老舗に学ぶ企業改革成功の理由
森下仁丹株式会社 代表取締役社長
駒村 純一 氏

老舗に学ぶ企業改革成功の理由 森下仁丹株式会社 代表取締役社長 駒村純一氏

森下仁丹株式会社 代表取締役社長 
駒村 純一(こまむら じゅんいち)氏

森下仁丹株式会社 代表取締役社長 駒村純一氏

著者プロフィール

1950年東京都生まれ。
’73年慶應義塾大学工学部卒業後、三菱商事株式会社入社。
’96年10月同社イタリア事業投資先Miteni社代表取締役社長に就任。
その後、’03年、執行役員として森下仁丹株式会社に入社し、’06年に代表取締役社長に就任。
老舗のブランド力を活かしたヘルスケア事業や、シームレスカプセルに代表される最先端のカプセル技術提供による共同研究・開発など、伝統の継承とチャレンジ精神を融合させることで見事に経営回復を遂げる。

執筆の動機

創業120周年の社史として ~直近の全社経営改革に対する取り組みの記録

【Akipli編集部から】
当サイトでは基本的に、経営者自身が自社または自分の人生について一人称で語っているものを取り上げている。
今回ご紹介する「老舗に学ぶ企業改革成功の理由」は、”取材協力”森下仁丹株式会社であり、当サイトの方針と趣きを若干異にする。
「仁丹」という商品や大礼服のロゴマークは、世代を問わず幅広い年齢層に認知されているブランドではないだろうか。年配の方なら懐かしいあの苦味と清涼感を、若い人でも商品は知らなくても看板やビル名くらいは耳にしたことがあるはずである。
しかし、残念ながら「仁丹」に対する多くの人のイメージは、前近代的なままストップしてしまっているのではないだろうか。実際に今から10年ほど前までは、経営自体もかつての勢いを無くし、次の成長の一手が打てないでいたのである。 その森下仁丹が、老舗ゆえのぬるま湯体質から脱却し、最先端技術企業へ生まれ変わろうとしている改革手法の数々は、”失われた20年”の中で元気をなくしている日本企業、日本のビジネスパーソンに大いなる示唆を与えるものである。
この本は、企業改革に大きなリーダーシップを発揮した駒村社長を中心に、マーケティング、技術開発、製造、営業、ブランディングまで、企業のバリューチェーン全方位から、階層的にもミドルから現場まで、多くの社員個人名を織り交ぜながら描かれている。

森下仁丹のHPやFacebookなどで社員一丸となって創業120週年を案内している
HPやFacebookなどで社員一丸となって
創業120週年を案内している

今年、森下仁丹は創業120周年を迎え、この本は森下仁丹120周年を記念する社史として出版された。一般的な社史ならば、ほとんど外部に流通することはない。
しかし、今回このような形での出版となったのは、森下仁丹が改革によって最先端技術企業として成長を遂げていることを120周年を機に広く世の中に知ってもらい、自社のブランディングとともに企業改革を目指す経営者・ビジネスパーソンの参考になればという想いがあったのではないかと思う。
リーダーシップを持って改革を断行したのは駒村社長であるが、この本は会社全体が変革していく痛みや苦しみ、その先の喜びを、敢えて第三者の目から客観的にかつ生々しく記録した社史になっている。
今回は、優れたリーダーシップを持って全社改革を断行した駒村社長にフォーカスを当て、その人となり・ビジネス美学についてお聞きした。

ヒット商品「銀粒仁丹」の誕生から一世紀以上たった今もなお成長をとげる同社の強さのヒミツ、それは「伝統を継承しながらも常に進化を求めるチャレンジ精神」にあった。一度は経営不安に陥った同社はいかにして復活を果たしたのか?「一粒のひらめき」から始まった経営改革の軌跡がここに。

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生い立ち

生い立ち

小学校時代 ~狭い東京下町の世界を出て、新しい世界を見るために

小学校時代
小学校時代

私は、東京の下町・神田で、住み込みの使用人のいる硝子製比重計・温度計を製造販売する家の息子として生まれた。
父が職人気質だったために、しっかりものの母が”おかみさん”として商売のことも家のことも仕切っているような家庭だった。
東京下町の暮らしといえば、隣近所みんな知った顔、また親類縁者も多いために細かいことも含めて色々な事が起きる。地理的にも狭い中で境遇も考え方も似たり寄ったりの人間が、日常的な(俯瞰してみればつまらない)ことで喜んだり、泣いたり、争ったりという環境は、非常に濃密な人間関係の中で目先にある意味だけで生きていく、いかにも庶民らしい生活だったといえる。
しかし私は小学生ながら、こんな現実のみに生きる非常に狭い世界に息詰まっていたところがあり、何とかここから出て広い世界を見てみたい、もっとインテレクチュアルに生きたいと考えていた。
普通にしていれば、中学校はそのまま区立に進学するところである。しかし、狭い世界から飛び出すため、私は私立中学に進もうと決めた。私には職人だった父とは違う人生を歩ませたいという想いから、母が教育熱心だったことも幸いした。
中学受験の結果、開成と慶應の両方に合格し、だいぶ悩んだ末に一貫校である慶應に進学することに決めた。一貫校の方が大学卒業まで自分の進路をじっくり考える時間もあり、その間に好きなこともできると考えたからである。

中学校時代 ~良い友達に囲まれて、良く学び良く遊んだ

中学校時代
中学校時代

今振り返ると、中学の時が一番楽しくて一番楽だっだと思う。勉強もスポーツ(柔道)もしっかりやった。
それぞれ趣味が違う友達が、お互いがお互いの趣味に付き合うことでグループで色々遊び、中学時代にしかできない経験を色々楽しむことができた。

高校時代 ~サッカーのゴールキーパーポジションが”俯瞰の目”を養う

当時あこがれのゴードン・バンクスロンドンワールドカップ英国チームのゴールキーパー
当時あこがれのゴードン・バンクス
ロンドンワールドカップ英国チームの
ゴールキーパー

小学生から自分の進路を考えているような子供ではあったが、高校生になると就職までを意識した今後の進路を考えるようになっていた。
大学への推薦学部は、高校3年間の成績で決められる。800人中上位29名に入れば医学部に、3~400名が工学部か経済学部に推薦してもらえることになっていた。入学当初、成績は悪くなく、頑張れば医学部推薦も可能だと思われたが、勉強中心の生活を続けていくのは何となく性に合わないと感じていた。
そんな時に始めたサッカーに夢中になり、結局勉強は二の次になってしまったため、医学部の芽はなくなってしまった。
ポジションはゴールキーパーで、神奈川県選抜にも選ばれた。ゴールキーパーは相手の得点(ゴール)を阻止するのが仕事だが、ゴール前で試合全体を眺める立ち位置にある。実際にピッチに立つと、後ろから相手チームと自チームの動き全体を把握しながら、ゲームの流れを組み立てていた。もともと子供の頃から広い視野を持つよう意識をしていたが、自分の人生も含めてより物事を俯瞰で捉える力はこの時に養われれたのではないかと思う。
勉強の方は理系(化学系)に興味があり、学年上位200名以内に入って工学部への推薦が決まった。

大学時代 ~高分子化学専攻から化学メーカーに就職するはずが・・・

慶應義塾日吉キャンパス
慶應義塾日吉キャンパス

中学3年間のみ三田の校舎に通ったが、その後の高校・大学6年間は日吉で過ごした。
2年間の教養課程では、就職も視野に入れてその後2年の専門課程の選択を考えていた。当時、工学系の新しいテーマとしては管理工学や計測工学が出てきていた。そちらにも興味がないことはなかったが、同じ頃に研究が開始されていた石油系(アクリル系)光ファイバーに興味があり、最終的には高分子化学研究室を選択することにした。
専門課程に進めば、2年で卒業するか大学院に進学するかを決めなければならない。もともと学研肌ではないので、大学院に上がっても途中で投げ出してしまいそうなことは想像できた。
そのため学部卒で化学メーカーへの就職を希望していたが、当時はオイルショックで採用を絞っていた時期であり、思いのほか内定をもらうのに苦労した。何とか大阪中心に展開している化学メーカーで1社内定をもらい、やれやれ一安心と思っていた時に、三井物産に内定した友達の話を聞く機会があった。話を聞くと海外を中心に事業展開を行っている総合商社の仕事が大変面白く思え、よくよく考えてみれば自分は化学メーカーに入って研究開発をやるタイプでもないし・・・と思い直して就職活動を再開することにした。
ところが既にタイミング遅く、当時”青田買い”を止めていた三菱商事の選考受付になんとか間に合った。
今でこそ総合商社は憧れの人気企業だが、当時は”商社不要論”や”冬の時代”と呼ばれおり、今ほど花形の業界ではなかった。
また、時代全体がそうだったのだと思うが、当時の採用選考は今に比べれば緩いものだった。面接と言っても、感覚としては2、3度会社に遊びに行ったくらいのイメージ。化学品の部長と話をしているうちに、「お前はいい!ウチに来い!」と言われ、人事からすぐ内定書が送られてきた。
さすが内定をもらったときには「これで海外に行ける!」とワクワクしたものだ。当然、化学メーカーの内定は辞退し三菱商事へ入社を決めた。

就職 ~何でもやってみることから”ゾクゾク”する仕事が見つかる

イタリア赴任時代
イタリア赴任時代

三菱商事では、新卒入社の2年間はインストラクターがつき、先輩に張り付いてアシスタント業務をこなしながら仕事を覚えていくシステムになっていた。
ところが私の場合、インストラクターが異動(海外駐在)になり、新しいインストラクターが補充されなかったために、2年目からは仕事を直接教えてくれる先輩がいない状況になった。
当時は規定の全社研修は別として、OJTはさながら徒弟制の様相であった。誰も親切には教えてくれない。自分なりに試行錯誤しながら苦労して仕事を覚えていった。
悪戦苦闘しながら良くわからない仕事や面倒くさい仕事もやっているうちに、”ゾクッ”とする瞬間がある。良くわからないけれど、この仕事を極めると何か面白いことが見えてきそうなことがだんだんわかってくる。そうすればシメたもの。没頭すればするほど、どんどん仕事のクオリティも上がってくるし、自分自身も興奮してさらにのめりこんでいくことで、結果的に成果が出るという良いスパイラルに入っていく。
海外事業の面白さに魅かれ商社に入ったからには、早々に海外赴任を狙っていた。それも出世コース王道の、ニューヨークかロンドンかデュッセルドルフ。まずはデュッセルドルフへの赴任がほぼ決まったものの、数ヶ月でミラノへの変更を命じられたときは正直ちょっとがっかりした。上司には「デュッセルドルフでお前の替えはいるが、ミラノはお前以外にいない」と説得され、しぶしぶ赴任することになった。
自分としては、本流の海外組から外れてしまったという想いがあったが、そこで”俯瞰の目”が自分を冷静にし、軌道修正にはどうしたらいいかを考えた。 どうせ外れたのだから、外れたところで敢えて目立つことをすれば注目度は上がるはず。イタリアオフィス全体のクオリティを上げれば、王道組よりもむしろ社内にプレゼンスを発揮することができる。そのためにこれまでよりも仕事を増やし、ミラノではがむしゃらに働いた。
自分の当初目標から外れたイタリア赴任が、今から振り返るとその後の人生・キャリアの大きなターニングポイントになったように思う。

早期退職 ~商社で”一丁上がり”のキャリアから”もう一旗”の人生を

イタリア赴任時代
イタリア赴任時代

7年間のイタリア駐在を終え日本に戻ると、本社として事業投資先企業の管理を任された。そして、たぶんその先にあるのは、再度イタリア赴任しその会社の社長の席ということもわかっていた。
自分としては、この時点でまだニューヨーク赴任の芽はあると思っていた。しかし、事業部門内のパワーバランスの関係でそれはかなわなかった。
予想通り46歳の時、数ある三菱商事の子会社の中で一番若い社長として、再度イタリア赴任が決まった。
赴任したからには、自分が社長をつとめる会社をいかに輝かせるかに全力を尽くした。イタリアが日本から感覚的に遠いということを逆手にとって、日本の管理に縛られず、こちらでしかできないことを極めようと考えた。
その会社は特殊領域であったフッ素化学を扱っており、ニッチではあるが他の追随を許さないほど特長的な企業に育て上げていった。
自分が社長をつとめている7年間に、この企業をある程度完成型にし、経営的にもエグジットの時期が来ていた。予想通り、本社からは帰任するようにとの連絡があった。
52歳になっていた私は、イタリアの地で社長の裁量として自由にやれるだけのことはやりきった想いと誇りを持っていた。同時に、日本に帰国して定年までの三菱商事内でのキャリアも見えてしまっていた。
この後、執行役員を狙えるかどうか程度のポジションで日本型の管理の中で使い回され、最後は国内子会社の社長をつとめて60過ぎにリタイアしたら完了というのがお決まりのコースである。
当時ちょうど社内では、早期退職者の募集がかかっていた。私は最後の最後まで悩んだ末、募集期間最終日の日本時間の夕方に、イタリアから早期退職に応募するメールを送った。
当然社内では大騒ぎとなって引き留めにもあった。しかし、次の人生は自分で決めたいとの想いから、私の気持ちは変わることはなかった。

森下仁丹へ ~不退転で望んだ老舗企業改革

就職活動の中で、最終的に森下仁丹への入社を決めたのは、

  1. 老舗として圧倒的なブランド力がある
  2. 一方で、外部から来た人間がこれだけ弱体化した会社の建て直しに成功すれば注目されるという功名心
  3. 三菱商事時代に事業投資先を黒字転換させる経験は何度か経験している

という魅力と自信があったからである。ある意味、軽い気持ちで入社を決めたと言ってもよい。
しかし、実際に入社してみるとそんなに生易しい状況ではなかった。そこは持ち前の胆力と合理的な思考で「入ってしまったらやるしかない」「やるしかないならどうすれば良いか」を考えることにした。
入社後しばらくは社内を良く観察し、改革の阻害要因になりそうなものを見極め、それを取り除くにはどうしたら良いのかを徹底的に考えた。
まずは地ならしのために、人材面で外の血(中途採用)を積極的に入れることから始めた。既存の社員にとって、これは地ならしどころかかなり大きな刺激になった。
ここまで森下仁丹を再生させた様々な打ち手については、是非、本を手にとっていただきたい。

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ビジネス美学

ビジネス美学

初志貫徹と有言実行

「不言実行」という言葉があるが、私はこの言葉は好きではない。何も言わずにことを成し遂げても評価されないことがとが多いし、ことを成し遂げなければ評価されないと同時に何も変わらない。だから私は「初志貫徹」するために「有言実行」が重要だと考えている。
まず目標を立てて(有言)から、それを実現する道筋を考える(実行)。”いつごろまでに・何を”が先で、”どうやって”は後から考えれば良い。
思えば、小さい頃から少し上・少し先をイメージし、それを実現しようとする思考パターン・行動パターンの訓練ができていた。それが年齢とともに時間軸・スケールがだんだん大きくなり、ここまで自分の人生を作り上げてきた基軸になっている。

感性を信じて新たな発見のある場所に出かける

飲み会でも何かの集まりでも、参加予定者の顔ぶれを見てゾクゾクすることがある。また、テーマ的にはあまり興味のなかった仕事でも、これはという人が関わってくることが分かると俄然モチベーションが上がってくることもある。
特に、新たな出会い・新たな発見があるところには積極的に出かけるようにしている。意識してしているというよりは、ゾクゾクくると、取るものも取りあえず駆けつけたくなるほど感性や本能で心がソワソワしてしまうのだ。
結果として、付き合う人は選んでいることになる。一方で、こういう感性だと、時には裏目に出たり、思慮が足りないと言われたりもする。しかしこの歳になればちょっとやそっとのことでは動じなくなった。それよりも、感性を大事にした新たな発見・刺激を大事にしていきたい。

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将来の夢

将来の夢

シームレスカプセルの可能性を追求し、認知度を上げる

高い技術力を誇る森下仁丹
高い技術力を誇る森下仁丹

当社の優位性のひとつであるシームレスカプセルは、受託事業の比率が高い。様々な可能性を秘めている魅力的な技術にもかかわらず、BtoBのビジネスである上に、受託事業ゆえ守秘義務の関係から具体的な事例をご紹介することが難しい。
オープンにできないのが本当に残念だが、既にこれまで名だたる企業と良く知られている商品の製造においてコラボレーションを行っている。許されるならこの企業のこの商品も、あの企業のあの製品もウチの技術を使っているとふれて回りたいくらい、この技術に自信を持っている。
受託事業によるコラボレーションはこれからもさらに広げていきたい。地味ではあるが論文や特許を出すことでコツコツと実績を積み上げていく。
また、セグメント会計もスタートさせたので、個別の企業名や商品・製品名を出せなくても受託事業の業績が大きくなっていけば、認知度、注目度は上がっていくだろう。

さらに上を目指し、次の世代に継いでいく

社長なって7年目となり、ここまで企業改革を進めてきた。業績的にも前年度の決算では、売上高ほぼ100億円に達することができた。
しかし、ここからが難しいと思っている。さらに森下仁丹を磨き上げ、上を目指していかなければならない。
そして、私の最終的な役割は、経営を私の次の代へ継いでいかなければいけないことだ。そういう人材が社内にいるのか、どうやって育てていくのかということが今後の大きな課題でもある。
森下仁丹は、”土台”が「製品」だとすれば、”梁”が「管理職」、”柱”が「経営幹部」といったところか。うーん、これはもうちょっと整理しないといけないな。

■取材チームからの一言

プロモーション代表 菅原と
プロモーション代表 菅原と

駒村社長のキャリアのスタートは、ご出身の下町=「狭くて現実中心の世界」から抜け出したいという幼い頃の想いでした。
実際に、慶応⇒商社⇒海外(イタリア)と文字通り世界を広げ、今は120年企業を先端技術企業へと変革させるリーダーシップを発揮されています。
取材でお話をお伺いしていると、江戸っ子らしい洒脱で粋でいなせな面と、本格的に海外経験を積まれた日本人とは異なる感覚の両面が見え隠れします。
また、もともと理系ということもあり、現在は経営者というお立場から非常に合理的かつ俯瞰で物事をとらえつつ、”ゾクゾク”感や”勝負”勘といった論理性とは別の感性や好奇心も大事にされているという両面もお持ちです。
「下町vs.グローバル」「合理性vs.感性」と、一見対立する素養をお持ちでありながら、実は「伝統の尊重」「研ぎ澄まされた感性」「スピード感」「勝負へのこだわり」などと言った面では本質的に共通するものがあるように思います。
森下仁丹は、「仁丹」という商品力とブランド力の圧倒的な強さが、変化の時代にはかえってあまりにも重い”足かせ”になってしまっていたと言えます。 社内に醸成されていた単一で均一な価値観の重い”かせ”を打破し、駒村社長が改革に成功したのは、単に外部から来た人間だったからではなく、ご出身も含めたキャリア全体に一貫して流れるものが、まさに変革の時代に求められるリーダーに必要な本質的な要素であったからだと思います。
現在の森下仁丹は、Facebookやブログなども活用し、マーケットに対するメッセージ発信も積極的に行っています。本と同様にこちらにも多くの社員が固有名詞で登場しています。森下仁丹の改革は駒村社長一人によって成し遂げられたのものではなく、全社員参加型で取り組み、伝統を継承しながら新しい企業に生まれ変わろうとしていることが、ここからも伺えます。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 1950年5月3日
出身地 東京都
血液型 B型
生活リズム 平均起床時刻 午前7:30
平均就寝時刻 午前0時
平均睡眠時間 7時間
平均出社時刻 午前8:45
平均退社時間 午後8:00
自己流 ゲン担ぎ 特にナシ
集中法 特にナシ
リラックス法 適度な飲酒、入浴
健康法 入浴、ストレッチ
休日の過ごし方 音楽鑑賞、映画鑑賞、散歩
座右の銘 有言実行、初志貫徹
好み 趣味 スポーツ観戦、ゴルフ、音楽鑑賞
好きなブランド 特にナシ
好きな食べ物 トンカツ、蕎麦
好きなお酒 ウイスキー
好きなエリア 欧州
好きな色 ブルー(紺)
Voice 秘書(社員)から一言 社内のだれよりもスピードとパワーのある社長です。これからもぐいぐい社員をひっぱっていってほしいです。

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