ハイローラー(カジノの高額VIPプレーヤー) 経営者
和田 史久(わだ ふみひさ)氏
著者プロフィール
1963年、滋賀県生まれ。
中学卒業時に身長が185センチもあり、その恵まれた体格を活かして高校から柔道を始める。
その後、頭角を現しインターハイや国体などで優勝。オリンピック強化指定選手に選ばれるも、最終選考で3位となり、オリンピック柔道代表の座を逃す。
大学卒業後は警察官の道へ。しかし、数年間勤めた後に退職して不動産業を始め、バブルの波にも乗りビジネス的に大成功を収めた。
後に700億円の負債を抱えるなどの危機にも見舞われるが、持ち前の勝負強さでこれを乗り切り、現在では警備会社や健康食品会社などの企業十数社で会長を務め、経営に携わっている。
カジノ通いを始めたのは会社を経営するようになってからで、今では暇さえあれば世界中のカジノに出没し、バカラに興じている。
しかも20年間ほぼ負けなしという驚異の勝率を誇り、一度に数億円かけることもある。
過去には一勝負で30億円も勝ったことがあり、これまでに数百億円はカジノで稼いでいるため、名実ともに日本人最強のバカラプレーヤーとして世界中のカジノで知られている。
2012年にはカンボジアに自身がオーナーを努めるカジノがオープンし、日本人初のカジノオーナーかつ世界で初めてのプレーヤー出身のカジノオーナーとなった。
執筆の動機
僕の人生から何かを学び取って欲しいなんてエラそうなことは考えていない
冒頭からいきなりだが、「ハイローラー」と呼ばれる人のことをご存知だろうか。初めて耳にされる人が多いのではないかと思う。
「ハイローラー」とはカジノで一度に数千万~数億円という金額を使うVIPプレイヤーのことである。
僕は、このハイローラーとして約20年間ほぼ負けなしの唯一の日本人である。
日本ではカジノと言うとイカガワしいイメージがあるが、ビジネスパーソンならカジノは日本の新しい産業として20年近く国や各地方自治体などの行政も含めて議論されてきていることは知っていると思う。
つまり、カジノは世界的にはれっきとしたエンターテインメント産業として認められているのである。 僕が20年間ほぼ負けなしの日本で唯一のハイローラーという希少な存在であることから、メディア・エンターテインメント業界に関する研究や産学連携で実績のある金沢工業大学虎ノ門大学院(KIT)のセミナーで何回か講演を行ったことがある。
この内容がビジネスメディアで取り上げられたことで、7つの出版社から本を出しましょうとオファーをいただくことになった。
しかし、僕自身は表に出るような人間でないためずっとお断りしていたのだが、KITのセミナーに僕を招聘してくれた先生が強く出版を勧めてくださり、その先生が以前ご本を出されたサンマーク出版さんと勝手に話が進められてしまったのである。
先生には以前からお世話になっているし、乗りかかった船を断れなくなってしまったというのが出版の動機というより、実際の経緯である。
だから、僕はこの本で皆さんの“ため”になるようなことや教訓になることなどを書くつもりはない。というより、そんなことが書けるとも思っていない。
ただ、普通の人とは変わった人生と経験を知ってもらうことで、「この世の中には、面白い“おっちゃん”がおんねんな」と思ってもらえればいいのである。
一勝負で数億円も賭け、しかも20年間負けなし。一度に30億円もの勝ち金を手に入れたこともあり、これまで勝った金額の合計は数百億円――。
そんな異常ともいえるほどの「勝負強さ」をもった日本人がいます。彼の名は和田史久。世界中のカジノでバカラに興じ、その圧倒的強さゆえに「日本人最強のバカラプレーヤー」として知られています。
和田氏は、人生も博打と同じだといいます。現金のやり取りはなくても、人はみな常になにかを賭けて選択したり、勝負を挑んだりしているのです。
生い立ち
小学校時代 ~生まれたときから巨大児 スポーツ万能のやんちゃ坊主
僕は滋賀県の信楽で生まれた。僕の身長は今、193センチあり、知り合いの中で僕より背が高いのは関取ぐらいしかいない。
そもそも生まれたときから身体は大きかった。
体格が良いのを活かして、小学校時代はとにかくやんちゃ坊主、ガキ大将だった。
スポーツも球技から陸上、水泳など分野を問わず、やれば何でも1番にできた。
水泳と陸上では、県大会で優勝し、水泳については近畿地方大会でも優勝するほどの実力があった。
父は自ら商売をしており比較的自由放任主義、また母は学校の先生だったためか、かえって家では僕にあまり勉強しろとは言わなかった。
スポーツ万能で身体も大きいとくれば、悪ガキでケンカもよくした。
ある時ケンカで相手を殴ったら、同じ小学生の友達の鼻の骨が折れて、それから彼の鼻が曲がってしまった。自分でも自分の力の強さにびっくりし、中学校に行ったら殴り合いのケンカはするまいと誓ったほどである。
小学校を卒業する時、僕の身長は176センチになっていた。
中学校時代 ~バスケットボールを楽しんだモテモテ時代
中学校になると高身長を活かして、バスケットボール部に入った。自分で選んで入部したバスケットは、楽しんで練習ができた。
身長185センチだった僕を入れて試合に出場したメンバー5人のうち3人が180センチ以上あって、全国大会3位の成績を残すこともできた。
背の高さとスポーツ万能なおかげで、小・中学校から僕はとても目立つ存在だった。
当然、女子からモテモテだったのは言うまでもない。
僕の方は知らない女の子でも、相手は僕を知っていて、今思えばまるでファンがアイドルに群がるような状態だったといっても言い過ぎではない状況だった。
高校時代 ~柔道部にスカウトされて進学した学校で苦しい練習の日々
高校進学は、恵まれた体格と身体能力を見込まれて、全国から柔道の強化選手が集まる県内の学校からスカウトされた。
自宅からは通学時間が3時間以上になってしまうため、監督の先生の家で他の生徒も含めて一緒の暮らしが始まった。
ところがバスケットボールとは違い、スカウトされたことによって半ば強制的に始めた柔道の練習は、とても厳しいものだった。
監督の家で暮らしていたこともあって、生活のすべてが柔道だったといっても良い。早朝から夜遅くまで授業時間以外は、練習、練習の毎日である。
練習で疲れているので、授業の内容などほとんど覚えていないし、遠征が続けば授業そのものにも出られない。
ここだけの話だが、定期テストの前日になると先生自ら「明日はこの問題が出るから」と、テスト用紙を見せてくれたことで勉強の方はなんとか乗り切っていた。
今、学校の体罰が問題になっているが、当時は監督から殴られたり、どづかれまくるのが当たり前で、何とか柔道の練習から逃れられないかということばかりを考えていた。
ただ、道場では鬼のような監督も一緒に生活している家に帰れば、親同様かそれ以上に僕たちのことを気遣い、可愛がってくれた。
寝食をともにしているからこその信頼関係が、どんなに厳しい環境でも僕を柔道に引きとどめていた理由の一つだと思う。
大学時代 ~柔道のオリンピック強化選手へ
大学進学にあたっては、16大学からオファーを受けた。
なかでも拓殖大学は、史上最強の柔道家といわれている木村政彦先生の出身大学であり、当時、先生自身が監督を務めていた。
筑波大学へ行きたい気持ちもあったが、唯一、木村先生じきじきに自宅までスカウトに来てくれた拓殖大学に入学を決めた。
地方から初めて東京に出て、合宿所での柔道漬けの生活が始まった。 一年生には外出禁止の掟まである。それを破った奴が、合宿所の窓からロープで逆さに吊られているのを見て、大変なところへ来てしまったなと思ったものだ。
どこの世界も同じだが、弱い先輩ほど下級生をいじめてくる。僕は1年生からレギュラーに選ばれていたことで、本来1年生の役目である雑用係を免除されていたのも先輩としては面白くなかったのだと思う。
小さいときから負けず嫌いな僕は、そういう意気地なしな先輩は、試合や練習の組み合いの中でいじめかえしてやった。しかも、監督の目の前で。
それでも、厳しい練習から何とか逃れたい、嫌だ嫌だという気持ちは相変わらずだった。
そう思いつつも厳しい練習に耐えているうちに、オリンピック強化選手に選ばれることになったのは、嫌な気持ちを上回る恵まれた体格と才能のお蔭だと思う。
そのせいで、柔道から逃げたい辞めたい気持ちとは裏腹に、ますます柔道を辞められない状況になっていった。
就職 ~柔道のために警察官になるも26億円を手に入れて実業家へ転身する
大学卒業後は2年後のオリンピックを目指して、警察学校で柔道を続けることになった。
大卒で柔道のオリンピック強化選手でもあったため、本来なら東京の警視庁警察学校へ通うはずが、とにかく東京の柔道どっぷりの世界から逃れたくて滋賀県警の警察学校に入学し、卒業後は地元の交番勤務からスタートした。
実はその時、僕の手元には3億円のお金があった。大学時代の柔道の後援会で僕を非常にかわいがってくれていた方から、卒業祝いとしていただいたものである。在学中に僕名義で買ってくれた株を元手に、それを運用して得た利益と合わせすべて僕に贈ってくれたのである。
大学卒業時には3億円を手にして、何か自分で事業を始めたいと思っていたものの、柔道の縛りがあって警察官になっていた僕に転機が訪れる。 交番勤務の警察官は、地域住民から様々な相談を受ける。
ある日、不動産屋から土地の売却を迫られているという地元の名士さんからの相談を受け、例の3億円と友人の父親から融資してもらった3億円を足した6億円で、僕が名士さんの6000坪の土地を買うことになったのである。
その後、京都で手広く飲食業を展開している経営者にその土地を30億で買っていただき、友人の父親には利息を入れて4億円を返却して、まだ20代の僕の手元にはなんと26億円が残った。
卒業祝いの3億円からあっという間に26億円とまるでわらしべ長者みたいな話だが、このあたりの詳しい経緯は、本に臨場感たっぷりに書いてあるので是非そちらを読んでもらいたい。
オリンピック強化選手に選ばれながら、結局本番のオリンピック選手には選ばれなかったことで、僕は嫌で嫌でたまらなかった柔道から離れるべく警察を辞めることにした。
そして、手に入れた26億円を元手にこれまで広く事業を手がけることになったのである。
だから、僕は「ハイローラー」と「事業家」の2つの顔を持っている。
因みにカジノに通いだしたのは、経営者になってからである。
ビジネス美学
ビジネス・パートーナーは“誰”と組むかが大事
人間は、自分の気持ちしか分からない。よく「あなたの気持ちはとても理解できます」とか言う人がいるけれど、それは嘘だ。
僕は自分が楽しいことだけをしたいと思っている。人の気持ちは分からないのであれば、自分が楽しければ相手も楽しいはずだと信じている。
だから、僕は僕が組んで楽しいと思う人をビジネス・パートナーに選んできた。僕が楽しければ、きっと相手も楽しくてハッピーになれると思っているからだ。
僕のこれまでの人生は、良い先生・良い先輩・良い支援者など様々な人脈や縁に恵まれてここまできた。両親を含めてこれまでの人生でかかわってきた人にはとても感謝をしている。
嫌でたまらなかった柔道も素晴らしい先生に出会えたこと、厳しい環境の中で自分を楽しませる要領を学んだことは大きかった。
柔道の道から警察官にならざるを得ない状況から最終的には警察官は辞めたが、警察との縁を切ってしまった訳ではない。
人と人との繋がりや建前と本音の世界を行ったり来たりすることの重要性という意味では、警察官になったことも良かったと思っている。
ビジネスは“数字”をつくるな “良い商品・サービス”をつくれ
事業家の僕には、色々なビジネスの相談や商品が持ち込まれる。
その時に、事業計画書といって「これだけの投資でこれだけの時間軸で回収ができて、何年後にはこれだけの収益になります」という数字を持ってくる人がいる。
ところが僕は、数字で事業を決めない。基本的に、どんな商品・サービスを扱ってもビジネスの仕組みや組み立てはみな同じだと思っている。
だから、僕自身がもっと本質的な感覚で納得できるビジネス、腹落ちした商品・サービスでないと手がける気にはならない。ロジックや数字ではないのだ。
そしてそれが、日本で初めてのサービスだったり他にはない商品だったりしたら最高だと考えている。
将来の夢
日本でカジノを「総合エンターテインメント施設」として認知させたい
僕には20年間「ハイローラー」としての実績があるが、実は縁があって昨年(2012年)11月にカンボジアのカジノホテルのオーナーになった。日本人で初めてである。
これまでカジノのプレイヤーであったのが、経営側に回ることになるとは思わなかった。
しかし、だからこそプレイヤーがカジノに求めるサービスの内容やクオリティを良く理解しており、また海外カジノで日本人独特の“おもてなし”の精神は優位性になると考えている。
事実、昨年オープンした僕のホテルのカジノは、早くも以前からある同じ地域のホテルを抜き、トップの集客と売上を上げている。
今やカンボジアはラスベガスを抜き、シンガポール、マカオに次いでカジノでは世界3位の売上を誇る国になっている。
日本でも20年近くカジノ構想が議論されているが、いまだに結論が出ていない。
日本における反対派の一番の懸念は治安の悪化だが、よく考えて欲しい。カジノのような大金が飛び交う場所の治安が悪かったら誰もお客さんが来なくなってしまい、早晩ビジネスとして成り立たない。
カンボジアもカジノ地域の最も外側は軍が、その次は警察が周囲を守っている。勿論、施設の内外も多数の監視カメラなどしっかりしたセキュリティが施されていて、政府による抜き打ちの査察も入るから不正なども起きようがない。
そんなナンセンスな心配をしているより、カジノがエンターテインメント産業として根付けば、日本の産業構造は変わり雇用も生み出すし、外貨獲得にも役に立つなど、メリットの方が大きいのだ。
日本各地でも自治体と企業が組んだカジノ誘致の動きはいくつもある。また、海外のカジノ運営会社へ出資というかたちで提携をおこなっている日本企業もある。
しかし、単に金を出すだけではなく、実際の海外カジノのオーナーになって運営までしているのは僕が初めてだ。
カンボジアでの収益をもとに、次の5年は経済成長目覚しいベトナムでカジノビジネスを展開する予定だ。
実際、カンボジアのカジノに遊びに来ているのはベトナムの富裕層の人たちである。
そしてその次の5年後で日本でカジノを「総合エンターテインメント施設」として認知させ、10年後にはひとつの立派な産業として確立していくきっかけをつくっていくことがこれからの僕の夢である。
■取材チームからの一言
この連載インタビューで取り上げている経営者は一人残らず、周りにポジティブな影響を与える「陽の気」を持っています。
実は、「陽の気」には2種類あり、春の暖かい陽だまりのように柔らかく周囲を包みこむ気と、夏の強い日差しのように浴びることでぐんぐん元気が湧いてくる激しいパワーを持つ気があります。
和田会長は、まさに後者そのもの。春の優しい陽だまりに万人が集まってくるというより、和田会長の周囲に集まる人々は、夏のように強いパワーを持った人たちが自ら“その先にある景色”を見ようと激しい引力によって求め合い、磨き合うという表現がぴったりです。
和田会長が20年ハイローラーであり続けるのも、運やツキの方から和田会長を求めてやって来ているようです。「チャンスの女神に後ろ髪はない」といわれますが、和田会長は人脈や縁に感謝し、大切にしながらも「去るもの追わず」「壊れた人間関係は修復せず」というポリシーを持っているのもその一端ではないでしょうか。
本のタイトル『勝つまでやめるな!』の実践は、ビジネスにおいても大変難しいことです。だから自分の楽しいことを仕事にするべきだと和田会長は言います。
たとえ厳しい状況でも、自分が好きなことだからこそ人は楽しい環境に変えることができ、本当に力が発揮できるのだそうです。
一回のカジノ滞在で1億~5億円の元手を使い、場合によっては一回の勝負で30億円を勝ち取るというハイローラーの世界や生活は、私たち普通のビジネスパーソンには経験も想像もできません。
和田会長は、「読者には『この世の中には面白い“おっちゃん”がおんねんな』と思ってもらえればいい」と軽く笑いますが、私たちビジネスパーソンが自分自身のビジネスのなかでもっと高みに登り“その先の景色”が見たいと願うのなら、和田会長の言葉にはしっかりと噛み締めるべき本質があふれています。
プロフィール詳細
プロフィール | 生年月日 | 1963年7月 |
---|---|---|
出身地 | 滋賀県ネバタ州 | |
血液型 | B型 | |
生活リズム | 平均起床時刻 | 午前8時 |
平均就寝時刻 | 午前5時 | |
平均睡眠時間 | 3時間 | |
平均出社時刻 | なし | |
平均退社時間 | なし | |
自己流 | ゲン担ぎ | 数字の「9」にこだわる |
集中法 | なし | |
リラックス法 | プヨプヨ(ゲーム) | |
健康法 | 我慢しないこと | |
休日の過ごし方 | DVDを観る | |
座右の銘 | 勝つまでやめるな!! | |
好み | 趣味 | 時計 |
好きなブランド | フランクミューラー | |
好きな食べ物 | 果物 | |
好きなお酒 | ワイン少々 | |
好きなエリア | 温かい所 | |
好きな色 | 白 | |
Voice | 秘書(社員)から一言 | 「人生なんてなんとかなるさ!」 会長のそばにいて、私が一番学んだことです。 |
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