風を起こす 社員の鍛え方
メディキット株式会社 代表取締役会長
中島 弘明 氏

メディキット株式会社 代表取締役会長 中島弘明氏

メディキット株式会社 代表取締役会長
中島 弘明(なかじま ひろあき)氏

メディキット株式会社 代表取締役会長 中島弘明氏

著者プロフィール

メディキット株式会社 代表取締役会長。
1935(昭和10)年、宮崎県日向市生まれ。
中央大学経済学部卒業。証券会社、医療機器メーカーを経て1973(昭和48)年メディキット株式会社を設立。
代表取締役社長を経て、2010(平成22)年より会長就任。
2015(平成27)年6月にスカイネットアジア航空株式会社 取締役就任。

執筆の動機

80歳を機に、ビジネス人生の集大成として変化の時代を生きる後進へのメッセージ

実は、今回が3冊目の出版になります。

1冊目の『自立型人間へのすすめ』は、毎週月曜日朝8時半に行う朝礼で、社員に向けて語った私の想いや若い時の経験をまとめたものです。その時は知らなかったのですが、実は、総務課長が毎回私の話を書き留めておいてくれたのです。せっかくですから、社員教育のためにその記録を本としてまとめることにしました。

一貫して自立型の人間を目指す内容になっていると原稿を読んだ方がおっしゃってくださり、本のタイトルにしました。最初は15年前に出版したものを、3年前に文藝春秋社から復刻しました。

2冊目の『これでいいのか?』は、3年前の当社創業40周年記念の一環として、社史と一緒に同じく文芸春秋社から出してもらった、言わば自伝的な本です。タイトルの『これでいいのか?』は、私自身に向けた若い時からの自戒の言葉です。
常に現状に満足することなく、自己否定をおそれずに自ら進化するために自分自身に問いかけ続けている言葉です。当社の工場のいたるところにもポスターにして貼られているので、これを見かけた出版社の方が「そのまま今回の本のタイトルにしましょう」と提案してくれました。

厳しくも家族主義で会社と社員を育てる中島氏
厳しくも家族主義で会社と社員を育てる中島氏

私は5年前に社長の座を譲っていますが、今回の出版については当社社員や栗田社長からの強い要望とダイヤモンド社が地元の宮崎まで提案に来てくださった熱意に押され、3冊目となりました。 ちょうど80歳を迎えたことを機に改めて私の人生を振り返り、ビジネスへの取り組み方や経営者、さらには人間としてのあり方についてまとめました。計らずも、先に出版された『自立型人間へのすすめ』に対する回答編のようになっています。 私自身、突出した特別な才能のある人間だとは思っていません。今の若い人たちとは生きてきた時代も異なります。それでも次の世代の人たちに諦めずにやり続けることの大事さを理解していただき、これからの人生の一助となれば嬉しく思います。

会社は人生の敵か、味方か?
大企業がひしめく医療機器業界で、トップシェアを走り続けるメディキット。
同社を起業し、上場を成し遂げた著者渾身の指南書登場!

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生い立ち

生い立ち

幼少期・小学校時代 ~幼い私に輸出による外貨獲得の重要性を説いた父

中島会長5歳の夏
中島会長5歳の夏

私は昭和10年(1935年)、宮崎県日向で6男1女の長男として生まれました。父は熊本出身の技術者で工場長をしていました。 昭和12年には日中戦争が始まり、私の幼少から高校までは戦前・戦中の時代でした。

まだ私が幼稚園生か小学校に上がったばかりの頃だと思います。父は私に「日本は貧乏な国だから、豊かな国になるためにはアメリカからお金を持ってこないと駄目なんだ」「アメリカの1円を買うためには、今の日本は2円40銭も出さなきゃならないんだから」と言い聞かせました。もちろん、当時の私に理解できる訳がありません。それでも父は、幼い私に向かってたびたび外貨獲得の重要性について語ってきかせました。 幼い時の刷り込みは影響力が強いものですね。私がメディキットを創業してからすぐに、海外に向けて輸出を始めたのは、この時の父の教えが身体の奥深くに浸透していたからだと思います。

終戦の年になると、飛行場のあった日向にもとうとう空襲のおそれがあり、小学校(当時は国民学校)3年生の時に母の故郷である東郷へ学童疎開することになりました。その東郷で、中学校卒業までを過ごすことになります。

中学校時代 ~クラス中からお弁当のおかずが集まる中心的存在

当時の面影が残る美々津川の風景
当時の面影が残る美々津川の風景

今はどちらも同じ日向市になっていますが、疎開先の東郷の方が田舎でしたから、子どもたちは皆裸足で歩いていした。私は砂利道が痛くて歩けず、最初は“あしなか”という短い草履を自分で作って履いたりしていました。ところが子どもの適応力はすごいものですね。そのうち裸足も平気になり、いつの間にか仲間の中でガキ大将になっていました。 学校の帰りは、友だちとワイワイ言いながら美々津川にかかる旧東郷橋のあたりから川を泳いで下校していました。また、橋の欄干の上を川に落ちないように一気に走りぬける競争なんかもしました。

そういえば小学校3年生までずっと当時のお昼は各自がお弁当を持ってきていたのですが、私の家はそれほど裕福ではありませんから、おかずは何か1品と梅干くらいのものです。ところが昼食の時間になると、クラス中の友だちから私のところ少しずつおかずが集まってきて、いつの間にか豪勢なお弁当になってしまうことがありました。これを見ていた先生が「勉強はできるが行いが悪い」と評価されたので、現在の“道徳”に近い“修身”という課目の評価が「優」ではなくいつも「良」止まりだったので、級長にはなれませんでした。

高校時代 ~名監督の下、野球に打ち込んだ3年間

戦争が終わって日向に戻り、富島高校に進学しました。 足が速かったので最初は陸上競技部に入部しましたが、野球部からの強い勧誘を受けて野球部に入りました。 のちに、初めて宮崎商業を甲子園に導いた新名先生が野球部の監督でした。新名先生は大学卒業後、社会人野球の宮鉄(旧国鉄宮崎鉄道)で活躍されていた方で、富島高校には初めて教員と監督として赴任してこられていたのです。 新名監督の下、富島高校の野球部はぐんぐんと実力をつけていた時代でした。高校時代は野球に打ち込んだ毎日でした。

当時は、東九州エリア(大分・宮崎・鹿児島)で甲子園出場校は1校という狭き門です。宮崎県代表として勝ち進んだ我が富島高校は、東九州大会の準決勝で鹿児島実業と対決することになりました。結果は5対3で惜敗し、残念ながら甲子園には手が届きませんでした。 新名先生は文武両道を目指す先生で、勉強がおろそかになっている部員には自宅で個別指導もしてくださいました。 私はそこまでではなかったものの、やはり普通の学生に比べ勉強量が足りなかったためか、浪人したのちに大学に進学しました。

大学時代 ~父の薦めで経済学部へ

お世話になった「日向寮」
お世話になった「日向寮」
寮友との記念撮影で、前列右から5人目が中島会長

7人兄妹の中で大学まで進んだのは私だけでした。長男主義が色濃い九州ゆえ、両親も私自身も、将来は私が弟妹の面倒を見るものだと考えていました。そのためには、技術が身につく工学部への進学を考えていたところ、父が「技術者は駄目だ。経済学部に行け」と言うのです。父に「経済学って何?」と聞いてみたところ「経済学とは世の中の分からないことを学ぶ学問だ」と教えてくれました。経済学部に行けというわりには随分いい加減な答えですが、幼い頃から私に日本経済強化のために外貨獲得の重要性を説き、父自身は技術者でありながら、人に聞いた話から何となく“商売”や“経済”の重要性を感じていたのでしょう。

最終的に、比較的学費の安かった中央大学を受験することにしました。中央大学なら有名な法学部もいいなと考えていたのですが、こちらも父に「法律は明治以来出来上がってしまっている学問だ」と反対され、経済学部に進学することになりました。
当時、日向の篤志家がお金を出し合って作った「日向寮」という地元出身者けの学生寮が千葉県の稲毛にありました。私もこちらで大学卒業までお世話になりました。鉄筋3階建てでグリーンの外壁が当時としては大変ハイカラで、皆「マンション」と呼んでいました。

柔道やレスリングをやっていた寮友と一緒に、肉体労働系のアルバイトをよくしました。寮から近かった製糖会社の工場では、倉庫から砂糖を運ぶ時、普通なら一俵40キロずつ担ぐところを私たちは二俵80キロいっぺんに担ぐことができました。会社の人からは「君たちはいつ来て働いてくれてもいいよ」と重宝がられたものです。確か当時デパートでのアルバイトが時給270円だったのに対し、製糖会社での時給は340円で割が良かったこともあり、私たちも喜んで働きました。

就職・入社動機 ~松下幸之助の言葉が諦めないビジネス人生のスタート

新卒で証券会社に入社した頃
新卒で証券会社に入社した頃

大学ではせっかく経済学を学んだので、就職は証券会社を希望しました。当時4大証券と呼ばれていた野村・大和・日興・山一證券を受験するためには先に学内選抜があって「優」が30個以上なければ推薦できないというルールになっていました。残念ながら私は28個でわずかに足りず、4大証券へのチャレンジはかないませんでしたが、野村證券直系で中堅上位クラスの光亜証券(後に合併して国際証券、今は三菱UFJモルガン・スタンレー証券)に入社しました。 中央大学の経済学部は、古典派やマルクス経済学ではなく需要と供給のバランス原理で考える近代経済学が中心だったので、証券マンになって、資本主義の社会や仕組みを実際に体感することが出来ました。

証券マン時代、お客さまを案内して証券会館で行われた創業者講演で松下幸之助さん(現パナソニック創業者)の話を聞く機会を得ました。 その時に松下さんは「私はこれまで一度も失敗をしたことがない」とおっしゃったのです。私は「まさかそんなことがあるはずがない」と思いました。ところが松下さんは続けて「それは何事も成功するまでやり続けるからです」と種明かしをされました。それを聞いて「そうか!成功するまでチャレンジし続ければ、結果として失敗はないと言えるんだ」と非常に強く納得したことを鮮明に覚えています。

それからは、零細企業・個人商店が多く株に興味のあるお客さまは少ないからと人気のなかった下町エリアを、2,3ヶ月で靴を履き潰すほど歩き回って営業しました。一度で上手くいかなくても何度も足を運び訪問を続けることで、2年後には上位支店の成績を収めることが出来ました。「諦めずにやり続けること」「人の行かない道を行く」この2つが今思えば私のビジネス人生にとって大事な気付きになりました。

起業まで ~医療機器のカテーテルとの出会いで社会的使命を感じる

創業当時の工場
創業当時の工場

証券マンとしてそれなりの成果を上げ評価もされていた一方、市場や相場という目に見えない大きな力に翻弄される世界では、自分一人の力では太刀打ちできない無力感にもとらわれはじめていました。 そんな時、以前からお世話になっていた証券会社の役員の方から、ある企業が新規事業を立ち上げるのでその顧客開拓に力を貸して欲しいとの話をいただきました。

それが私と医療の領域で使われるカテーテルとの出会いになりました。この時も日本中の大学病院をくまなく回りました。当時はフルブライト奨学金でアメリカに留学していたことのある医師も多く、彼らから「アメリカの医療製品はすごい」という話を良く耳にしました。 それならば、先進国アメリカの現場を視察をするしかないと思い、商社に勤める友人のツテを頼って5社ほどのメーカーを訪問しました。昭和45年(1970年)のことです。

ある会社は山の上にあり森の中にも工場がありました。聞けばこれが「クリーンルーム」の為だと言います。精密な医療機器を製造するために、粉塵を除去するためのフィルターを備えた壁が設置されており、空気が清浄な森の中ではこのフィルターの交換期間の長さが全然違うためです。クリーンルームを備える工場など初めて目にしました。おそらく日本人でアメリカの医療機器メーカーの工場を見学するのは私などが最初の方だったと思います。今では考えられませんが、視察した会社や工場の人たちは何でもオープンに説明してくれ、設備を見せてくれました。
そして現在、当社が東南アジアからの視察を受け入れるときには、工場の中もラインもすべてオープンに見てもらうようにしています。当時アメリカのメーカーで親切にしてもらい、当社がここまで成長できたのですから、今度は同じアジアの国のメーカーに対して恩返ししたいという気持ちです。

視察前の日本の大学病院で日本の医療現場の穿刺針やカテーテルが技術的にいかに立ち遅れ、また数量的にも逼迫しているかを実感していた私は、この分野が非常に社会的価値の高い領域だと確信しました。 また、アメリカで森の中にある工場を見た時、学童疎開で過ごしたあの東郷町に自社工場を建てることが具体的にイメージできたのです。 そうして帰国後の昭和46年(1971年)、メディキットの前身である「中島医療用具製作所」を立ち上げました。

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ビジネス美学

ビジネス美学

諦めない 何が何でもやり続ける

社会人駆け出しの頃に聞いた松下幸之助さんの「成功するまでやり続ける」という言葉に気付きを得てから、ビジネスではずっと諦めない心を持ち続けています。

思い出せばそれより前に高校時代に出会った野球部監督の新名先生からも影響も受けているように思います。先生は「野球は2アウトからだ」と言っていました。負けている試合で最終回2アウトになれば、普通は勝ちを諦めてしまうでしょう。ところが当時強豪校と言われた高校との試合で、実際に2アウトから逆転勝利したことがあったのです。これをきっかけに、やっぱり勝負は最後まで諦めてはいけないということを身にしみて理解しました。

最初は信じていなくても、諦めなければ良いことがある経験を1回2回と重ねていくと、人間はだんだんと継続する力を信じるようになります。そうするとさらに努力しようという気持ちになり、ポジティブなサイクルが回り始めるのです。また、諦めない人間が増えれば全体がそういうムードになり、組織にも良い影響が出てきます。
「諦めない!」というと悲壮感が漂ってしまいますが、私の諦めないというポリシーは、諦めずに続けていれば必ず「何とかなる」というポジティブさでもあります。 私は過去を振り返らない人間です。失敗した過去は取り返しがつかないからです。それなら「前を向こう」と思います。そんなに難しい考え方ではありません。

当社では研究に10年間近い時間をかけたものの、かつて実現できないと思われた製品があります。当社の成長のきっかけとなった一体型血管留置針『ハッピーキャス』をさらに進化させた血液が洩れない止血弁付き留置針です。止血弁として付けたゴムにどう改良を重ねても血液の洩れや逆流が防げず、さすがの私でも一度冷却期間を置こうということでいったんお蔵入りにしていました。

ところがある日、2人の若い開発技術者が「あれ、出来ましたよ」と言うのです。コロンブスの卵的発想とはこういうことを言うのですね。止血弁のゴムを天然ゴムから合成ゴムに替えたことが大きな決め手でした。かつての試行錯誤の記録でもある開発書に若い技術者が何とはなしに目を留め、新しい発想で不可能から可能への川をやすやすと飛び越えてしまいました。時代がくだって止血弁に使えるほど合成ゴムの品質が良くなったということもありますが、そこまでには諦めずにやり続けた積み重ねがあるからです。

止血弁付き安全留置針「スーパーキャス」
若い開発者による発想の転換で実現した
止血弁付き安全留置針「スーパーキャス」

2001年に製品化されたこの止血弁付き安全留置針『スーパーキャス』は世界初の製品で、現在当社の稼ぎ頭となり国内では、50%に近いシェアを誇る製品に成長しています。当社の諦めない力が実を結んだ一つの成功事例です。

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将来の夢

将来の夢

社員全員に100万円のボーナスを払える企業に

この本にも書きましたが、私は当社を業界一の高給を出す会社にしたいと思っています。また、社員全員に最低100万円のボーナスを払えるようになりたいと考えています。 そのためには、性別・年齢・勤続年数にかかわらず能力のある社員が報われる仕組みにしなくてはなりません。 工場の中途採用は全員準社員からのスタートですが、正社員登用にあたっては試験を設けています。これに合格しなければ在籍年数だけでは正社員にはなれないのです。しかも試験の受験資格は5回までです。中には当社に勤めている夫婦で、奥さんは2回目で合格し、旦那さんは5回目で合格ということもありました。私としてはさすが夫婦仲を心配していまいましたが、本人たちは「大丈夫です」というので少し安心しました。 昇進についても、例えば工場では生産士1級を取得すると課長というように資格に基づいて評価しています。納得感ある評価制度は、やはり見える形でなければならないと考えているからです。評価の見える化には試験や資格が一番分かりやすいのですが、勉強中心の試験結果だけに偏向していては仕事の評価としては意味がありません。そこで、今後は勤務評価50%に試験結果50%を加味して評定していこうと上の人達と話しています。

社員旅行
社員は家族
社員旅行も大勢で

当社には女性社員も多く勤めています。女性は真面目で優秀な人が多いですね。細かいところにも気が付くので、会社の中のこともよく見ています。クリーンルームに入るためには、専用の靴に履き替えます。以前の出来事で、私が工場用の靴に足を入れてみると何だか足の裏がゴソゴソする。靴の中に手を入れると私宛ての手紙が出てきました。手紙には工場での業務改善事項が書かれていました。おそらく意識の高い女性が私に直訴してきたのではないかと思います。その一方で、女性は男性と同じ生産士1級を持ちながら課長になっていませんでした。これではいけないと思い、出来ればこれからは男性の係長の隣には女性の係長を、男性の課長の隣には女性の課長というように、同じ役職に必ず男女をつけて仕事をさせるようにしていったらよいと思っています。

入社式の記念写真
入社式の記念写真
新卒社員も次々と入社してくるように

会社への貢献度や能力で正当に評価される会社であれば、社員はさらに努力をして自分自身を成長させようと考えるでしょう。その時、当社が業界一の給与やボーナスを支給できれば、優秀な社員がさらに給与の高い他社へ行ってしまうことはなくなり、長く当社で働いてくれることになります。私はいつも、仕事は自分の為に働け、妻子ある者は妻子の為に働けと言っております。

■取材チームからの一言

プロモーション代表 菅原と

80歳とは思えないお顔つやの良さと終始キレの良い口調でお話をいただきました。 お話を伺う側の私たちに対し、まるでこちらの話を興味深く聞かのように目を輝かせ、時々身を乗り出しながら、これまでのご苦労とこれからの夢を語ってくださいました。 同時にお話の端々で「私は大したことはしていない」「そんな大げさなことじゃない」と謙遜される姿が印象的でした。

中島会長直筆サイン
創業当時、社員にきれいな字の書き方から
指導していたというだけあって達筆

お話や著書に書かれている内容からは、きっと第一線で社員教育をしていらっしゃった頃は、非常に厳しい社長でいらしたことも想像に難くありません。 しかしそこには、大企業における一般的な合理的経営者のドライさとは違う、「温かさ」に裏打ちされた厳しさ、日本の古き良き強い「父親」像を経営者として体現されていらっしゃるように感じました。

中島会長ご自身、日本が大きく変動した戦前戦後の時代を生き抜き、メディキットの経営者として厳格でありながら、いつも家族主義で前線を走り、会社と社員を守っていらっしゃいました。その結果として、今ではグローバルでも優位性が認められ、トップシェアを誇る製品を生み出す企業にまで成長されたのです。 古き良き時代を懐かしむ単なる懐古趣味ではなく、地方発グローバル企業の成功モデルとして日本らしい理想的な経営者のひとつの姿ではないかと感じました。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 1935/7/21
出身地 宮崎県日向市
血液型 A型
生活リズム 平均起床時刻 午前5時
平均就寝時刻 午後10時
平均睡眠時間 7-8時間
平均出社時刻 午前9時-10時
平均退社時間 午後4時-5時
自己流 ゲン担ぎ 自分に都合に良いことのみを思いつづける
集中法 散歩、会社通勤時歩く時(深呼吸)
リラックス法 いつもリラックスしている
健康法 早寝早起き
休日の過ごし方 読書又はゴルフ
座右の銘 脚下照顧
好み 趣味 ゴルフ
好きな食べ物 カツ丼
好きなお酒 飲まない
好きなエリア 静かな所

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