少しやんちゃの部類だったようです。母とは駆け落ち同然で上京してきて、深川の鉄工所に勤めていました。
きょうだいは、上に姉が3人と下に歳の離れた妹がいます。そのため、小さい頃はいつも姉たちの遊びに引き込まれていました。友達と男らしく野球をしたかったのですが、遊びに行こうとすると姉たちに止められ、室内で風船を使ったバレーボールとか、ゴム跳び、おはじきなど、よく女の子の遊びに付き合わされていました(笑)。 両親は比較的放任主義で、きょうだいの中で男の子1人だからと特に私だけを可愛がったり、逆にプレッシャーをかけたりすることもしませんでした。
友達も多く、姉たちの中でも上手く立ち回ったり、どちらかというと優等生的で手のかからない子供だったと思います。
幼い頃から、明るく周囲を楽しませる性格で、敵をあまり作らず、いろいろなグループから声がかかるタイプでした。また、身体が小さかったので、性別を超えて可愛がられるタイプでもありました。
当時の家の近くには運河があったので、木材を運ぶ筏に乗って追いかけっこをしたり、(禁止されていましたが)運河に飛び込んだり、また富岡八幡宮の裏の池で(これも禁止されていた)釣りをして怒られたり、当時の東京商船大学(現:東京洋大学)に忍び込んで、そこのボクシングリングで友達とプロレスをしたりと、やんちゃ坊主そのものでした。 両親が共働きだったこともあり、放課後は友達と外で遊ぶのが当たり前でした。
そのせいでと言うべきかその代わりと言うべきか、あまり勉強をした記憶はありません。それでも成績は良い方でした。頭が良かったというよりも、要領の良さのおかげだと思います(笑)。テスト前、誰のノートを借りて勉強すれば一番効率いいかを見抜くセンスがあったのです。単に先生の話や板書を真面目に書き写したノートではダメなのです。その子が一度自分の頭で整理したエッセンスがまとめられているノートがテスト勉強には一番効率的であるということを知っていて、誰がそういうノートを作っているのかということに鼻が利くところがありました。
中学校時代
~学校・アルバイト・地域で、自分とは違う人たちとの付き合い方を知る
中学にあがっても「よく遊びよく学べ」をそのまま実践したような生徒でした。
勉強はガリ勉ではありませんでしたが、成績はいつもクラスで1番か2番、学年でも5番から10番の間には入っていました。
小学校くらいまで姉たちの良い遊び相手にされていたことへのささやかな反発心もあって、中学に上がると、男の子らしいスポーツの象徴であった野球部に入りました。ところが、相変わらず身体が小さくて、野球ではあまり活躍ができないことが分かり、1年生の途中で早々に卓球部に転部しました。卓球は、身体の大きさがハンデにならないからです。実際、優勝こそできなかったものの、地区大会ではいいところまで勝ち進みました。
部活だけでなく、学校行事としてクラス対抗の球技大会(バレーボール)でも熱くなりました。任されたボジションはセッターで、クラス一丸になって燃えた思い出が印象深く残っています。 中学生らしくのびのびと毎日を過ごしている中でも、私らしいエピソードがあります。ある時、友達と体育館のマットの上でプロレスをして遊んでいるところを先生に見つかってしまいました。全員そこで正座させられた上、先生から「どう思っているんだ!」と糾弾されて、みんな口を利けずにいたとき、私が真っ先に「申し訳ありません。悪いことをしたと思います。なぜならば、今回は僕たちだけですが、同じことを全校生徒がしたらマットの傷みが酷くなったり、早く傷んだりして、全員の授業に迷惑がかかるからです」と優等生的な発言をしたことで、その場の張りつめた空気が緩みました。もちろん、心からそのように反省していたこともありますが、周囲の仲間を想い、こういった状況の中で自分に求められる役割を察知して、さっと立ち回るところがありました。身体が小さかったこともあり、敵を作らずに生きていく知恵を知らずのうちに体(修)得していたんでしょうね。 学校生活とは別にアルバイトもしていました。母が倉庫での仕事をしていたため、夏休みは私もそこで箱詰めのアルバイトをしました。働き者の両親を見ていたので、当時から働くことは当たり前という意識がありました。日給5,000円~6,000円のアルバイト代もちゃんと貯金して、高校生になってからそれでバイクとかビデオデッキとか自分の好きなものを買いました。
ここでも身体の小ささと持ち前の愛嬌で、アルバイトのおばちゃんたちのアイドル的存在でした。
また、生まれた場所柄、お祭り大好きで、深川八幡祭では毎年お神輿を担いでいました。 こうしてみると、当たり前の生活のようですが、私の場合、大勢の姉たちに囲まれた幼少期にはじまり、性別や年齢、生活環境によって自分とは違う考え方を持った人たちとコミュニケーションをとり、関係を作っていくという、今で言う“多様性”への対応の仕方を早めに学ぶ機会が多かったようです。
高校時代
~友達とコントのコンビを組んでテレビ番組でチャンピオンに
小・中学校と公立だったので、自分としては、高校も学区内で偏差値が一番高い公立学校へ進学するつもりでいました。
ところが、担任の先生から内申点を少し下げられたせいで、二番目の高校にしなければならなくなりました。今から思うと、もっと担任の先生とコミュニケーションをとっておけば良かったんでしょうけど・・・。
いずれにしても、希望していた一番の学校と二番目の学校にはかなりの差があり、自分としては納得ができなかったので、いろいろと考えた末に私立の東海大学付属高輪台高校への進学を決めました。 高輪台という学校名の通り、生徒はオーナー経営者の息子やパイロットの息子など、山の手のお坊ちゃまばかり。一方、私はばりばり下町出身、やや居心地の悪い思いをしていましたが、唯一、足立区出身の気の置けない友達ができました。
彼はお笑いのセンスが非常に高く、ネタを彼が作り、愛嬌者の私とコントのコンビを組んで、日本テレビの「テレビジョッキー」に応募して出演しました。テレビジョッキーは、視聴者参加型の番組で、お笑いだけでなく奇人・変人や一発芸など、有象無象の素人がたくさん集まってきて、控え室も兼ねた日本テレビの会議室で一緒くたでオーディションをやります。当然のことながら、雑多で怪しい雰囲気がぷんぷんで、相方の友達とは「ちょっとヤバイよな・・・」と言っていました。結局私たちは、本番の放送で2週連続チャンピオンになりました。3週勝ち抜くとグランドチャンピオン大会に出場できるのですが、そこまで行っていたら、今頃はまったく違う人生だったかもしれません(笑)。当時はお笑いブームで、番組からは、とんねるずや竹中直人、柳沢慎吾といった後々大物になる人たちを輩出していました。そう考えると、レベルの高い番組で、グランドチャンピオンからお笑い芸人になる道というのはさすがに難しかったようです。
大学時代 ~マクドナルドとディズニーランドでのアルバイトが後のマネジメントの基礎に
付属高校からそのまま東海大学に進みました。学部の選択では、理系というタイプではなかったので、将来社会に出たときに一番ツブシが利きそうな経済学部を選びました。
授業は卒業に必要な単位を取得するだけのものと割り切り、それ以外の時間は、とにかくアルバイトに打ち込んだ大学生活でした。
私が大学に入学した年に東京ディズニーランドが開園し、当時自宅のあった浦安のマクドナルドでは、新店舗オープンのために一気に100名のアルバイトを募集していました。そこに応募して採用が決まり、いきなり大学1年生でマネージャーに指名されました。アルバイトと言っても、自分より年上の人がかなりの人数います。また、他にマネージャーに指名されたのは、大学4年生でした。しかし、私をマネージャーに指名した当時の店長は、後々、ハンバーガー大学(マクドナルドの企業内大学)の学長まで務められた人だったそうで、人材の目利きに優れた人だったようです。 新店舗の開店は、ディズニーランドの開園日に近い日に設定され、オープン当初からお店は大変な賑わいでした。開店日の売上を今でも忘れません。420万円で当時の世界レコードでした。おかげで、忙しい店舗のマネージャーとして、“人”・“物”・“金”一通りのマネジメントを身体で学びました。同時に、マネジメントの面白さも実感していました。
“人”で言えば、アルバイトのシフト構成とスタッフのモチベーションマネジメント。シフトを決めるときは、店長が頭ごなしに指示しても嫌がるところを、私が依頼するとスムーズに決まっていました。
“物”で言えば、バンズやパテなど材料の発注。在庫と売上状況やその日の天気、曜日などを勘案しながら、もっとも効率よくロスのない発注をすることで、いかに上手く回すかということに心を砕きました。
“金”で言えば売上計算。一日の営業が終了し、売上金を計算し終わると、今日一日の店舗の様子を振り返りながら、達成感に浸ったり、反省することもあったりと、どんな仕事からも吸収することばかりでした。
特に、アルバイトのモチベーションマネジメントの上手さでは、高く評価されていました。同じシフトに入ったメンバ一との一体感を醸成し、サービスの質と効率の両方を実現できるよう気を配りました。当時のメンバーとは、30年経った今でも付き合いがあります。実は、今の妻も、アルバイト仲間としてそこで出会いました。 もうひとつ、就職活動が終了した後のディズニーランドでのアルバイトも貴重な経験になりました。せっかく浦安に住んでいるのだから、大学卒業前までに一度は経験しておきたいと応募し、警備係として採用されました。実際、ディズニーランドの内側から見てみると、カストーディアルと呼ばれる清掃担当の人に大変な敬意が払われていたり、ミッキーマウスは、裏方しかいないバックヤードでもミッキーとして振る舞うなど、ディズニーランドの徹底したホスピタリティを目の当たりにしました。大学時代4年間のアルバイトで得たオペレーションマネジメントとホスピタリティの経験は、後のスターツでのマネジメントや経営の基礎となっています。
就職 ~大企業に就職する同期を後目に、「伸びる会社」を選んだ
将来は漠然と起業したいという想いがあり、就職活動では、大企業に行くのはやめようと思っていました。ちょうどバブル景気絶頂にさしかかる頃で、友達の多くは銀行や証券、メーカーなど大手有名企業を狙って活動し、次々就職を決めていく中、私はこれから成長しそうな中堅企業ばかりを受けている異質な存在でした。 その中で、最終的に入社を決めたのは千曲不動産(現:スターツコーポレーション)です。当時はまだ社員数も100名を超える位の、友達はだれも知らないような会社でした。就職活動で、訪問した際に、社員のきらきらした目の輝き、堂々とした話ぶりなど、社員が生き生き、パリッとしている雰囲気に、直観でここだ!と決めました。
ゼミでの就職先決定報告会はイヤでイヤで仕方ありませんでした。大手に就職する同期と比べて恥ずかしいからではありません。彼らに自分の想いが理解できるはずがないと思っていたからです。案の定、私の順番が回ってきたとき、同期はいっせいに不審な表情を浮かべました。スターツに決めた理由も聞かれましたが、彼らには「伸びるよ」と一言だけ答えたのを覚えています。
そのスターツも現在では社員数5,000名を超えるグループに成長しています。
ビジネス美学
人を活かす ~経営とは本来非効率なものである
社会・会社の中には、デキル人もいればそうでない人、また価値観も人それぞれで、いろいろな人がいます。
だから、人はみな違うと考えて、違うなら違うなりにその人が活きる方法を考えるのが経営だと思っています。
デキル人は優秀だからと言って放っておけば良いわけではありません。その人に合わせたレベルの高い話をし、むしろこちらが相談するというスタンスで接すると、さらに高い能力を発揮してくれます。ところが、組織の中でデキル人はわずかです。どちらかと言えば、手取り足取り手のかかる人たちの方が多い。だから経営者は、この人たちをビジネスの中で活かしていかなくてはなりません。生産性の低い人の教育に時間をかけるのはたしかに非効率です。そういう意味では、私は経営・マネジメントはそもそも非効率なものだと思っています。経営の王道とはこれを愚直に辛抱強くやっていくものだと思っています。
世の中の経営者で、人事出身者は意外と多くありません。これは私見ですが、人事部出身の経営者の企業は、経営が安定しているように思います。これも、非効率でありながらすべての人材の育成を地道にやっている経営の賜物ではないかと考えています。
将来の夢
世界に向けて「禅」×「ビジネス」を発信
禅の考え方は、人生におけるさまざまな問題に対するヒントや答えとして、私たちを救済してくれます。
同時に禅は、日本の文化そのものもでもあるといえます。
私は、禅トレプレナーとして禅とビジネスの融合、ビジネスの中で禅を活かしてしていく取り組みを始めましたが、これを日本だけでなく世界に広めていきたいと考えています。
現在、様々なアイディアで世界へのメッセージ発信を考えています。 オリンピック開催地決定のプレゼンテーションによって、「おもてなし」という言葉が、今注目を集めていますが、この言葉も日本文化を知ってもらうという意味では良い言葉です。
おもてなしの精神は禅の影響を強く受けた茶道からきています。茶道には「一期一会」という言葉があり、この人との出会いは二度と巡って来ないたった一度きりのものだから、今この一瞬を大切に思い、最高のおもてなしをしましょうという考え方です。茶道は千利休が完成させたと言われ、彼が生きた戦国時代は、茶室を出たらいきなり誰かに切り付けられるかもしれないという過酷な時代でもありました。だからこそ、今この一瞬に、双方が最高のおもてなしと感謝の心で向かい合うべしというものです。
ほかに、「初心」「無常」「即今、当処、自己」なども、外国の方に知っていただきたい禅語です。(この記事を読んでいる皆さんは、是非、本を手に取ってくださいね)
禅や日本文化の中にある言葉だけではなく、その本質的な意味を人生やビジネスに生きる言葉として世界の人々に伝えて行けたらと思っています。
■取材チームからの一言
経営者の中には、もともとDNAレベルで禅の思想が流れている人とそうでない人がいるようです。島津社長はもちろん前者です。
海外の経営者でもアップルの故・スティーブ・ジョブズはかなり禅に傾倒しており、製品にその思想が色濃く反映されていることは有名です。他にもトレンドマイクロ社の代表スティーブ・チャンやNBAの名監督フィル・ジャクソンの禅に対する深い造詣が、この本の中でも触れられています。外国人の彼らの中には、本質的に禅の思想を持っていた人もいれば、自分の立場に求められるもの考えたときに最終的に禅に拠りどころを求めた人もいるでしょう。
私の周りにも、経営者ではなくても、人望があってなおかつビジネスでも成果を上げている人の中に、本人は気づいているかどうかわかりませんが、考え方のベースが禅に近い人が何人かいます。
経営者をはじめとする過酷な経験をした人は、禅の思想に行きついているように思います。インタビューでは触れませんでしたが、この本でも、島津社長の公私にわたる壮絶な経験が書かれています。
私自身は少しかじった程度で表面的な理解しかできていないかもしれませんが、禅では、自己に対しては厳しさと同時に諦観を求め、他者に対しては温かさや思いやりを示すことを求めているのではないかと感じています。
DNAと温かさというキーワードで言うと、もうひとつ島津社長のDNAには、「落語」のセンスが埋め込まれているように思います。 話のつかみ(マクラ)や、ある人との会話の再現方法、身振り手振り、間の取り方など、島津社長のお話には落語に通じる部分がかなりあるように感じました。もともと明るい性格で、人を笑わせることが大好きだとのことですが、洒脱な話し方とその中に感じられる人々に対する温かい眼差しは、この落語DNAからも来ているのではないでしょうか。そういえば、島津社長は、ばりばりの東京下町の出身だったことを思い出しました。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1965年2月10日 |
---|---|---|
出身地 | 東京都江東区深川 | |
血液型 | O型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 7:00 |
平均就寝時刻 | 0:00 | |
平均睡眠時間 | 7~8時間 | |
平均出社時刻 | 8:30 | |
平均退社時間 | 不定期(会食が多いため) | |
自己流 | ゲン担ぎ | ラッキーナンバーにこだわる 4と8(結婚記念日&お釈迦様誕生)、平成2年4月8日 |
集中法 | 坐禅 | |
リラックス法 | 坐禅 | |
健康法 | いつも自然体でいること | |
休日の過ごし方 | 家族、ミニチュアダックス(7匹)と過ごしたり読書をしたり。 | |
座右の銘 | 一日一生(一日を一生の縮図だと思って後悔なく懸命に生きる) | |
好み | 趣味 | 坐禅・読書・たまにゴルフ |
好きなブランド | ルイヴィトン・エルメス・リーガル | |
好きな食べ物 | カツカレー・チキンライス(笑)・日本料理全般 | |
好きなお酒 | 芋焼酎・日本酒・ハイボール | |
好きなエリア | 銀座・湾岸エリア・神社仏閣 | |
好きな色 | オレンジ(コーポレートカラー) | |
秘書から一言 | いつも一生懸命で自然体の父のありのままの様子を是非、読んでみてください。(秘書・娘) |
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codename MIXOLOGY Tokyo
(コードネーム ミクソロジー トウキョウ)
ペスカデリア銀座
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