辻経営 有限会社代表取締役
辻 伸一(つじ しんいち)氏
著者プロフィール
辻経営 有限会社 代表取締役。
新卒入社の三井銀行にて法人営業の基本作法を身につけ、旅行ベンチャー(現:HIS)に転職。
関西法人営業部の設立に参画し、20年以上前の当時は全く無名であったにも関わらず、独自の手法により、1年以内に飛込みから上場企業3社獲得するなど一気に数億円規模に育て上げる。
旅行スタッフとしても、約2,000人中、西日本№1の営業実績を上げるなど活躍。
コンサルティング会社を経て、平成15年に独立後は、自らの営業体験と営業の原理原則をもとに、「全員営業コンサルティング」の実践法を日本で初めて体系化。その第一人者として、数十人~300名規模のオーナー経営者を中心に具体的な実務を指導。
執筆の動機
独自開発した「全員営業」の手法で「大儲けより長儲け®」企業を増やしたい
コンサルタントとして本を出すなら、しっかりとした見識と実績を蓄えてからと考えていました。
コンサルタントとして独立して12年が経ち、会社設立からはちょうど10年目の節目にあたる今年、今まで自分が培ってきたものを形にして残したいというのが、出版の直接的なきっかけです。 日本のコンサルタントで、独自の見識を持っている人は、意外に少ないと感じています。海外のコンサルティング会社のナレッジや方法論、他の人のスキルやハウ・ツーをベースにしたものが多く、日本の中小企業の経営者が本音で求めている内容に応えるものになっていないのではないかという思いがありました。
この本のタイトルでもある『全員営業』のコンセプト自体は随分以前からありましたが、一言で表現できて聞いた瞬間に、その価値が理解できるキャッチフレーズがなかなか見つからず、何年も考え続けて、ようやく『全員営業』という言葉を見出すことができました。
私が密にお付き合いさせていただいたクライアントは約200社、短期のコンサルティング等を含めると約500社にのぼります。
多くの経営者とお話して気づいたのは、私と個別に話をする時と、社員を前にして話をする時とでは、出てくる内容が若干違うということです。
特に、創業者あるいはオーナー経営者として長く社長を務めてきた方のお話を伺うと、最初は「食っていく」ために起業としたと言う方が非常に多いのです。経営者に向けた企業変革のコンサルティングというと、経営「ビジョン」「ミッション」の社内への浸透徹底といったテーマになることが多いのですが、まず生きることありきでスタートした経営者の本音としては、会社の安定があってこそ、社会への貢献や社員の生活・家族を守ることができるという順序になっていくのが理解できます。その段階を超えて初めて、ビジョンやミッションの存在感・重要度が出てくるのです。
会社の中で、真に逃げ場がない立場にあるのは、金融機関に個人保証をしている経営者です。会社が永遠に続くことは無理だとしても、オーナー経営者にとって息子さん・娘さんの代までは続くよう支援することが、私がコンサルタントとして提供する最大の価値であると考えています。 中小企業は短期的な「大儲け」を狙うよりも、自社の実情と厳しい経営条件に合致し、かつ自社で継続できる戦略や体制によって適正な利益を出し続ける『長儲け®』経営を目指すべきと考えています。(※長儲け®は辻経営の登録商標)
この本では「大儲けより長儲け®」の経営を実現させるために、最も重要な方法をお伝えしています。
あらゆる企業にとって、売上を伸ばすことは存続するために必要不可欠である。 本書で紹介されている事例は、すべて著者自身が手掛けたコンサル成功事例に基づく、リアリティのあるものばかりである。業績不振・停滞、将来に悩む経営者はもちろん、営業部長・営業管理職にも役立つ内容が満載。
生い立ち
幼少期・小学校 ~祖父母・父母の愛情を受けて育つ
私は四国、徳島県の生まれです。両親は共働きでしたので、主に祖父母の薫陶をうけて育ちました。祖母がお茶とお花の師範だったため、週に1回はお弟子さんなどの来客と一緒に食事をする機会があり、そのせいか、幼い時から人見知りはしませんでした。
中学校時代 ~勉強もやれば出来る!
勉強はあまり得意ではありませんでした。中学に上がっても、成績は学年で370人中150番から170番くらい、真ん中くらいでしょうか。 当時、どうしても欲しいものがあって、一計を案じ、「成績が学年でベストテンになれば買って欲しい」と両親に頼み込みました。必死に勉強すると、半年後には8番まで急上昇しました。この時、得意でないことでも、工夫と実践次第で出来るようになるということを子供心に実感しました。面白いもので一度良くなった成績は、卒業するまで20番台以内を維持しました。
会社の営業強化も同じです。変革に成功し、組織体制と仕組作りをしっかりと行っていれば、新たに強力な競争相手が出てくるまでの一定期間は、その強い状態は継続するのです。
高校 ~たった1回の試合出場、開始5分でまさかの骨折
第2回トヨタカップ(1981年)で来日したジーコ(後に日本代表監督)のプレーをテレビで見て、高校入学するとサッカーを始めようと決めていました。
進学校でしたが、中学時代ベスト4のレギュラークラスが同期だけでも10人いたため、1年生の頃は、全く試合に出してもらえませんでした。自主的に朝練1時間と居残り練習を毎日1時間続けた結果、2年生になり、初めて練習試合で先発するところまでいきましたが、試合が始まって5分後に転倒しました。グランドでいつまでも倒れている私にチームメイトからも「いつまで寝そべってんだ!」とヤジが跳びましたが、一人では立ち上がれない様子を見て担架が出動し、病院に運び込まれると骨折していました。それからは、二度と試合には出してもらえませんでした。それでもサッカー入部の際に、最後まで続けることを決意していましたので、3年生の1学期まで部活動は続けました。 部活も引退し大学受験を控えた頃、成績は偏差値が65と40の2種類のみ。国語と英語が65、それ以外の教科は40でした。しかし、私立大学の受験では、抜きん出た教科のある方が有利でした。
これは、ビジネスの世界でも同じではないでしょうか。何でも満遍なくこなす優等生のような会社よりも、何か突出した強みを持った会社の方が、確実に営業が強くなる傾向があります。
大学 ~大学2年のとき自己変革でESSに入部、就職ではメガバンクに内定
大学進学で初めての一人暮らしがスタートしました。
ところが、付属高校から内部進学してくるグループの雰囲気に馴染めず、1年生の時は図書館と食事に出かける以外は、ほとんど引きこもりのような生活をしていました。
一日の会話といえば、お店でオーダーする時の「ランチ」と夕食の「定食」という二言だけ。人間としてこれでは駄目だと思い(笑)、2年生になるとE.S.S(ENGLISH SPEAKING SOCIETY)に入部しました。 就職活動の時期は、ちょうどバブル景気の真っ最中。新卒で入社した1989年12月に日経平均株価が過去最高の約3万9,000円をつける前の年でした。当時、三菱地所のロックフェラー・センター買収など派手な話題もあり、海外への憧れから銀行や商社を中心に応募しました。
中でも三井グループは、最も人材を輩出している企業として邦光史郎の「三井王国」にも描かれ、ダイナミックな仕事をしているイメージを持ちました。「人の三井」と呼ばれ、室町時代から現在まで続く企業に対して憧れに近い興味もありました。
結果、銀行に内定をもらうことが出来ましたが、内定後に面接官から「お前一人くらい変り種タイプがいた方がいいと思った」と言われました。
就職・新人時代 ~変わり種の新人に仕事の意味を考えることを教えてくれた上司
新卒社員は入行して半年間、店頭窓口、融資、営業、大きな店であれば外為と、銀行内の様々な業務を一通りローテーションします。
当時の私は、思ったままを口にするタイプでしたので、支店の先輩からは「君、銀行員には珍しいタイプだね。辞めずに続くといいね」と興味半分、期待半分で言われたことがあります。
ある日、支店長から「銀行に入って何年も経つと、銀行の考え方や決まったやり方に染まってしまう。どうだ?辻君、新人のフレッシュな目で是非、銀行について忌憚のない意見を聞かせて欲しい」と言われ、感じたままを率直に答えてしまいました。その結果、血相を変えた副支店長に会議室で、新人のくせに出過ぎた振る舞いであり、支店長への話し方がなってないと教育的指導を受けることになりました。今思うと、幼い対応だったと思うところはあり、大企業では長幼の序は組織を円滑に動かすための大事な秩序です。一方、中小企業やベンチャーでは、経営者から意見を求められたら、経営者の機嫌を損ねない程度には言うべきことは言った方がよい場合があります。 同じ支店の一年上の先輩は、銀行在籍時だけでなく、この年齢になっても、20代であれほど気働き・気遣いの出来る人はいないほど優秀でした。その上、書類や資料はまだ手書きが中心の時代に、書道3段以上と字まで達筆でした。年齢の近い先輩はその人しかいなかったため、ただでさえ変わり者の私が、常に、支店の銀行員としては最優秀レベルの先輩と比較評価されることになりました。
ある日、優秀な先輩の見よう見まねで稟議書を書いて提出すると「辻君、ここに『前稟議書と同』と書いてあるけど、“同”ってどういうこと?」と上司に質問されました。先輩は、一度もそんなことは聞かれずにすんなり稟議が通っています。私は、「先輩がそう書いていたので、同じように書きました」と答えました。すると続けて、稟議書を指さして「どうしてこの記入欄があるの?」と重ねて聞かれました。正直そんなこと考えたこともないので、「わかりません」と素直に答えました。それを聞いた上司は、「辻くん、仕事には必ず意味があるんだよ。以下同文とか、前からある記入欄でも、何か意味があってそうなっているはずだ。単に流れ作業をせず、なぜそうなっているかの背景や目的を考えることが大事なんだよ」と教えてくれました。この場面は、いまでも想い出せるほど強烈でしたし、私のビジネス人生でも非常に重要なものになりました。
今までコンサルティングした企業でも、「仕事のやり方は教えてもらえるが、仕事の背景や意味までは教えてくれない」「そのくらい言わなくても分かるだろう」ということがよく起きています。仕事の背景や意味から教えるということは、現在において、更に、その重要性が増していることなのかもしれません。 また、営業の外回りをするようになると、銀行の内勤仕事とは違って、上司はいるものの自分の判断で仕事をせざるをえないことが多くなりました。自分のやり方や工夫だけでは成績をあげるのに限界があると考えて、先輩に一日同行させてほしいとお願いしたことがあります。その時、先輩は「営業はみんなライバルなんだよ。教えるということは自分の手の内を明かすことだから、営業の人は教えないのが普通。そういう僕もね。だから、自分で学び取っていくしかないんだ」と本音を聞かせてくれました。
これは営業にかかわらず、企業における人材育成の本質を突いています。「会社が教えてくれない」「上司が教えてくれない」と言っていても仕方がないどころか、普通に会社経営している限り、そうなってしまうのは当たり前なのです。
転職 ~旅行ベンチャーH.I.S.で新規開拓営業を鍛えられる
新卒から銀行の業務を一通りローテーションした結果、銀行の仕事は、自分本来の良さや持ち味が、本当の意味で活きないと考えはじめました。
銀行を辞めて1年間は、あえてすぐに転職しようとせず、図書館に通って本や新聞を読みながら時流を見極め、これからの自分についてじっくり考えました。
若者も含めて個人の海外旅行が増えてきた時代に、格安航空券の販売から海外旅行パッケージへツアーの企画・販売も手がけ始めたH.I.S.に興味を持ち、創業者の澤田秀雄さんの考え方にも大きく共感するところがありました。 H.I.S.入社後まもなく、関西営業法人部門の立ち上げに参画するように命じられました。今のようにインターネットで地図やナビ情報がある時代ではありません。営業先のリストも地図もないところからのスタートでしたので、最初は飛び込み営業を並行して実行し、1年で上場企業3社を含め数億円の売上を上げることが出来ました。
前職の三井銀行だと、名刺を出せば、経営者や部長に合わせてもらえたのが、H.I.S.の名前で訪問すると受付の女性が「何だか良くわかりませんけど、“KGBさん”が来てまぁーす」(「KGBって、オレ、ロシアの諜報機関か?」)と社内に向かって呼ぶ声が聞こえたり、「ありがとうございました」と挨拶して退出する際に、オフィスの扉が閉まる向こうで今渡したばかりの名刺がゴミ箱に捨てられるといった経験に直面しました。
当時は、しんどい思いもしましたが、そんな状況から決裁者に会い、新規契約を獲得し続けたのが、現在、顧問先を支援する際、本当に役立っています。
二度目の転職から起業まで ~コンサルタントに求められる価値を知る
H.I.S.には5年半在籍し、それなりの成果を出し会社に貢献出来たと思います。おかげで、報奨旅行でオーストラリアに無料招待してもらえた等もありました。
その頃、北海道拓殖銀行の破綻と山一證券の廃業が立て続けに起こりました。大手企業や老舗企業でも一夜にして消えてしまう時代になったことを実感し「いざという時に一人で生きていけるようにしなくてはいけない」と感じました。独り立ちするのであれば、定年のない税理士かコンサルタントと考え、コンサルティング会社に転じました。
コンサルティング会社では、コンサルタントとしてのコンテンツや方法論などの勉強になりました。また、「複数部門を連動して動かす勘所」「現場に気持ち良く働いてもらう」「新プロジェクトを一から立ち上げる」こと等については、三井銀行とH.I.S.に在籍した時の体験も非常に役に立ちました。 コンサルタントの育成期間が終わり、営業部長のところに挨拶に行ったところ「一人前、おめでとう。でも君には実績がないから営業部から案件は回せないよ」とニベもなく言われました。
待っていても仕事がくる可能性がゼロなので、営業部から出入り禁止のリストをもらう等して、新規の営業電話、飛び込み営業からのスタートです。訪問先でも「コンサルティングで飛び込み営業って珍しいね」と言われました。3ヶ月くらい新規開拓を続けたあたりからやっと「アカンかったら、金は払わんからな」という条件付きで契約してくれる企業が出てきました。関西なのでコストにシビアなのと言い方が少しきついのですが、背に腹はかえられず、こりゃ、下手打てば解雇だなという覚悟をもって仕事を受けました。この原体験が2社~3社と続いたことでコンサルティングの価値と、経営者が求めるていることを骨身に沁みて理解することが出来ました。そうやって受けた会社で業績が年商2割から5割アップし、リピートもするようになって、ようやく営業部からも案件が回ってくるようになりました。 コンサルタントのキャリア(経歴)は、「Up or Out」と言われ、社内で昇格するか会社を辞めるかが一般的です。もともと独立してもやっていけるスキルと成長を求めてコンサルティング会社に転職したので、会社の経営方針の大きな転換に合わせて、いよいよコンサルタント独立することを決めました。
ビジネス美学
大儲けより「長儲け®」
私のクライアント先の中心である中小企業のオーナー経営者の第一義は「生業」が出発点です。大手企業のサラリーマン経営者や役員、エリートビジネスマンとの最大の違いはこの一点に尽きます。 大企業も含めすべての企業にとって、リソース(人・物・金・時間・情報)には限界がありますが、中小企業になれば、量的にも質的にも利用できるリソースはさらに厳しくなります。それでも会社は続いていかなければなりません。 そのためには、博打のような大儲けを仕掛けるよりも、先ずは、今あるリソースを最大限に活かすことで、自分たちが継続できる施策により、適正な利益を生み出し続ける「長儲け®」の戦略と仕組みづくりこそが、オーナー経営者が、求められていることだと考えています。
「中小企業と屏風がは広げすぎると倒れる」
リソースの限界を広げると言っても、現実的には文字通り限界は存在します。
例えば、地域密着型の市場をターゲットにしている企業や、ニッチ市場であるゆえに、見込客そのものが限定される企業も存在します。 しかし、心配することはありません。全員営業を導入し、定着した後は、人件費も残業も増やさない「全員営業」による業績向上を活用して、第2段階・第3段階の経営強化を行うことは可能であり、その指導も必要とあれば受けることが可能だからです。
中小企業で重要なことは、業績がまだまだ安泰といえる前段階にも関わらず、広げすぎるリスクと今の限界を超えるチャンスの両方を見極めることにこそあるのです。
経営者・社員・顧客 それぞれの「喜怒哀楽」のツボを押さえる
コンサルタントになった時、自分の強みは何か、経営者の味方になるにはどうしたら良いのかをじっくり考えたことがあります。
私は特定領域の専門コンサルタントではないので、人種・国籍・時代・世代年齢・業種・業界などすべてに共通するものは何かと考えた場合、それは「喜怒哀楽」であるという結論に至りました。ただし、経営者と社員とお客さま、どこが喜怒哀楽のツボかはそれぞれ立場によって違います。
独立して最初の頃、コンサルティングが終って1年後に「コンサルティングを受けて本当に良かったことは何ですか」と経営者にヒアリングしたことがあります。当然、「会社の業績が上がったこと」とお答えいだけると思っていたところ、返ってきたのは「経営者として自分が本当にやらなければならないことがわかった」「自分の本音と向き合えた」といった答えが多かったのです。
その時、経営者が真に求めているのは、専門知識やノウハウといった表面的なことではなく、納得いく会社経営の実現であったり、自分の“味方”になってくれる人であるのを実感しました。
それからのコンサルティングは、業績向上のアドバイスを行うことは当然として、経営者の味方であること、絶対に社長の自分を裏切らない信じてもらえる存在になろうと努めてきました。
それと同時に、現場では必ず社員の知恵と助けを求めるようにしています。かつてはこちらで全部やってしまうコンサルティングスタイルの時もありましたが、外部から来たコンサルタントが頭ごなしに教えたり、言ったりしたことは定着するのが難しいものです。どこか、よそ者・ひと事になってしまいます。要所要所の勘所では、現場の社員が「自分たちで決めた/やったんだ」という形に可能な限り持っていくのを意識するようにしてからは、新たな仕組みが定着するスピードと度合いが明らかに違ってきました。
将来の夢
コンサルティングで日本発のグローバルスタンダードをつくる
日本は、文化は飛鳥時代時代の昔から、ビジネスは明治維新以降、常に海外からの知識を輸入して日本向けにカスタマイズしながら発展してきた国です。 最近のノーベル賞は物理などの理系分野では日本人の受賞も増えてきましたが、経済の分野では相変わらず、欧米の後追いは一向に変わっていません。 しかし「ものづくり」「ジャパンプレミアム」など、ビジネスにおける日本ならではの優位性はたくさんあります。今後10年かけて、日本発で海外のスタンダードになるようなコンサルティングを開発・展開していくのが、将来の夢です。
コンサルタントは50代が一番脂が乗る時期です。その時期は、今まで以上に、経営者と一緒に、最前線で斬った張ったの戦いをし続けることこそが、コンサルタントの本道と考えています。
「20年30年企業」づくりのお手伝いを
当初、私がコンサルティングさせていただいた先から上場企業を出したいと考えていました。
おかげ様で、既に2社が無事上場を果たしています。しかし、その企業で私がご支援差し上げたのは、ほんの一部分であり、私の力もあって上場したと言うのは余りにもおこがましいと思います。また、上場がすべてではありませんし、会社(特にオーナー経営者)にとって上場は諸刃の剣となる可能性もあります。
そこで私の目標は、これから先20年30年続く企業になるための経営者のお手伝いをしていきたいということです。
最近、100年企業という言葉も良く聞くようになり、100年企業のお手伝いとも思ったのですが止めました。なぜなら、私が100年後まで生きている訳ではないので、言葉に責任が持てないからです。絵空事でなく現実的な20年後30年後、次の後継者の代までは持続成長する企業づくりのご支援に尽力していくつもりです。
■取材チームからの一言
ホームページや会社案内のプロフィール写真を拝見すると、学究的で堅い先生的コンサルタントの印象を持っていました。
ところが取材では、博覧強記のイメージはそのままに、時々お茶目でチャーミングな発言と少しどきっとするようなアイロニカルが表現も入り混じって、あっと言う間に予定時間を超えるインタビューになりました。 不思議なのは、表現がユーモアの方に振れても批評的な方に振れても、また真面目な話をしていても、一貫してとても人間の情・情念に対する理解のある人間らしさを感じさせるお人柄です。
資本主義において立場の異なる経営者と社員では、本音に大きな隔たりがあるのは当たり前です。辻社長がコンサルタントとして企業と向き合う時、経営者に「ビジョン・ミッションの浸透」などと理想論を語ったり、「孤独な経営者の味方」という甘言だけで迎合する訳ではありません。また、現場に対して「社員も経営視点を持て!」と無理難題な要求をしたり、「所詮、経営者の駒」と切り捨てたりすることもしません。 会社の存続という最終ゴールは共有しながら、喜怒哀楽のツボが違う経営者と社員のどちらの本音にも応えられるコンサルタントは希少ではないでしょうか。
辻社長の企業と人間に対する理解と愛情の深さ、ご自分の考えをあえて取り繕わない率直さが、クライアントとの信頼関係を生み出しているのだと思います。 この本に書かれている内容は、本当に中小企業の現場を知り、経営者も社員の本音も知り抜いた上でなお、全社が一丸となって業績改革(改善レベルでなく)に取り組める内容になっています。「全員」×「出来ること」×「継続」が長儲け®の方程式です。是非、一度ご本を手にとってもらい、社内でもディスカッションしてみることをお薦めしたいと思います。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1967年 |
---|---|---|
出身地 | 徳島県 | |
血液型 | B型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 0時 |
平均就寝時刻 | 7時 | |
平均睡眠時間 | 7時間 | |
平均出社時刻 | 顧問先訪問も多く不定期 | |
平均退社時間 | 同上 | |
自己流 | ゲン担ぎ | なし |
集中法 | なし | |
リラックス法 | なし | |
健康法 | 栄養バランスを意識した食事。適度かつ継続的な運動。 | |
休日の過ごし方 | トレーニングジムで運動。流行りのお店、場所巡り。 | |
座右の銘 | 大儲けより長儲け® 道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である(二宮尊徳) | |
好み | 趣味 | 読書、旅行、テニス |
好きなブランド | なし | |
好きな食べ物 | うなぎ、ハムエッグ、野菜サラダ | |
好きなお酒 | プレミアムモルツ、赤ワイン | |
好きなエリア | バリ島、沖縄 | |
好きな色 | なし | |
Voice | 秘書(社員)から一言 | コンサルタントというお仕事が天職の方だと思います。 |
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