東レインターナショナル株式会社 元社長
蝶理株式会社 元社長
田中 健一(たなか けんいち)氏
著者プロフィール1939年京都生まれ。
京都大学法学部卒業後、1962年東レ入社。輸出部へ配属。
69年から4年にわたりニューヨークに駐在する。
76年、マレーシアにある東レ子会社の工場に配置転換。工場改革に手腕を発揮し、合併パートナーに認められる。
79年に同社の香港本社に栄転。ここでも事業再生を成功させ、83年に東レ本社の主力・炭素繊維部門の課長に返り咲き、事業部長まで務め上げる。
92年、設立されて間もない子会社・東レインターナショナルに移籍し、99年に社長就任。年商500億円を10年で3000億円に育て上げた。
さらに2003年、東レの命により、30年間赤字続きで誰もが再建不可能とみていた、東レの出資先・蝶理の社長に就任。
1年で借金1000億円を全額返済するとともに、黒字化に成功。その後、持続的に成長を続ける会社に転換させた。
現在は、あちこちのボランティア団体などで活躍。
佐々木常夫氏の先輩にあたり、同氏が企画した「経営塾」の常連講師である。
また、「部課長研修」も多数手がけている。
執筆の動機
失敗にこそ学べることが沢山あることを知って欲しい
東レの後輩にあたる佐々木常夫さんから、彼が特別顧問を務める東レ経営研究所で行っていた私の講演が大変面白いので、是非本として出版してみたらどうかと勧められたことが、直接のきっかけである。 では、どのような考えで講演を引き受けていたかというと、過去の失敗から学ぶことは数多くあるのではないか思っているからだ。
成功から学べることは、実はあまり多くない。
ところが、日本には、過去の失敗を蒸し返すのはやめておこうという風潮がある。
特に先人・先輩たちの犯した失敗を、後輩が取り上げてあれこれ語ることは、「和をもって尊しとなす」日本においてはしてはいけないという意識がある。 私が東レインターナショナルの社長を務めたのちに社長として就任した蝶理という商社は、30年間の赤字続きの会社であった。
その蝶理を、1年後に無借金・黒字企業に回復させたのだが、もちろん30年の間、何も再生の手が打たれなかった訳ではない。ところが、先人たちが何度対策しても根本的には立ち直れなかった。
私は蝶理の過去の失敗から学び、厳しく過酷な日々ではあったが、1年間徹底して抜本的な策を講じてきた。
現在の蝶理は、私が離れた後もピンピンと元気な優良企業として利益を上げている。
間違って欲しくないのは、この本は、「蝶理再建記」ではない。私たちは過去の失敗から何を学び、リーダーはどうあるべきかといった「リーダー論」として読んでいただきたいと思っている。
借金1000億円を、たった1年で完済。30年間赤字の会社を優良企業に再生させた、ごっつい経営者が教える「上司力の真髄」!
部下の歓心を買うな。部下の仕事を手伝うな。部下には高い目標を与えて、できるまで尻を叩け。頭に来たら叱りつけろ。ただし、この一言を叩き込め。上司には、部下を幸せにする義務だけあって、不幸にする権利はない。
上司にも直言する「剛」の気質のため、幾度も左遷されては実力でのし上がってきたひとりのサラリーマン。その波乱万丈のエピソードが、少しとぼけた関西弁で綴られる。その語りには、頭と心に突き刺さる「上司道」の教えが詰まっている。
生い立ち
誰にでも微笑みかける人見知りしない赤ちゃん
私は1939年、京都の清水で生まれた。その辺りは景観保護の関係で、私が生まれたころの建物、景観がそのまま残っている地域である。
二人兄弟の兄、長男として生まれ、今は両親も弟も鬼籍に入ってしまったために、自分が幼い頃はこんな子供だったよと聞かされていたエピソードもほとんど覚えていない。
ところが1つだけ気に入って覚えているエピソードがある。
まだ、物心つかない本当に赤ん坊のころ、母は、家の前に私を乗せた乳母車を置き、家の中で家事をしていた。
そこへ物乞いのお婆さんが通りがかり、乳母車に近づいて赤ん坊の私をあやしたらしい。
人の気配に気づいた母が表に出てみると、物乞いのお婆さんが泣いており、どうしたのか尋ねると、「普通の人なら自分は眉をしかめられる存在だが、この子は私を見て屈託なく笑ってくれた」というのである。それが嬉しくて泣いていたという。
とにかく人見知りをしない、人をすぐに信じ込む、私にはそういうところが大いにある。
逆に言えば、その軽率さで人に騙されたり、いやな思いをしたことも多々ある。しかし、私自身、赤ん坊のときのこの出来事は、私の本質を象徴するエピソードではないかと思って気に入っている。
小学校時代
~兵隊帰りの担任から受けた、早くも「中間管理職」としての洗礼
母は、大変教育熱心な人だった。
母の実家は呉服屋を営む大きな商家だったが、祖父の代から少し傾き気味になり、また、夫である私の父は大変地味で堅実なタイプだった。母は、再びかつての隆盛を夢見て、長男であった私に良い学校に入って出世して欲しいという期待をしたのだと思う。
そのせいもあるのか、運動よりも家の中で本を読んでいたり、戸外でも動植物や昆虫の観察が好きだったりした。
結果として、よその子より勉強ができ、物知りだったという単純な価値観から、小学校は、ずっと級長を務めることになった。
小学生の級長に、リーダーシップや人心掌握術など求められるはずもない。
小学校2年か3年のとき、担任が変わることになり、兵隊帰りの若い先生が着任してきた。
軍隊規律の匂いをぷんぷんさせながらも、大変教育熱心な先生で、新しい教育にも積極的に取り組もうとされているところもあった。
小学校時代は、かなりこの先生の薫陶を受けたと思う。
クラスで何かあると、悪戯をしたのが別の級友であっても、先生は「それは級長であるお前の責任だ!」と言って私をビンタするのである。
先生には自分のしたこと以外でぶたれる不条理さを訴えたが、先生は二言目には「お前はみんなに投票で選ばれたんだろう」と言った。 今思えば、10歳になるかならないかの頃から、この先生のお蔭で、既に中間管理職としての英才教育を受け、またその悲哀も感じていたといえる。
むしろ社会人であれば、責任と同時に、地位やそれに伴う権限・報酬が与えらるが、級長はバッジが与えられるのみで責任だけ取らされるという何もない立場だった。
この先生のお蔭で、インセンティブがない中でも、リーダーとして人についてきてもらうためにはどうしたら良いのかといことを小学生の時から考える経験をすることになったと思っている。
中学・高校時代 ~新設校一期生として、京都大学合格が最大のミッション
当時の京都市は徹底した学区制となっており、小学校から上がれる公立の中学校は各地区毎に決められていた。
その中学があまり気に入らなかった母は、私に私学に行くことを勧め、なぜかカトリック系の新設校、洛星中学の入学願書を取り寄せた。
母には、京都という古い町で、カトリック系・英語ということが何か新しい・格好の良いイメージに思えたのかもしれない。
これが入学してみると、1クラス33名、1学年は3クラスで全99名、先生方も大変若くて教育熱心な良い先生ばかりという恵まれた環境であった。
新設校であったっために上級生はおらず、次年度から下級生を迎えると、上級生と下級生がマンツーマンでお昼(お弁当)を食べるなど、丁寧に下級生の面倒をみることが上級生の役割になった。
小学校に引き続き、これはまさに企業における課長教育に近いものだったと思う。
洛星は、中・高一貫で、高校卒業までこの環境が続いた。
私学新設校であれば、学校の永続と教育の質の向上のために、生徒集めが重要である。
つまり受験生が集まる有名進学校にするためには、一期生である私たちの実績が、今後の学校のブランドを決めることになる。
京都の人間からみた進学校の指標は、京都大学に現役で何人合格するかが唯一と言っても良い。
そこで、高校3年までのカリキュラムは高校2年までに終わらせ、3年生の1年間はずっと大学受験の模擬試験を受けるという体制になっていた。
また進学校としてのブランドづくりのために、京都大学でも理系なら工学部、文系なら法学部と学部まで必然的に決められていた。 とにかく中・高の6年間は、先生も生徒も全校が一丸となって何が何でも京都大学合格が全てであった。
また、私の家庭の資力から言っても、両親もとにかく京都大学に現役で入学して欲しいという思いでいたに違いない。
受験シーズンが終わってふたを開けてみれば、1学年(約90名)中7名が京都大学へ現役合格し、私もそのうちの1名に入った。
模擬試験では、京大当落ギリギリラインを行ったり来たりしていた私だが、本番の試験では得意な問題が出たのはツキがあったとしか言えない。
洛星の京都大学7名合格は、当時の京都市民にとって驚天動地の結果であったと思う。
洛星の生徒は、カトリックの方針に則って、ストイックで礼儀正しい行動を求められた。
一方、当時の京都市は市政の影響もあって、学生はどちらかと言えば自由奔放なタイプが多かった。しかし、”学生の町”を自負する京都市民としては、それをあまり好ましく思っていないのが事実であった。
その中にあって、新設校、洛星のスタイリッシュな制服やお行儀の良さは市民に好印象をもって受け入れられており、反面、実際の学力の方はどの程度かという興味もあったはずである。
私たちの次の年には、京都大学の合格者は浪人も含めて20数名に増えている。
大学時代 ~受験から解放され「山」ひとすじの身体づくり
京都大学は、当時、山岳部のヒマラヤ遠征などの海外遠征が大きく取り上げてられており、「海外に行けるなら山だ!!」という短絡的な発想で山岳部に入部することにした。
受験で”青びょうたん”になっている学生の基礎体力・身体づくりのために、当時の体育会・運動部は共通してとにかく走らせた。毎日最低10キロ、それも物凄いスピードで走らされた。
ヒマさえあれば走っていたと言っても良い。それとは別に、年に100日間山に行くのが山岳部の義務量となっていた。
単純計算なら3日に1度の計算だが、当然学校があるので、実際は長期休暇と日曜日全て山行きといった状況で、大学4年の間、お正月を実家で迎えたことはなかった。
山は卒業後もOBとして参加していたため、結局10年くらい実家でお正月を迎えたことはなかったのではないかと思う。
この山岳部での鍛錬が、今に至るまで頑強な身体づくりになったと確信している。
身体の骨格自体が変わる訳ではないが、少々のことではへばらない基礎体力をつけることが出来た。
実際、蝶理の再建で社長になった時には63歳という年齢だったが、朝、私が会社の鍵を開け、土日も含めて1年間1日も休まずに仕事をしていた。
そんな歳になってもタフな生活が出来たのは、やはり若いときの身体づくりのお蔭であったと思う。
就職 ~先見の明があった先生のアドバイスを断って”満月”の東レへ
当時は岩戸景気といわれ、三白といわれる砂糖・セメント・製紙や、最先端技術と設備投資により石油化学などを中心としたメーカー全盛の時代だった。
今とは違い厳しい就職試験も存在していなかったため、就職活動の際、ゼミの先生には、当時、就職人気No.1の東レに推薦状を書いていただけるようお願いした。いくら就職試験が甘かったとは言え、先生は私の成績では、東レは無理だと思われたのかもしれない。
先生は「こういう会社に入るとシンドイぞ。こういう会社は、一番が好きなやつばかり入ってくるから、足の引っ張り合いになる。」とおっしゃり、「東レをはじめ、今の製造業は”満月”の状態だ。だからこれから後は欠けていくしかない。君は、銀行とか証券に行ってみてはどうか。」と薦めて下さった。
しかし、経済における金融の意味も良く理解していなかったその時の私は、せっかくの先生の薦めを断り、子供の頃から動植物に興味を持っていたことも関係したのか、東レを含めて好きだったケミカルメーカーの大手3社を受けることにした。 結局3社とも合格し、最終的には一番お給料が高かった東レに行くことに決めたのだが、その後の日本の経済の状況を振り返れば、ゼミの先生は、大変に先見の明がおありになったのだと言える。 私が大学に受かったのも、東レに入社したのもツキがあった部分は大きいと思っている。
そして高度成長期のメーカーに入って良い思いもし、社長にまでなったと思われる人もいるかもしれない。
しかし、子供のころは食べる物にも困る時代であり、社会人になってからも、本に書いたように何度も逆境に立たされることもあった。
生まれた時代(=世代)によってツキ・不ツキはあるかもしれないが、長い目でみればそれも関係ない。人間の人生トータルの帳尻に、そんなに差はないのではないかと思っている。
ビジネス美学
信念を持たないのがポリシー
この本にも「『信念』は時に判断を狂わせる」「座右の銘などいらん」と書いている。
半分逆説的なところもあるが、下手なこだわりは変化に対応できなくなる危険性があると思っている。
だから、私はノンポリだ。「楽観主義」とも少し違うし、「出たところ勝負」と言うのか、その場その場の状況に応じて「臨機応変」に対応するようにしている。
周りの人が不幸になるのは絶対に嫌
ポリシーとは違うかもしれないが、好きとか嫌いとかのレベルで言うなら、私は少なくとも私の影響力が及ぶ範囲の中で周り人が不幸になることは本当に嫌だと思っている。
自分の周囲で困っている人がいれば、何とかしてあげられないかと必死になってしまう。
こちらの命と引き換えにしても何とかしてあげたいと思ってしまうのだ。
将来の夢
みんなの役に立つなら政治家か宗教家?
とにかくみんなの役に立ちたいと思っている。
それならお坊さんか、政治家ならまずは市議会議員かなどということを、夢としては考えている。
今の日本の状況をみると本当に気持ちの悪い国になってしまった。それは、責任を取るべき人間が責任を取らなくなってしまったからだと思う。責任とはリスクテイクだ。今は自分のメンツを守ることや陣地取りばかりに汲々とし、他責的にものを言う政治家ばかりになってしまった。
その意味では、宗教家よりも政治家の方が良いかもしれない。
石原さんも80歳で国政に復帰すると言っているのだから、私が今から政治家になりたいと言ってもかまわないだろう。
語録
田中語録1「水を飲まなければ泳ぎは覚えない」
人の失敗から学ぶということは重要だが、最終的には、人間は自分が痛い目に合わないとわからないものだ。
どんなに息継ぎやバタ足のテクニックをレクチャーされても、実際に水を飲んでみなければ、水中での呼吸法のコツは身につかない。
田中語録2「人間としての競争力をつけるためには競争させる」
私は上司・先輩への対応がなっていないために、東レ時代も蝶理の再生を任された時も、何度も左遷や逆境にあっている。
左遷も何回にもなると段々慣れてくる。お蔭で逆境にも強くなった。
人間として生きるための競争力をつけるためには、どんどん競争させれば良い。
打たれ強くなるためには、どんどん打たれてみれば良い。
田中語録3「どうせならクヨクヨクヨクヨ・・・・悩み抜く」
それでも人生の中で不条理なことや後悔することは少なくない。
この本を読んでもらうと、私はいつも逆境に強くて前向きな人間のように思われるかもしれないが、本当はとても思い悩むタイプである。長いと1ヶ月位クヨクヨしていることもある。
ところが、徹底的にクヨクヨクヨクヨクヨクヨ・・・・・していると、突然そういう自分が馬鹿らしくなってきて、ポッと抜けることに気がついた。
これは、途中で無理に忘れようとしたり、気分転換で昇華させようとしない方が早く立ち直れることも判った。
とにかく、いじましく・みっともなく・品なく、徹底的にクヨクヨすることが大事である。
誰にでもおススメできる方法ではないが、私に似ているタイプの人には、悩み事があったらとことん悩みなさいとアドバイスしている。
■取材チームからの一言
インタビューの順番として、生い立ちから学生時代のことをお聞きしているうち、膝を打って「そうか!僕が上司・先輩への対応がなっていないのは、長男生まれで、小学校はずっと級長で、その上、中・高は新設校で6年間も上級生がいない環境だったからなんだな。今頃気がついたよ。なるほど。」と嬉しそうでした。
今回の本の中のエピソードでも、上司とぶつかる場面が少なからず出てきますが、反面、部下に対しては大変面倒見のよい方です。
この本の「仏の心で鬼になれ。」というのは刺激的なタイトルですが、インタビューにおいても、リーダーとして根本に流れる誰かの役に立ちたい、みんな幸せになって欲しいという心に触れた気がします。
また、混迷の現在にこそ、骨太とかブレない生き方やリーダーが求められているという考え方もありますが、田中元社長のしなやかさやたおやかさを合わせ持った強さは、竹や柳が倒れたり、折れたりしない本当の強さに似ているのかもしれないと思います。 これも京都生まれ、京都育ちが育んだ、もう一つの「和」の精神ではないでしょうか。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1939/11/28 |
---|---|---|
出身地 | 京都市 | |
血液型 | A型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 午前7時 |
平均就寝時刻 | 午後11時30分 | |
平均睡眠時間 | 7時間 | |
自己流 | ゲン担ぎ | ありません |
集中法 | ありません | |
リラックス法 | 日向ぼっこ | |
健康法 | 1日5kmの軽いランニング | |
休日の過ごし方 | 毎日休日 | |
座右の銘 | ありません | |
好み | 趣味 | 登山、コーラス、囲碁 |
好きなブランド | ありません | |
好きな食べ物 | 何でも食べます | |
好きなお酒 | 何でも飲みます | |
好きなエリア | ありません | |
好きな色 | 特定の色ではなく豊富な色彩が好き |
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