
山本化学工業株式会社 代表取締役社長
山本 富造(やまもと とみぞう)氏


著者プロフィール
高速水着素材で知られる大阪の山本化学工業株式会社・代表取締役社長。
社員は73名で、社員一人当たりの売上は1億円を超える。
1959年、曾祖父、祖父は日本初の安価ボタン、父は消しゴム付き鉛筆で大成功を収めた発明家一家の長男として生まれる。
1984年、25歳の時に父親の「社長、交代するで」の一言で経営者に。
度重なる円高により長らく自転車操業を余議なくされるも、「超高付加価値商品」に舵を切ったことをきっかけに逆転。
現在は医療機器から放射線遮断服まで幅広く手がける。
特技は少林寺拳法。正拳士四段を保持。
ニックネームはトミー。
執筆の動機
4度にわたる出版社からの提案にとうとう口説かれて
今回の出版社であるダイヤモンド社が「本を出しませんか」と提案してきたのが、今年の3月のこと。もともとビジネス本など出版するつもりは微塵もなかったので、その時は「興味はありません」とお断りした。
しばらくすると、再び先方から出版の提案があった。前回1度断っているのになと思いながら、再度お断りした。
そうしたら3度目、またまた本を出しませんかと提案をしてきた。どういうつもりなんだろうと思いながらやっぱり3度目もお断りした。
さすがにもうこれで来ないだろうと思っていたところ、4回目の出版の誘いが来た。

僕は、自分や自分たちのビジネスのことを出版社に上手くラッピングされてビューティフルに書かれることは好まない。
しかし、出版社の担当者の話を聞いてみると、彼らは、他とは異なるユニークな企業本の企画の中で、北京オリンピック競泳用の水着・レーザーレーサー騒動のことも含めて是非当社を取り上げたいと言ってくれた。
特に来年はダイヤモンド社の創業100周年でもあることから、会社としてもユニークな取り組みとして大阪弁で書かれた本を出版してみたいと思っているという。 実は4回とも同じ担当者が、前回、前々回断られたことを忘れたかのように悪びれず連絡をよこしてきた。
しかし、担当者はもちろん以前のことを忘れている訳ではない。
かと言って単なる”ごり押し”や”お願い”で、しつこくしてくる訳でもない。
そこには、他社とは違う本を出したいという確固たるコンセプトがあり、購読者には定価以上の価値を提供したいというモノ作りの熱意が感じられた。
何度でも連絡してきながら、さらっと提案されるのも少し不思議な感じもした。
当社もメーカーとして物を世に出す以上は、価格の倍以上の価値をお客様に実感してもらいたい、価値あるものを世に広めたいという思いを持っている。
そこで、この本をつくる過程でその”価値”については妥協せずに言って欲しいということを担当者には伝え、引き受けることにしたのである。
それが今年の6月のことである。
生い立ち
学者肌の父親と商売人の娘である母から受けたビジネスの洗礼

もともと山本家の商売のスタートは、石川県の廻船問屋からである。それから曽祖父が大阪の東成に移って始めたのが、ボタンの製造だった。これは祖父に引き継がれ、父が祖父の会社に入るまで続く。 大阪帝国大学(現 大阪大学)大学院で応用化学を学んだ父は、何か「新しいこと」、大好きなニューマテリアルをやらせてもらうことを条件に祖父の会社に入った。
そこで父は、消しゴム付き鉛筆や芯材にゴムを使用したゴルフのツーピース・ボールを開発した。
これが結構ヒットし、儲かったお金でドイツから独立気泡の機械を買った。
父はバリバリの理系、学者肌で、マーケットニーズに対して設備投資をするという発想ではなく、元手があるので面白そうな機械を買ってみたというところだったと思う。 せっかく良い機械を買ったのだから、何か役に立つものはできないかと考え、父が発案したのが「水の上を歩けるサンダル」だった。
当時まだ2歳だった僕は、会社のお風呂に連れて行かれ、水を張ったその上をサンダルを履いて歩いてみろと言われた。
もちろん歩けるはずもない。すぐにひっくり返ってしまった。
当時の従業員も、だいぶ、この水上歩行実験の被害に合っていたらしい。
幼な心にものすごく怖かったこととともに、これが初めてビジネスに携わった経験として記憶に残っている。

母の実家は、奈良で初めて模造真珠を作り、海外に輸出をしているメーカーだった。
僕の上には8歳離れた姉がいたが、商売人の娘であった母は、跡継ぎは男という意識が強かった。
「新しいもの好き」の父からはビジネスの経験を、「あなたが跡継ぎよ」という母からは将来の経営者としての意識を刷り込まれて育った。
幼稚園・小学校時代 ~天真爛漫「飽きっぽく」「いたずら好き」
歳の離れた姉のため、男の子で末っ子だった僕は過保護に育てられた面もある。
ピアノ・習字・そろばんなど一通りの習い事にも行かされたが、すべて1回しか行かず2回目がなかった。そのせいで、自分から剣道に通いたいと言ってみた時には、どうせ続かないからと通わせてもらえなかった。

幼稚園の時には、奈良のあやめ池公園にお箸を持って毛虫取りに行き、それを先生の背中に入れるいたずらをして、親が呼び出されたことがある。
幼稚園児が若い女性の先生を泣かせて、親が呼び出されるなどというのは、後にも先にもないと呆れられたくらいである。 習い事が続かないのは、父の「新しいもの好き」が僕にも受け継がれたといえるが、裏を返せば「飽き性」としてそれが発揮され、比較的、放任主義で自由な教育によっていたずら好きでやんちゃな子供として伸び伸びと育てられた。
何とか続いていたのは、小学校の時に始めた少年野球だった。
小学校6年生の最後の試合までは、1回も勝てなかったけれど。
中学校時代 ~「自転車」にとことんハマる

少年野球をやっていたことから中学は野球部に入部した。
しかしこれも2年生までで、次に興味を持ったのは自転車だった。
それも乗るだけではなく、スポークから買ってきて自分で作るほど大好きになった。
中学3年生の時、友人たちと琵琶湖1周ツーリング行こうという話になり、その中の全国で空手日本一になったガタイのいい友達ですら旅行から戻ってから3日間は学校を休むほど、結構ハードなツーリングも経験した。
実家の奈良から大阪の桃谷にある自転車ショップまで出かけて行っては、中学生でも買える安いパーツを買ってきて、自転車を作ったり、直したりすることに夢中だった。
ところがとにかく勉強は大嫌い。学者肌で勉強が大好きな父からは、「いったい”勉強が嫌い”ということが理解できん」と言われていた。
高校時代 ~世界を広げた「少林寺拳法」との出会い

高校進学で大阪に出ることになった。
限られた地域で比較的同質な友達との付き合いだった小中学校から変わって、高校は色々なところから様々な生徒が集まってきていた。
なかにはあまりガラの良くないタイプもいたりして、当時の”ブルース・リー”ブームに乗って護身も含めて少林寺拳法を習い始めることにした。 この頃になれば自分の飽きっぽい性格も良くわかっていたので、最初は「取りあえず3ヶ月やって茶帯を取れたら辞めよう」というくらいの軽い気持ちだった。
ところが、まだ少林寺拳法人口は少なく、1ヶ月か2ヶ月で後輩が入ってきたら指導をしなければればならない立場になって、辞めるに辞められない状況になってしまった。
自分のことだけならいいが、自分がサボったり辞めたりすれば後輩に迷惑がかかる。
また、少林寺拳法としても積極的に有段者を増やしていた時代なので、次々と技も教えてくれ、あっという間に10ヶ月くらいで初段になってしまった。 有段者になると、今度は毎年、香川県の多度津の本部で行われる指導者講習会に参加することになる。
参加者は、8月お盆の暑い時期、クーラーもない宿舎で雑魚寝するのだが、スペースは自分の肩幅しかない。暑い中、隣の人とぴったりとくっつき合って寝るのだ。
小中学校の修学旅行でも大部屋での雑魚寝は経験したが、これほど酷い環境ではなかったと思う。
また、宿舎から本部の道場までは、片道40分を裸足で歩いて通う。
練習が終わると、また40分歩いて宿舎に帰る。宿舎で夕食をとった後には、また40分歩いて本部に行き、法話を聞たら、また40分歩いて帰るというパターンが続く。
道着も3日ほど経てば、洗濯しても乾く暇もなくドボドボの状態である。 当時、少林寺拳法を習っている人間には、いわゆるガラの悪いはみ出し者も多かった。
こんな過酷な環境で、各地から色々な人が集まってきている状況は生まれて初めての経験であり、これまでとは違う世界を見る経験だった。

同時に少林寺拳法の創始者、宗道臣先生の「人間の能力は皆必ずしも生まれながらに平等であるとは言えないが、努力しただけ成長できるということは平等である」という教えと合わせて、多感な時期に貴重な経験になったと思っている。 結局、日曜日の武道専門学校には16年も通った。
大学の体育会のような組織と雰囲気の中で、タテ社会のルールも学んだ。
武道専門学校での練習が終わると、決まって阪神百貨店のビアホールにつれて行かれ、大ジョッキのビールを強要されたことも、その時間帯は少林寺拳法の有段者集団に絡まれることを恐れて十三エリア(大阪の歓楽街)から客引きがきれいに姿を消すという噂も、勉強だけでは得ることのできない世界を広げる経験だった。 高校3年になると大学受験のために少林寺を辞める仲間も多かったが、父は「勉強嫌いが理解できない」と言う割には、幸い放任だった。
ところが、たまたま中学時代の友達からみんな図書館で勉強していることを聞き、試しに図書館の自習室という所へ行ってみた。
なるほど、みんなここで本を読んだり、勉強をしたりしている。
何よりもテレビの誘惑に弱った僕にとって、自習室は勉強するのにうってつけの環境だった。
そこで、学校が終わると4時から閉館の8時まで、休日は、朝から閉館まで、受験勉強中は1日も休まず毎日通った。
少林寺の練習のある日は少し早めに図書館を出て、そちらとも両立した。
疲れきって家には帰って寝るだけである。
その結果、少林寺仲間で大学に現役合格したのは僕だけで、少林寺を辞めたやつは逆に不合格となってしまった。
時間があり余り過ぎるのも、かえって良くないのかもしれない。
大学時代 ~知恵を使ってアルバイトに明け暮れる
父親からは、大学進学のことを「”レジャー産業”に行く」と言われた。
文系を選んだ僕は、理系の父から見れば遊びに行くように見えたのだと思う。
そう言いながらも放任主義の父は、僕に自由を楽しむことを許してくれた。 大学入学後はすぐに少林寺拳法部からの勧誘があり、無理やり部室に連れていかれた。
ところが、当時僕は既に三段になっていて、上回生の三年生がまだ二段だから結局入部は断られてしまった。
そっちから無理やり誘っておいて何なんだと思ったが、武道の世界は資格の上下が立場の上下であり、回生の上下が立場の上下である体育会の組織が混乱するということで仕方がなかった。

学問の方はといえば大学2回生までにほとんど単位を取ってしまい、アルバイト漬けの毎日だった。
県議会議員の運転手、小学校新学期の書籍配り、スーパーのお惣菜の天ぷら揚げなど色々な仕事をやったが、一番長かったのは百貨店の配送だった。
後輩二人を使って、いかに効率良く回るかを考え、月に70万円も稼いでいたこともある。
稼いだアルバイト代は近鉄の株を買うことにつぎ込んだ。
株主優待でもらえる優待パスで、するっと近鉄に乗ることが憧れだったからである。
結局、優待パスがもらえるほどには株は買えなったが、その時のアルバイト代はのちに家を買う際の頭金として役に立つことになった。
幼い時から自由な家庭ではあったが、特に高校の後半から大学時代は好きなことをさせてもらったと思う。
就職 ~25歳社長の誕生と人生・ビジネスの先輩たちとの出会い
当時、体育会系人材は就職では人気があり、父親の会社ではないところから色々誘いもあった。しかし、幼い頃から跡取りと言われてきたこともあって、他は断って父親の会社に入社した。
25歳の時、父が「60歳になったから引退する。お前と社長を交代するわ。」と言い出した。こちらの年齢はお構いなしである。
そういう僕も、あまり考えずに「まあ、ええか。」ぐらいで引き受けた。5月のことである。

この僅か1ヶ月あまり後、25歳の新米社長の僕にとって大きな洗礼となるアメリカ商務省からのアンチダンピングの一件が起きる。
小ロットでの日本国内流通価格と、アメリカ輸出向けロットでの価格を比較されて17.5%というべらぼうに高い税率を提示され、7月後半から8月にかけて4回もワシントンD.C.に足を運び、仮決定後の9月にはアメリカ商務省から調査団がやってきた。
神戸ポートピアホテルまで父に借りたアメリカの大型車リンカーンで彼らを迎えに行ったところ、非常に感激され、また週末は変な下心なしに「せっかくの日本に来たのだから、奈良・京都の案内をするよ。」と言ってみたら嬉しそうに「ええの?」という話になって、これまた大変に喜ばれた。
そのお蔭で、調査団一向は態度をコロッと変えて「お前のためにできることは何でもしてやるぞ」という訳で、税率は一挙に3%に下がって決着したのである。
この時のことは、単にアンチダンピングに関する膨大な知識・経験を得ることができたということ以上に、人種を問わず人間同士の付き合いのあり方についてとても基本的で貴重な経験だった。 社会人になってからこれまで、伊藤忠商事の越後社長をはじめ日本総研の野田一夫先生など、様々な方々、成功を収めている方にご縁を得ることができた。
若輩者の僕がこんなことを申し上げるのは失礼かもしれないが、彼らに共通するのは、いい意味で徹底した”執着””執念”を持っていること。
伊藤忠商事の越後社長は、飛行機は1-A席しか座らないという。
僕にも必ず1-A席を取らなければ駄目だと言い、もし1-A席が取れなかったら出張はキャンセルしろとまで言っていた。
また芦屋の自宅から大阪本社までの道中で、「絶対他の車に抜かれたらいかん」と運転手さんに言っていたそうだ。
成功する人は変わり者と言われる人が多い。しかし、この激しいまでのこだわりが、ブレない強い信念となって結果を生み出す力になっているのだろうと思う。
これだけ見れば、成功者と言えど単なるわがままや頑固者に見えるかもしれない。
一方で、彼らはとても柔軟な感性も持っている。
僕がアドバイスしたことをすぐ試してみたり、野田一夫先生も80歳を過ぎてからゴルフを始められたと言っていた。
この柔軟さが、豊かでユニークな発想力の源泉になっているのだろうと思う。
ビジネス美学
「顧客満足度」で”満足”しない ~日本企業の優位性は”歓喜”を求めろ
コストの積み上げ+利益から算出される”価格”と、顧客が感じる”価値”の差が、メーカーにとっての顧客足度だと思っている。
最近はグローバル化が進んで、顧客満足度のことをCS(Customer Satisfaction)などと洒落た言い方をしているが、顧客満足度を目標にしてしまうと、日本は世界と戦っていくことはできない。
なぜなら、満足は顧客の期待とほぼ同値であってそれ以上ではない、いわば当たり前のレベルだからだ。
僕(そして当社)は、顧客の満足(Satisfaction)ではなく、歓喜(Delight)を目指そうと言っている。
お客様に「わぁ、すごい!」「素晴らしい!」と感激してもらうことが、モノづくりを得意とし、それで立国してきた日本の世界に対する優位性だと思う。
これを実現するためには、顧客満足度という目線の低いレベルに留まっていたら難しい。
お客様の歓喜・感激という高いレベルまで目線を上げた時に、初めて素晴らしい知恵が出てくるものだと思っている。
この本の中で書いている「超オーバースペック」「ニーズは無視する」「付加価値は『ドーン』ではなく『ドドーン』とつける」というのは、まさにこのことなのだ。
「実感」「体感」で売る
ブランド力のある大企業は、ネームバリューによって製品・商品が売れる。当社のようなブランド力がない企業は、製品力で売っていくしかない。
その製品力の良さを理解してもらうためには、お客様に「実感」「体感」してもらうことが一番である。
先のお客様の歓喜(Delight)を求めるという話にも関連するが、そのためには今までにない新しいものや既存の製品との差が明らかわかるレベルのものを作り出していくことが大事なのだ。
その代わりブランド力がないから認められるには時間がかかる。時間がかかるが、良い物・優れた者は必ず認められると信じてやっていくつもりである。
将来の夢
当社の製品が医療費節減に貢献できるように
これから益々の高齢化社会を迎え、国家にとって医療費は単年で収まる予算ではない。
また、年度期中に予算を消化してしまったからと言って、それ以降来年度まで国民が医療を受けられないということもあってはならない。
見通しが立てづらく、今後増えることはあっても減らすことの難しい医療費を、当社の製品を使ってもらうことによって節減できたらと考えている。
アメリカでも台湾でも、医療機器の申請する際には、その製品が国家の医療費の節減にどの程度貢献するのかシュミレーション値を提出するようになっている。
しかし、日本はまだそこまで進んでいない。
日本は、スペック上、医療機器として承認するかしないかの判断はするが、それが社会にとってどの程度貢献するかは承認の判断基準に入っていないのである。
当社はレーザーレーサー騒動で水着のイメージが強いが、赤外線によって加熱をしないで体温を上げる方法で医療機器も手がけている。
つい先日12月7日には、医療機器国際品質保証規格「ISO13485:2003」認証の取得が実現した。
日本では204社目、中小企業では初の認証である。
これで世界に売り出せるパスポートは手に入れたので、これからは弊社の製品が、どんどん国のためや社会貢献になっていくことがこれからの夢である。
高齢者がいつまでも元気でいられるためのサポートを
また、当社では骨盤の歪みやズレを自分で矯正できるサポーターを開発している。
これまでのサポーターは、身体の痛んだり歪んだりしたした部分をそのまま支えるだけだけのものだったが、当社の製品は、”ゼロポジション”という本来正しい骨格の位置を身体に認知させてから運動させることによって、自然と身体が正しい位置を覚えるというものである。
かつては平均寿命自体が短かったために、身体の故障の顕在化や長期化が問題になることは少なかった。
今は寿命が伸びて、年配の方は不自由な身体を人の世話になって支えてもらわなければならないことが多くなっている。
病気をしなくても、避けられないのは老化による身体の歪みである。
様々な課題がある高齢化社会とは言え、せっかく寿命が延びたのであれば、年配の方がいつまでも元気で人の世話にならずに過ごせることが社会全体にとっての幸せであると思う。
西洋医学による対症療法ではなく、弊社は自らの力で健康であり続けるためのまさにサポーターとして、世の中の役に立つことを考えていきたい。

以前より関心を持っていた企業であり経営者でもあった山本社長のインタビューが、今回この新刊書によって実現しました。
(失礼ながら)お目にかかるまでは、写真で見る雰囲気や大阪の中小企業の社長さん、刺激的な本のタイトルから、典型的なナニワ商人のイメージを持っていました。
本の中でも豪快なエピソードが紹介されていたり、ご本人も「僕はアホの方やから」「勉強は大嫌い」とおっしゃっていましたが、実際は良い意味で期待を裏切る方でした。
本能的なビジネスセンスだけではなく、世界各国の環境・状況、法律・制度ことなど文系領域と、化学・医療のことなど理系領域にいたるまで様々な知識を持つ博学者であり、やはり学者肌で理系だったお父様のDNAはしっかりと受け継がれていらっしゃるのだと思いました。
このような知識の裏づけが落ち着きのある話として安心感と信頼感を与え、同時に、根っからの関西人の血が、”陽”の気となって人を包み込み、ついつい心をつかまれてしまうチャーミングな面も合わせ持っていらっしゃいます。
実際にインタビューの中では、豊富な人脈を表す錚々たる方々のお名前が次々と飛び出してきました。

ご本人が(そして山本化学工業も)海外とのビジネスの方が得意だとおっしゃるのは、この両面-豊富な知識に基づくフェアネスさと誰からも好かれるオープンマインドの両方-を持っていらっしゃるからではないかと思います。
これに激しい”執念”と新たな”発想”を持ったビジネスポリシーが加わって、世界と勝負できる製品を次々と生み出す根源となっているのだろうと感じました。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1959/1/8 |
---|---|---|
出身地 | 大阪府 | |
血液型 | A型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 4時55分 |
平均就寝時刻 | 0時 | |
平均睡眠時間 | 5時間 | |
平均出社時刻 | 6時30分~40分 | |
平均退社時間 | 21時30分~22時30分 | |
自己流 | ゲン担ぎ | 赤飯を食べる |
集中法 | 朝7時~9時に大事な仕事をする | |
リラックス法 | 一人で洗車 | |
健康法 | 毎日 腹筋300回 拳立て550回 | |
休日の過ごし方 | スーパーぶらつき、洗車、少林寺拳法 | |
座右の銘 | ・雲海に蒼天あり ・これぐらいで良かった ・ひと晩寝てから考えよう |
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好み | 趣味 | 少林寺拳法、ドライブ(ちょっと暴走族っぽい) |
好きなブランド | トミーフィルフィガー、エルメス | |
好きな食べ物 | 寿司、ステーキ | |
好きなお酒 | なし | |
好きなエリア | ロサンゼルス | |
好きな色 | 赤と黒 |