情熱経営
湘南美容外科クリニック 総括院長
相川 佳之 氏

湘南美容外科クリニック 総括院長 相川佳之氏

湘南美容外科クリニック 総括院長
相川 佳之(あいかわ よしゆき)氏

株式会社ビー・アーキテクト エム・アイ・アソシエイツ株式会社代表取締役 松丘 啓司氏
株式会社ビー・アーキテクト エム・アイ・アソシエイツ株式会社代表取締役 松丘 啓司氏

著者プロフィール

1970年生まれ。
神奈川県出身。日本大学医学部卒業。麻酔科研修後、医療を通じて人の心を前向きにさせることができる美容医療の可能性に魅力を感じ、都内大手美容外科に勤務。2000年に神奈川県藤沢市に湘南美容外科クリニックを開院。徹底した顧客志向を貫き、料金体系の表示、治療直後の腫れ具合の写真を公開するなどの美容業界でタブーとされてきたことに挑み続け、わずか14年で全国に42院の分院を構えるまでに急成長を遂げている。SBCメディカルグループ総括院長。一般社団法人日本美容外科学会美容外科専門医。

執筆の動機

創業当時の目標「日本一のクリニックをつくる!」の実現をひとつの節目として

クリニック開院14年を経て
日本一のクリニックに成長

2000年に藤沢で最初のクリニックを開院してから15周年を迎え、現在、当グループは全国で42拠点、年間患者数59万人を数えるまでに成長しました。
お蔭様でようやく、美容外科「業界トップ」と呼んでいただけるようになりました。
経験も財力も人脈もないところでクリニックを開設した14年前から、私は「日本一のクリニック」になることを目指していました。
そして、今は「世界一の伝説のクリニック」の実現を目標にしています。
日本では業界トップを達成できた今、これを一区切りとして、起業からの変わらぬ想いやこれまでの取り組み、さらにこれからの当グループの目標や理念について、広く知っていただきたいと思いました。
これまでも、美容に関する本は何冊も出版してきました。今回は、私自身や経営そのものをテーマにした初めての著書です。
是非、若いビジネスパーソンや、私と同じ経営者の方々にとって生き方、考え方の参考になれば幸いです。

わずか14年で全国に40拠点年間患者数59万人・治療実績73万件を誇る美容外科クリニック院長が明かす情熱の経営とは

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生い立ち

生い立ち

幼少期 ~家業の倒産で経済環境が大きく変化

父が経営していたスーパーが順調に業績を上げていたころ、私は藤沢市で生まれ、幼い時には何不自由なく恵まれた環境で育ちました。
ところが、私が5歳の時、父のスーパーが倒産し、それまでの生活が一変してしまったのです。
父はアイディアマンで行動力もあったため、スーパー以外にも薬局や飲食店など複数の店を営んでいましたが、倒産のショックでうつ病になり、働けなくなってしまいました。
そこで薬剤師の母が、残った小さな薬局をほそぼそと切り盛りし、家族が何とか生活していくという状況に追い込まれてしまったのです。父に代わって母は働きづめでした。それでも経済状況は厳しく、とうとうお米すら家にはなくってしまうくらい追い詰められたこともありました。近所にお米を借りに行った母が「断られちゃった・・・」と、気丈に、でも寂しそうに笑った顔は、今でも忘れられません。
スーパーの経営が順調だったころには、お店の一角にプラモデルを扱う一角がありました。ガンダムブームなど男の子たちにとって、当時プラモデルは非常に人気がありました。そのため、日常的にプラモデルに囲まれていた私は、友達からはとてもうらやましがられる環境にありました。ところが当の本人は、当時それほどプラモデルに興味もなく、ありがたいとも思っていなかったのですが、お店が倒産してしまうと急にプラモデルが欲しくなってしまいました。ある時「どうしても300円のプラモデルが欲しい」と両親にねだったところ、「それなら毎日10円ずつ貯めて自分で買いなさい」と言われたことを覚えています。

小学生時代 ~人と同じ道は歩きたくない!集団登校の拒否

早くから主体的な行動に目覚める
早くから主体的な行動に目覚める

私は幼いころから人と同じことをするのが嫌いで、人とは違った道を選ぶ傾向が本質的にあるようです。
小学校に上がって1年生の初登校でも、上級生に引率されて集団登校するルールを拒否し、毎日一人で登校していました。しかも、その日の気分や天気によって、学校までのルートも変えていました。
そのことが、他のお母さん方から私の母の耳に入るところとなり、「どうして、あなたは他のお友達と同じことができないの?」と母を嘆かせたこともありました。 そして、小学校6年生の卒業文集には、既に将来の夢を「医者」と書いていました。
しかし、私は「血」が大の苦手だったことと、薬剤師になって両親のために早く実家の薬局を継がねばという想いで、一旦は医者になることを諦めざるを得ませんでした。

中学校・高校時代 ~医学部へ、受験2週間前での進路変更

医学部へ進路変更
小学校時代の夢を諦められず
受験2週間前に医学部へ進路変更

小学校を卒業した後は、中・高一貫の男子校に進みました。
今でこそ、この本のタイトルにもなっている「情熱」がモットーの私ですが、当時は医師への道を諦めていたため、将来に対して確たるコミットメントも持たず、普通に勉強し、普通にスポーツをして過ごした学生時代だったように思います。
勉強もトップではありませんでしたが、学年で上位10人くらいの中にはいました。スポーツは中学校から軟式テニスを始め、中学校の時には市大会で優勝、高校生の時には県大会で3位に入りました。また、湘南の海が近かったので、友達と良く遊びにも行きました。
それでも今の自分からすれば、このころは随分「ヘタレ」だったと思います。 薬剤師になって家業の薬局を継ぐべく、大学進学では薬学部を受験することにしていました。ところが、医者への道をどうしても諦めきれずにいたことを両親に伝えると、快く医学部への進学を許してくれたのです。大学受験2週間前のことでした。
医学部を受験するとなれば、受験科目数もレベルも格段に違ってきます。そこから猛勉強し、2浪の後、日本大学医学部に合格しました。

大学 ~他の医学生にはない「商売」の仕組み・本質を学んだ経験

他の医学生にはない「商売」の仕組み・本質を学んだ経験
実家の手伝い(薬局)を通して
商売の仕組み・本質を学ぶ

進学してみると、周囲の学生は裕福な家庭の子どもばかりでした。多くの学生は外車を乗り回し、夏休みなどの長期休暇旅行も派手にヨーロッパなど海外ばかり。
そんな彼らを横目に、私はと言えば、休みは朝から実家の薬局の手伝いです。値札付け、商品棚のPOP書きからレジ打ち、店頭でのチラシ配りもやりました。
ほそぼそと1店を切り盛りしていた時代から母は愚痴一つこぼさず家族のために一生懸命に働き、また、お客さまのために商店街で一番遅くまで店を開けていました。日常的な健康相談にも、急な子供の熱で飛び込んでくるお客さまなどにも真摯に誠実に対応する人柄が評価され、このころには経営も再度軌道に乗ってきました。
当時ちょうど、また複数店舗を展開し始めたころだったので、好むと好まざるとに関わらず、私も店の手伝いをしなければならない状況でした。そんな環境に、当時は裕福な家庭に生まれた同級生と自分を比べて、随分劣等感を抱いたものです。
しかし、ドクターでありながら「商売」や「経営」の本質に触れた経験のある人はほとんどいないと思います。
高校・大学時代に日々「商い」の現場を体感しつつ、今回の新規開店は成功だったのか、配ったチラシの効果はどのくらいか等「ビジネス」の観点から戦略を検証するクセがつきました。
当時コンプレッスクだったこの経験が、今となれば当グループの経営にとって大きなアドバンテージになっていると思います。

硬式テニスでの優勝
硬式テニスでの優勝が
自身に情熱が宿るきっかけとなった

中学・高校と続けてきた軟式テニスは、大学で硬式テニスに転向しました。
軟式でも6年間続けてきていたので、硬式でもすぐ通用すると思ったのです。
ところが、硬式テニスはラケットもボールも打ち方も軟式とは違います。周囲はジュニアの時から硬式でトレーニングし、試合に出ている人ばかりです。完全に舐めていました。
悔しさのあまり、365日毎日テニスの練習に打ち込み、最後はとうとう関東リーグ526人の中で優勝することができました。
実はこれが、私の人生にスイッチが入る大きな契機になったのです。この経験で、どんなことでも目標を定めたら強い信念でそれに向かって努力をすれば、必ず実現できることを身をもって知りました。トップになることを目標にしてゴールから逆算すれば、今の自分に何が不足し、何をすれば良いのかが分かります。後はそのギャップを着実に埋めていけさえすれば良いのです。
目標の実現には、ゴールに対する揺らぎない確信、コミットメントの強さが大事であることを学びました。

就職・起業 ~人の10倍速で経験を積み、家業2階倉庫からの出発

人の10倍速で経験を積み、家業2階倉庫からの出発
コンプレックスをきっかけに
美容外科医を目指す

26歳で大学を卒業して、医師免許の国家試験に合格すると、まずは癌研究所付属病院で麻酔医としての研修医生活がスタートしました。 実は、背の低い私は中学生のころ、道ですれ違った女の子同士のひそひそ話で「あの人カッコ良いけど、背がちっちゃいね」という声が聞こえてしまってからというもの、怪しげなものまで含めて背を伸ばすために色々と涙ぐましい努力を重ねました。ところが、それを見かねた両親に連れていってもらったクリニックで「病気ではないので、治療の必要なし」とにべもなく言われてしまったのです。
この時の悔しさが、美容外科医を目指すきっかけとなりました。 早く独立して両親を安心させたいという想いがあり、最初から3年で独立すると決めていました。父から「お前には勤務医は向かない」と言われていたことも頭にありました。
短い期間にできる限りの経験を積もうと考え、とにかく休みを返上して働きました。また、他の研修医とは違い、院内にある医療機器を見ても、仕入れ価格や仕入れ先などビジネス的なことも同時に気になったりしていました。 美容外科医として独立するためには、専門クリニックで1日も早く、1件でも多く手術の経験を積むことが必要です。医師としての技術を上げるためには、上手い人の手術を見ることと自分で数多くの件数をこなすことです。
そこで、当時若いドクターを受け入れていた美容クリニックに転所しました。
そこでは、通常の美容外科より5倍から7倍も多く手術を実施していました。その上、休みも惜しんで働いた私は、同じ時間の中で他の美容外科医の10倍近い経験を積んだのではないでしょうか。

1院目となる湘南藤沢院開院
1院目となる湘南藤沢院開院

そして、予定どおり3年経った29歳の時、独立しました。
独立と言っても、十分な資金がある訳でも最初からお客さまがいる訳でもありません。そんな時、父が素晴らしいアドバイスをしてくれました。「最初は“敵”のいないところでやった方がいい・・・」。
当時の藤沢には本格的な美容外科クリニックはありませんでした。そこで、倉庫となっていた実家の薬局の2階で開院することにしたのです。
当然、家賃・敷金・礼金なしですから、開院コストは内装費だけです。必要な約1,500万円のうち1,000万円を両親から借り、内装・設備を整えました。机や椅子などもリサイクルショップで購入し、できるだけコストを抑えるようにしました。
美容外科ではブルーオーシャンの藤沢市とは言え、すぐにお客さまが来てくれるはずがありません。「日本一のクリニックになる」ことを目標に開院した私は、必ず実現させる想いを胸に、診療の合間に駅前や商店街でチラシを手配りしたり、夜な夜な住宅街のポストへのチラシ投函を地道に続けていました。
そこで数ヶ月もすると少しずつ予約の電話が入り、徐々にお客さまも増えていきました。
もともと、競争のないエリアで最初の開院コストを低く抑えたこともあって、1院目はすぐに軌道に乗りました。それが、次の拠点展開のつながりやすさになりました。

好きで究めた脂肪吸引技術
好きで究めた脂肪吸引技術が
評判となり口コミから広がった

私は、独立前に勤務していた美容クリニックで脂肪吸引という技術に出会い、大好きになりました。脂肪吸引とは、カニューレという管を使って皮下脂肪を吸引していくのですが、これがひたすら体力との戦いなのです。当然、施術中は臓器や血管を傷つけないように気も使いますので、1回5時間~6時間と非常に施術に時間もかかります。そのため、好んで脂肪吸引を行う美容外科医は多くありません。
私には、両親にもともと丈夫に生んでもらった身体とスポーツで鍛えた体力と精神力があったため、脂肪吸引はそれほど苦になりませんでした。むしろ、施術の結果・効果がすぐに目に見えて分かるので、大好きになったのです。そして他の医師が敬遠するところを、好きでどんどんこなしていくことによって、技術はさらに磨かれていきました。
また、普通の医師が50%しか吸引できないところを、体力がある私は85%吸引できていました。お客さまからしてみれば、腹部の料金でウエスト部分まで施術してもらえることになるのです。
他院でなかなか歓迎されない脂肪吸引が、当院では上手いドクターが期待以上にやってくれるということで評判になり、まず口コミで「脂肪吸引の湘南美容外科」が広まっていきました。
脂肪吸引は、単価が高い上、必要なのはほぼドクターの技術力だけなので、実は利益率が高いメニューです。また、他の美容整形箇所に比べて、範囲が全身にわたるためリピート率の高い施術です。私としては、もともと好きだった脂肪吸引が、結果としてビジネスにとっても優位性があったということなのです。
これも父の言葉ですが、「『損得』でやっていることは、『好き』でやっている者には負ける」ということがあります。ですから、私が損得で脂肪吸引を選んでいたら、グループと私自身のここまでの成長はなかったでしょう。

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ビジネス美学

ビジネス美学

自らがお客さまの気持ちを知り、技術・サービスの向上に反映させる

自らがお客さまの気持ちを知り、技術・サービスの向上に反映させる
お客さま目線で自ら体験し
施術やサービスを常に改善する

当グループで行っている医療・サービスについては、私自身が自ら試すことをポリシーにしています。
これは私だけでなくスタッフにも行ってもらっています。そして体験結果は、クリニックの改善に反映します。
私は「血」のほかにも、「痛い」ことが大嫌いです。自分の痛みもそうですが、人に痛みを与えること、人から「痛い」と言われることも嫌いです。研修医時代に麻酔科を選んだのも、痛みをいかに軽減できるかという理由からです。
美容外科の一連の施術やサービスにおいて、お客さまがどこで痛みや不安や緊張を感じているかを知っていなければ、お客さまに寄り添い、気持ちに先回りすることで信頼される美容外科医、美容クリニックにはなれません。
私自身、色々な施術を経験して、手術前の何に不安を感じ、術台に上がる前後のどこで緊張し、どのタイミングで痛みを感じ始めるか、施術後どの程度で痛みや腫れが引くのかをリアルに体感することで、お客さまの不安と苦痛を極力回避するようクリニック全体で改善を進めてきました。
スタッフにも非常に安価で施術を受けられるようにし、また、自社開発製品も安く購入できるようにしています。その体験を基に、お客さまとのカウンセリングを行うようにしてもらっています。

高品質な医療を低価格で提供する

当グループは、一部の富裕層だけをターゲットにしている訳ではありません。
社会貢献のひとつの形として、なるべく多くの人に来ていただき、その人の悩みやコンプレックスを解消し、将来に向けて明るい一歩を踏み出してもらいたいと思っています。以前からキャッチコピーにもしていますが、「普通の主婦にお小遣いで来てもらえる」クリニックを目指しています。

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将来の夢

将来の夢

「世界一の伝説のクリニック」に向けて

アメリカのミネソタ州にメイヨー・クリニックという総合病院があります。名病院として医療機関の間では伝説となっています。
ここは教育機関も持っており、研究・教育は医療活動の収益を基に行われています。また、メイヨー・クリニックで治療を受けた人々からの寄付も莫大で、これまで100人以上が10億円以上の寄付をしているそうです。
そのため、このクリニックで働くことは医療従事者にとって大変な名誉です。当然、メイヨー・クリニックで働く人はプライドを持ち、高品質な治療・サービスにお客さまも喜び、教育を受けたい人がどんどんと集まってくる病院になっています。
当グループでは、経営理念として「究極の三方良しを実現する」を掲げています。メイヨー・クリニックは、まさに「お客さま」良し「スタッフ」良し「社会」良しの三方良しを実現していると言えるでしょう。
当グループもこの伝説のクリニックをお手本に、さらなる進化を遂げていきたいと思っています。 現在、当グループクリニックの診療科目も審美歯科やエイジングケアにはじまり、他の美容外科では手がけていないメニューにも取り組んでいます。不妊治療や癌の免疫治療などがその一例です。しかも、非常に高額のために経済的に恵まれている人しか受けられなかったこれらの治療を、より多く普通の人にも受けていただけるよう研究・努力を重ねているところです。 さらに、6年以内2020年までには、美容外科にとどまらない総合病院を目指します。そして全国に展開し、さらにアジアをはじめとする世界を視野に入れています。
藤沢で開業してから業界トップ「日本一」を達成するまで14年かかりました。
私たちのクリニックの次の目標は、「世界一」「伝説」のクリニックを実現することです。

■取材チームからの一言

プロモーション代表 菅原と

インタビューは、グループの中核でもある新宿本院の院長室で行われました。
お客さま(湘南美容外科クリニックグループでは「患者さま」という言葉を使いません)と同じエントランスからお邪魔し、相川先生の準備が整うまでお客さまと同じ待合室で待たせていただきました。
待合室というよりも、オレンジの光とブラウンを基調にした暖かな雰囲気のホテルのロビーかラウンジのような雰囲気です。リラックスして順番を待つ多くのお客さまと、すべてのお客さまにスタッフが一人ひとり声をかけ、付き添って診察室へ次々と案内していく光景は、これまでの美容外科のイメージを覆すものでした。また、適度な混雑感もこのような美容外科では信頼感の一つではないでしょうか。エントランスから安心感があり、かつ気軽にまた来たいと思わせる空間になっています。
相川先生は、医療機関として世界一のメイヨー・クリニックをお手本にするとおっしゃっていました。サービスの面でも、世界一のホテルと言われるザ・リッツ・カールトンに学んでいらっしゃるそうです。実際、リッツ・カールトンにならって、湘南美容外科クリニックグループの経営理念を12か条のクレドとしてまとめ、グループ全体への浸透を図ることによって、業界トップのクリニックへと成長させました。
相川先生の取り組みは美容外科業界、医療業界においては異端児であり、多くの批判・否定や、ビジネスの成長に対する僻みや嫌がらせもあったことは想像に難くありません。
しかし、開業から「日本一のクリニックをつくる」という揺るがない目標を据え、幼いころから家業を手伝った経験と人生の要所要所でのご両親の教えやアドバイスが、ここまでの成功を導いたのだと思います。
それは、ゴールに対するコミットメント(意)の強さと同時に、(選択的にそのような環境を選んだではないにしても)身長に対するコンプレックスと、白いご飯も食べられないほど追い詰められた、文字通りハングリーな状況の中で生み出された知恵=戦略・仕組み(理)が、結果としてしっかりと整合し、積み重ねられています。
さらにそこへ相川先生のお客さま・スタッフに対する熱い思い(情)が加わり、「意・理・情」でも三方良しがかなうことによって、今後は「世界一」の実現に向けてさらに前進していかれるに違いありません。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 昭和45年6月9日
出身地 神奈川県横浜市
血液型 O型
生活リズム 平均起床時刻 午前8時
平均就寝時刻 午前2時
平均睡眠時間 6時間
平均出社時刻 午前9時
平均退社時間 午後7時
自己流
休日の過ごし方 綺麗な海でマリンスポーツ
座右の銘 継続は平凡を非凡に変える
好み 趣味 テニス、クルージング、小型飛行機、ヘリコプター
好きな食べ物 納豆
好きなお酒 ワイン
好きなエリア 沖縄
好きな色

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