クラブ稲葉オーナー
白坂 亜紀(しらさか あき)氏
著者プロフィール
1966年 大分県竹田市生まれ 生家は現在瀧廉太郎記念館。父は読売新聞通信部記者 母は珠算塾経営 精神科医の兄。
1985年 早稲田大学第一文学部入学 日本文学専修
1987年~ 日本橋の老舗クラブにて勤務。女子大生ママとなる。
現在は銀座でクラブ「稲葉」、音楽ラウンジ「稲葉」、和食「穂の花」、Bar「66」の4店舗を経営。
2010年 GSK(銀座社交料飲協会)銀座緑化部長となる。銀座屋上での農作業について、NHK首都圏ニュース他で報道される。
2011年 京都造形芸術大学東京学舎で講座を持つ、「銀座のママに学ぶ、人間力、女子力、ビジネス力」。
趣味: シャンソンを歌う 謡曲 三味線 他
スポーツ: ゴルフ テニス
アキポリ編集部より
銀座のクラブというと敷居が高く、興味はあっても、一般ビジネスパーソンにとってはなかなか足を踏み入れることをためらう場所ではないでしょうか。また、バブル崩壊以降の不景気によって企業の交際費が削減され、接待で銀座の高級店が使われることも少なくなってしまいました。
しかし、昔から銀座は大人の社交場・接待の場所として、昼間の世界とは別の側面からビジネスや経済・芸術の世界を支えてきました。その歴史と文化はこれからも変わらないでしょう。
ビジネスパーソンとしてワンランクアップを目指すなら、銀座の夜の流儀を知っておく必要があります。超一流の接客プロである銀座のお店で、お客様を接待する際のお作法、きれいな遊び方、「粋」を尊ぶ日本人の精神文化など、奥行きや深みのある世界を知ることが、まさに日本独特の美学がビジネスのクオリティをアップさせることになるのです。
執筆の動機
銀座の輝きと日本独自の文化を伝える
「銀座」といえば誰もが憧れる日本を代表する繁華街です。昼の賑やかさもさることながら、夜の華やかさは日本経済の発展の象徴として取り上げられ、男性にとっても女性にとっても夢の場所でもあります。
ところが、バブル崩壊以降失われた20年といわれた間に、銀座の夜は、だんだんと灯が消え、かつての輝きを失いつつありました。私は、バブル絶頂の時代、大学生の時にこの世界に飛び込み、今日まで時代の流れをみてきました。
本業はクラブをはじめとして、音楽ラウンジやバー、和食のお店と4店舗の経営者ですが、かつての勢いを失いつつある銀座にあって、銀座のことを世の中に知っていただく情報発信も私の役割ではないかと思い始めました。
「銀座のクラブ」は、世界にはない日本独自の遊びの文化です。大人の遊びにおける「粋」も、日本人の美意識・精神文化そのものと言えます。
日本の経済発展が銀座の繁栄を支えたとも言えますが、同時に、銀座は格調高い社交場として政治・経済・文化など様々な方面で活躍する人々が交流し、そこから大きなビジネスや一流の芸術が生まれたりもしているのです。
つまり、一国一城の主として自分の店を仕切る銀座のママは、ビジネスの面では経営者であり、同時に日本独自の大人の文化を支えている大きな存在でもあるのです。
しかし、銀座のママ自身が表の舞台に立つ存在になることは多くはありません。また、あえて前に出ていくことを良しとしていないママもいらっしゃいます。
かつての輝きを失いつつある銀座に危機感を持ち、私は、飲食店の経営以外の活動もさせていただいていることもあって、そういったママたちに代わって銀座のすばらしさを日本が誇るべき文化としてメッセージを発信していきたいと思いました。
そんなふうに考えていた時、GSK(銀座社交料飲協会)の活動の一環で、銀座の屋上での農作業している時に取材に来られた方が、「銀座のママの本を出しませんか」と提案してくれました。
当初は、「銀座のママ図鑑」としてなるべく多くのママたちを取材しようと考えていましたが、東日本大震災によって方向を転換しました。超一流のママたちに絞って取材することで、銀座の良き時代を知ってもらい、銀座のクラブは何を目指しているのか、どこに向かっているのかを知ってもらうことにしました。
表舞台に出ないママも少なくないため、取材交渉が困難を極めたこともありました。しかし最終的には、私の想いに共感していただいた10人のママのインタビュー掲載が実現しました。
出版後、銀座でがんばっている若い女の子たちがだいぶ読んでくださっていると聞いています。
また、画一的にイメージしていた夜の銀座のイメージが変わったというお手紙をいただいたりしています。
是非、日本の繁栄に支えられ、また日本の繁栄を支えてきた銀座のクラブとその主(あるじ)であるママの本質を知っていただきたいと思います。
「銀座のママ本」はさまざまありますが「超一流クラブの10人のママが登場」し「銀座のママがインタビュー」したのは初めて。 十人十色の苦境の乗り越え方や成功の極意、著名人たちの華やかな交遊録が詰まっています。
生い立ち
小学校時代 ~抑圧された環境で、優等生としてふるまうことを自らに課す
私は、1966年大分の竹田市という城下町で生まれました。
1966年は「丙午」で、この年に生まれた女性は男性を食うという迷信があり、出生人数が格段に少ない年です。私も幼い頃から結婚できないといわれ続けてきました。城下町の封建的な気風の中で、余計抑圧されていたように思います。
父はもともと讀賣新聞の販売店をやっていましたが、自主的に記事を書いて新聞社に送っていたことから、記者にならないかと声をかけられ、新聞販売から記者に転向しました。母は珠算教室を複数経営していて、いつも忙しく、働き者でした。
ある時、父が放置され荒れ放題になっている空屋敷を見つけ、ここに住みたいと言うので、家族でその家に住むことになりました。そこは「荒城の月」で知られる瀧廉太郎が幼い頃住んでいた家で、後に、音楽家の芥川也寸志さんやジャーナリストの筑紫哲也さん(瀧廉太郎の妹の孫)の働きかけで、今は「瀧廉太郎記念館」になっています。 そんな関係もあって、小学校3年生のとき音楽を習うように言われ、瀧廉太郎合唱団に入ったのがきっかけで歌を始めました。最初は周りから勧められた音楽でしたが、次第に歌を歌うことが大好きになっていきました。 私には今は精神科医になっている2歳上の兄がいますが、この兄が小さい頃からとても変わっていて、かなり両親の手を煩わせていました。
親や先生方の苦労を見ていた私は、自分は手のかからない子供でなければと思い、活発でお転婆な女の子でしたが、小学校では常に学級委員を務めるなど大人の期待に応える優等生でもありました。
中学校時代 ~故郷を音楽の都に・・・大好きな歌に打ち込む
中学に入っても真面目な優等生ぶりは相変わらずで、身体の成長も他の子たちよりも早かったため、学校ではお母さんやお姉さん的な存在だったように思います。
中学校時代は音楽漬けで過ごしました。小学校からの瀧廉太郎合唱団も続けながら、中学校では合唱部と吹奏楽部に入りました。「故郷をウィーンのような音楽の都にしたい!」と本気で考えていたくらいです。
高校進学を考える時期になり、当然、大好きな音楽の勉強ができる環境に進みたいと思いました。そのためには、少しでも都会に出て広い世界・音楽に力を入れている学校に行く必要があります。
地元から学区を越境して大分市内の進学校に進むには、試験で500満点中490点以上のレベルが求められた上、入学先は本人の意志とは無関係に振り分けられる合同選抜という制度がとられていたため、自分の志望校に入るには運も必要となりました。そこで、隣接する熊本へ進学も検討しましたが、県を超えるとなるとさらに難しく、私としては大変不本意ながら、地元の高校へ進むことになりました。
高校時代 ~グレた娘の気持ちを救った母の強さ
不本意な気持ちで入学した高校ですから、入学早々、1年生の夏くらいから学校には行かなくなりました。
高校進学で自分が打ち込めると思った音楽の道を諦めることになり、子供の頃から自分は優等生でなければならないと自分に思いこませてきたことに、反抗したくなったのだと思います。
当時は「なめ猫」や「金八先生」などが流行っていた時代で、不良はちょっと格好いいという雰囲気がありました。優等生だった私が、不良グループと遊ぶようになりました。学校にも行かず、悪いことも色々やりました。しかし、それまでの優等生イメージへの私なりのささやかな抗議として不良を気取っていただけでしたから、頭の中では「これも私のやりたいこととは違う」と思っていました。 父は変わってしまった娘を見て、かなり怒っていました。
しかし、母だけは私の本当の気持ちが分かっていたのでしょう。高校2年生のある日、「今日は朝まで腹を割って話そう」と私の部屋に入ってきたのです。そして「あなたは本当は何がやりたいの?」と聞いてくれました。私は、好んで不良グループと付き合っている訳ではないこと、荒れた生活で喉をいため、音楽の道は諦めざるを得ないことを話しながら、「もっと勉強したい」こと「そのために東京へ行きたい」と伝えました。
私の気持ちを理解した母は、父に東京の大学への進学を説得してくれました。当初反対していた父も、「早稲田大学の文学部だったら認める。たぶん受からないと思うが・・・」と根負けした格好になりました。親戚からもだいぶ反対されましたが、すべて母が「私が行かせますから!」ときっぱり宣言し、最後は私を守ってくれたのです。
それから、私の生活は一転しました。ほとんど毎日2時間程度の睡眠で勉強に集中するようになりました。ちょうど高校3年の時の担任の先生が早稲田出身だったため、親身になって応援してくれました。やる気になった私を見て、他の先生方もみな勉強しやすい環境を作ってくれ、応援していただいたと思います。
その甲斐あって、実際の入学試験でも手応えを感じ、早稲田大学文学部に無事合格することができたのです。最後まで受かるはずがないと言っていた父は驚いていました。
大学時代 ~クラブホステスという仕事との出会いから大学生ママへ
憧れの東京のキャンパスライフでは、サークルの新入生勧誘が待っていました。バブル絶頂の時代の空気感は大学生も同様で、ちゃらちゃらしたお遊び系のサークルばかりが目立ち、片や真面目なタイプは新興宗教系のサークルに取り込まれるというのがほとんどでした。どちらも違うと思いながら決めかねていたところ、1年生が終わる頃に、同じ早稲田の友達から「おばさんが日本橋でクラブをやっているんだけど、まったく手が足りないから、手伝って欲しいと言われている。ちょっと行ってみない?」と誘われました。その当時はクラブというものが何かも知らなかったのですが、どうせ時間もあるからと思い、4,5人の友達と一緒に初めてクラブに行ってお店を手伝ってみることになりました。 今でこそ大学生が夜のお店で働くことは珍しくない時代ですが、当時大学生がクラブで働いているのは珍しく、また日本橋という場所柄、お客様も相応の企業の上役の方が多かったため、随分と可愛がってもらいました。企業の役員の方には早稲田出身の役員の方も多いので、大学の先輩・後輩という意味でも親近感があったのだと思います。
そうは言ってもやはり夜の仕事はきつく、一緒に始めた友達は結局みんな辞めてしまいました。一方、私の方はいつの間にかお店は自分のお客様でいっぱいになり、大学4年生の時にはオーナーママから任されてママになりました。
教育実習で数週間お店を休んだ後に出勤した時には、「あなたがいない間、本当に大変だったのよ」とオーナーママから言われるほどでした。
就職を考えなければならない時期でしたが、私としてはクラブの仕事が面白く、大学は1年留年することにしました。 それまで両親にはクラブの仕事をしていることはまったく伝えていません。思い切って「卒業後はクラブで働きたい」と伝えました。びっくりした母が、慌てて翌日上京してきました。ところが周囲の反対から私を守って東京の大学に行かせてくれた母です。私を頭ごなしに説得に来たのでも、連れ戻しに来たのでもなく、「あなたがやりたいという仕事をしっかり見てみたい」と私のお店に来たのです。
ちょうどその夜、ある大手繊維メーカーの社長さんが来店しており、「こういう立派な人が来られるお店なら大丈夫」と母は認めてくれました。父には、また母から説得してくれることになりました。
独立 ~日本橋から日本の夜の頂点・銀座を目指す
日本橋のクラブは、私のお客様でいっぱいになりました。 ところが、オーナーママとの関係はだんだんギクシャクしたものになっていきます。オーナーママとしては、私の実力を認めていてお店任せたいとは思いつつ、やはり私が「ママ」「ママ」と呼ばれているのは面白くないでしょう。私の方は、初めてのこのお店でクラブの仕事を覚え、今はママとしてお店を仕切るまでになったので、将来はもっと広くマネジメントをしたいと思うようになっていました。ところが、オーナーママは私にはこの日本橋のお店1軒をしっかり守って欲しいと思っており、それが私にはだんだん窮屈に感じるようになってきたのです。
お酒は結構飲める口ですし、ママとしての仕事がハードな上、オーナーママとの関係もギクシャクしている中で、相当な身体への負荷とストレスになっていたのでしょう。とうとうアルコール性膵炎になり、入院を余儀なくされました。これを機にして、オーナーママには仕事を辞めると伝えました。 ママにはこの仕事は辞めるとは言ったものの、その年、阪神・淡路大震災が起き、野茂の大リーグ行きなど、私自身自分の生き方を見つめるきっかけとなった出来事がありました。野茂が大リーグに行って野球の頂点を目指すなら、私も銀座に行ってクラブの頂点を目指したいと思いました。
求人誌を見て、銀座のお店に勤め始めましたが、結局そのお店も私のお客様ばかりであふれてしまい、日本橋での苦い経験から辞めるしかないと思いました。勤めてまだ1年くらいでした。
これではどんなお店にお勤めしても駄目だと思い、自分でやるしかないと心を決めました。やると決めたら、働く女の子が厳しい夜の世界でももっと働きやすく、高いと言われる銀座でももっと気軽にお客様に来ていただけるようなお店にしたいと思いました。
そして29歳の時独立し、4月に銀座5丁目にお店をオープン、7月には銀座7丁目にもう1軒をオープンさせました。20代で2軒ほぼ同時にお店をオープンさせたということで、当時話題にもなりました。 少しプライベートなお話をすると、幼い頃から結婚できないと言われてきた私は、「30歳までに結婚したい」と言っていました。そこでお客様にお相手の紹介をお願いしたところ、驚いたことに3人の方から同じ方をご紹介いただいたのです。お客様と同じ会社に勤めている方で、ちょうど母も手伝いでお店にいる時にお越しになり、母も「あんな真面目な人がいるのね」と言っていました。それが、今の夫です。子供にも恵まれ、上は中学3年生、下は中学1年生。幼い頃から私の働く姿を見ているため、どちらも女の子ですが、自立したしっかり子供たちです。
ビジネス美学
お客様の懐に飛び込み、一生懸命お付き合いする
最初に働いたお店が日本橋という土地柄、一流企業のお客様が多かったということと、この世界では珍しく7年半という長い在籍だったため、お客様と深いお付き合いが私の基盤になっていると思います。お客様にすれば、大学生からこの仕事を始めママになるまでの私の成長をずっと見守ってきたという親心もあるのでしょう。
私はこの仕事を始めたときから、お客様とは真剣に一生懸命お付き合いをするようにしてきました。年齢層が50代、60代でお客様の方の器の大きさもありますが、私の方から懐に飛び込むようにしています。お店だけでなく、休日やプライベートもゴルフや旅行をご一緒したり、本気で仲間のように付き合っています。また、頼まれ事をしたらNoと言わないようにしています。
途中で諦めない ~「続ける」ことと「変わる」こと
私は、これまでやると決めたことは途中で投げ出さす、最後までやり遂げることを信念にしてきました。途中で諦めないということは、続けるということです。
一方、矛盾するようですが、変化すべきときは変化するということも心がけています。いつまでも過去の自分の成功方程式にこだわっていたら変われません。変わるべきタイミングには、思い切って過去を否定し新しいことに取り組むことも重要です。
決断の時は直感力を信じる
今、銀座5丁目のお店は音楽ラウンジになっています。周囲からみれば、クラブから音楽ラウンジへの変化など大した違いはないとお思いでしょう。ところが、経営からすれば、料金設定も設備投資も、スタッフも入れ替えなければならないというかなり大きな転換に対する決断でした。でも、私はいけると直感したのです。
決断するためには、普段から情報を入れておくことが必要だと思います。そして、インプットした色々な情報を常に自分の頭で考え、決断する時は勇気を持って決める。
私は、何かを決めなければならない時や新しいアイディアを生み出す時は、あえて考え事しかできない時間をつくるようにしています。人それぞれで、何か他のことをしながらの方がいいアイディアが出るとおっしゃる方もいらっしゃいますが、私は他に何もしない時間が一番冴えて集中できるのです。
将来の夢
今は自分の天命を見つける道の途中
今回、銀座で超一流といわれるママ10人のインタビューをして、皆さんそれぞれ壮絶で波乱万丈な人生を乗り越えて今がある「THE ママ」といった方々ばかりでした。皆さん銀座のママになるべくして生まれ、銀座の夜の文化を誇りを持って守り続けていくのが天命でいらっしゃいます。
私も銀座のママとして自分のお店を持ってから17年経ちましたが、私自身の天命はまだ見つかっていません。私の天命は、飲食とは離れたところにあるのではと思い、銀座のミツバチプロジェクトや大学・セミナーの講演など、お店以外の活動に取り組んでいるのも自分の天命・使命を探る新しい試みとしてやっています。
今はまだ、私の天命を求めて試行錯誤している道の途中なのです。
銀座から日本文化を発信
今年は「銀座なでしこ会」という女性経営者を中心とした女性の会を立ち上げ、大変な盛り上がりになりました。
来年は「銀座ファンクラブ」という会を発足する予定で、今準備をしている最中です。これは、銀座に興味はあっても、敷居が高くてなかなか足が運べないという大人の男性方に銀座で遊んでもらうための企画で、座敷遊び、バー、クラブなどをご案内したいと思っています。
さらにその先には、日本の文化・精神を広く伝え発信していくための「銀座大学」を設立する予定です。
私の天命が見つかるまで、これまでの経験を生かし銀座の町に貢献できることを中心になしながら、活動の幅を広げていきたいと思っています。
■取材チームからの一言
梅雨空に紫陽花色の着物で現れた白坂ママは、まさに楚々とした日本美人そのものでした。見た目のたおやかさと同時に、銀座で4軒ものお店を仕切っている経営者として、凛とした強さを感じました。
銀座のママはやはり“格”が違うと感じたのですが、インタビューでお話を聞いてみると白坂ママの目は、銀座や日本のあり方など自分のお店のさらに先・もっと遠くを見つめていることに驚きました。
今のお仕事のスタートとなった、大学生の時のクラブホステスという仕事との出会いは偶然です。しかし、九州から東京に憧れ、日本橋から銀座に憧れ、銀座で複数のお店を経営し、これからも天命がみつかるまで経営以外の活動の幅を広げていくとおっしゃるお話には、一貫した信念とシナリオがありました。白坂ママは常に現状に満足することなく、高い志と広い視野で先を見つめ、求めていく“男前”な方でした。
九州の女性は、表立っては男性を立て一歩引いた位置で男性を支えるタイプが多いと言われていますが、本当は芯が強く、南国ののんびりした気性の男性の手綱をしっかり握り、彼らが男として立派な仕事を成し遂げるために裏でリードする強さを持っていると評価されています。そういえば、白坂ママのお母様も働き者で家族・娘を守る強い女性であり、九州女性の強さは、まさに日本の繁栄における銀座の存在、白坂ママの気質そのもののように感じました。
白坂ママの活動が、これからどのように展開していくのか楽しみです。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1966/7/20 |
---|---|---|
出身地 | 大分県竹田市 | |
血液型 | A型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 7:00 |
平均就寝時刻 | 1:00 | |
平均睡眠時間 | 6時間 | |
平均出社時刻 | 8:00(昼間は自宅にて) | |
平均退社時間 | 16:00(昼間は自宅にて) | |
自己流 | ゲン担ぎ | 紫の着物 |
集中法 | 深呼吸 | |
リラックス法 | マッサージ、エステ | |
健康法 | 栄養を考えて食事 | |
休日の過ごし方 | 家族と食事 | |
座右の銘 | 為せばなる 為さねばならぬ 何事も | |
好み | 趣味 | バーで飲む |
好きなブランド | キャラクターもの | |
好きな食べ物 | フレンチ | |
好きなお酒 | 白ワイン | |
好きなエリア | 銀座 | |
好きな色 | 紫 |
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