ハートで感じたら走り出せ!
株式会社NTTぷらら 代表取締役社長
板東 浩二 氏

株式会社NTTぷらら 代表取締役社長 株式会社アイキャスト代表取締役社長 板東 浩二氏

株式会社NTTぷらら 代表取締役社長
板東 浩二(ばんどう こうじ)氏

株式会社NTTぷらら 代表取締役社長 株式会社アイキャスト代表取締役社長 板東 浩二氏

著者プロフィール

1953年生まれ。
株式会社NTTぷらら代表取締役社長。
株式会社アイキャスト代表取締役社長。
1977年、日本電信電話公社(現NTT)に入社。
NTTでは電話交換機の設計・導入・保守ならびにネットワークの構築に従事。
九州支社ISDN推進室長、マルチメディアビジネス開発部担当部長などを歴任し、1998年6月に現職就任。

執筆の動機

300万会員突破を節目に、新たなビジネスパートナーと社員の士気に事業ビジョンを訴求

ひかりTV

今年(2015年)の2月に、当社の「ひかりTV」(スマートTVサービス)は300万会員を突破しました。当社が映像事業に乗り出したのが2004年。わずか10年で日本最大のスマートTV事業者になることが出来ました。この間の技術革新のスピードもさることながら、これは全社一丸となって走り続けた結果だと思います。
ただし、300万会員は当社にとって一つの節目であり、「スマートTV」サービスに向けたスタートラインに立ったばかりだと考えています。
それでもこの節目を機に、これまでの当社の取り組みをまとめておきたいと思いました。
その目的は大きく二つあります。
一つは、今後の当社のさらなる成長・ビジネスの展開を視野に入れたときに、当社のビジネスの考え方や内容に賛同していただき、アライアンスを組みたいというビジネスパートナーを募ること。
もう一つは、社員が死ぬような思いをして成し遂げた「ひかりTV」300万会員と言う結果を、NTTグループにおける初めての映像事業の成功事例の記録として残し、その努力と成果を称えることにあります。
実は、NTTグループは昔から映像事業は好きで、電電公社時代のCAPTAINサービス(電話回線を通じて映像含むデータを送受信するサービス)に始まり、いくつもの事業・サービス化が試みられました。ところが残念ながら、その多くが事業化できなかったり、花開かぬままサービス終了となってきています。このような歴史の中で、今や「ひかりTV」は名実ともにNTTの稼ぎ頭の一つに成長しました。
この本の出版を機に、当社社員のモチベーションがさらに上がることを期待しています。また、NTTグループから出向してきている社員にも、当社のビジネスに対する考え方とこれまでの取り組みを知ってもらいたいと思います。

ひかりTV300万会員突破!国内初4Kサービス!
「あの板東社長率いる会社がここまで成功したのは、同級生だった私からすると正直驚きだ(笑)。
なぜここまで事業を拡大できたのか、大変興味深い」
ノーベル物理学賞受賞 中村修二博士

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生い立ち

生い立ち

幼少期 ~明日は必ず今日よりも良くなると信じ、皆が輝いていた時代

私は、昭和28年に徳島の田舎で生まれました。
物心がついて最初に幼い記憶があるのは、幼稚園から小学校に上がる頃です。
当時を思い出すと、周りには子どもたちがたくさんいて、自分も含めてみんな汚い格好をして、いつもお腹をすかせていたように思います。まだ、どこの家も子どもが多い時代でした。私も3人兄弟の長男です。
それと同時に、子どもにも大人にも笑顔が多く、皆、目が輝いていたように思います。貧しいながら、今日よりは明日、明日よりは明後日と、毎日毎年が良くなっていくことが実感でき、将来の成長を信じられた時代でした。
そのような明るい雰囲気の中で、私は妹や弟を含め、年下の子どもたちを集め、ガキ大将的な存在で面倒をみたり遊んだりして過ごしていました。

小学校・中学校時代 ~劣等感と不安にさいなまれた思春期

子どもから大人への過渡期
子どもから大人への過渡期

スポーツは苦手ではありませんでしたが、団体競技の球技は嫌いでした。
また、足もそんなに速くなかったため、全員で競走させられる「かけっこ」が大嫌いで、運動会が近づいてくると、毎年ものすごくユウウツになったことを覚えています。
一方、器械体操は得意で大好きでした。ちょうど、小学校5年生のときに東京オリンピックがあり、体操競技で優秀な成績を上げた日本が“体操ニッポン”と呼ばれていた頃です。跳び箱やマット、鉄棒を中心としたスポーツ検定では、一級もとりました。
ところが、小学校高学年ぐらいになると子供から大人への過渡期で、無邪気な子供の心から精神的に複雑さが増してくる時期です。
親を除いて、小学生にとって大きな影響力を持つ大人は、担任の先生でしょう。私の担任は大変厳しい指導をする人で、ことあるごとに「だからお前は駄目なんだ」「どうして出来なんだ」と言われ続けているうち、すっかり自信をなくしてしまいました。そのせいで、小学校低学年までのガキ大将の面影は鳴りを潜めてしまいました。 中学校に上がると、軟式テニス部に入りました。入部してみたものの、先輩は偉そうにしているし、ラケットも持たせてもらえず、毎日吉野川を走らされるばかりで、1週間で辞めてしまいました。
実はこの後も大学生のときに、武道なら大丈夫だろうと合気道部に入りました。ところが、部内での先輩・後輩の関係があまりにも理不尽で、これも2週間で辞めました。
この時から、組織の中でちゃんとやっていくようなタイプではなかったのかもしれませんね(笑)。 中学2年生になると高校受験にも大変不安を感じ、徳島県で一番の進学校を受験することを疑わない両親の期待を思うと、胸がつぶれるような思いをしていました。
そこで中学3年生のときは、学校の授業以外に一日8時間みっちり本気で勉強しました。買ってきた参考書を一晩で読破・解答したこともあります。おかげで、一気に成績はあがり、第一志望の安全圏まで順位を上げることが出来ました。ここぞというときの瞬発力は、若い頃からあったと思います。

高校時代 ~進学校で周囲の成長のスピードに悩む

ところが、県下一の進学校に進んでみると、自分より頭の良い学友に囲まれてまたもや劣等感を抱くことになりました。
中学から高校にかけては、身体も頭も成長のスピードに個人の差が大きく出る時期です。私はどちらかと言えば奥手のタイプで、ぐんぐん成長する周囲の友だちを見て、引け目を感じてしまいました。
当時は東大・京大含め難関大学に100名以上進学していた学校でしたが、勉強に対する意欲までなくしてしまい、成績は学年で中の中から中の下くらいまで下がってしまいました。
私の両親は普通のサラリーマンでしたし、妹と弟もいたため、県外の大学や私立大学に進学することは経済的に難しいことは分かっていました。
そこで、得意な理系教科や英語を生かし、地元の徳島大学工学部を受験することに決め、無事合格しました。

大学時代 ~就職難の時代、持ち前の瞬発力と運の力でNTTに内定

大学ではほとんど授業に行かず、パチンコやマージャン、ドライブやデートばかりしていました。試験をさぼって愛媛の石鎚山に行ったこともあります。
しかし、3年あまり毎日遊んでばかりいると、さすがに、「これでいいのか、何かしなければ・・・」という想いに駆られるようになりました。いろいろ考えた結果、「そうだ、英会話を勉強しよう!」と思いつきました。これから世界との交流が広がっていけば役に立つと考えたからです。そして、徳島市内で英会話をスクールを探しましたが、残念ながら当時田舎の徳島には英会話スクールは一軒もありませんでした。
この時から、早く就職して刺激の多い東京で働きたいという想いが非常に強くなりました。そして就職の心配もするようになりました。 私が大学に入学した年(昭和47年)、田中角栄の『日本列島改造論』がきっかけになり、日本は一時期、土木・建築を中心に景気が拡大しました。ところが、私が就職活動を始める頃には雲行きも怪しくなり、研究室に毎年きていた大手メーカーからの推薦応募枠も地方大学には回ってこなくなっていました。厳しい就職活動を強いられるなか、NTT(当時は電電公社)が四国で1名だけ採用するという話を聞きました。おそらく100名以上応募があったと思いますが、駄目モトで受けてみたところ、なんと合格してしまったのです。
当時、親に頼み込んでもらい、ツテで地方銀行の内定ももらっていましたが、工学部ということもあり、その時はあまり深く考えずにNTTに就職先を決めました。お世話をしてくださった銀行の役員には母と一緒に謝りに行きました。その人は快く「君のやりたいことをやったらいいよ」と言ってくださり、その後20年以上、お盆と暮れには欠かさず挨拶に伺いました。

就職(新人時代) 
~現場でビジネスパーソンとしての頭と足腰が鍛えられた頃

大卒・院卒含めて同期は約300人いました。
就職で初めて上京し、ラッシュ時の電車の乗り換えの激しさには衝撃を受けました。電車に乗るために、大人がホームを走っている姿には本当にびっくりしたものです。
生活環境の変化に加え、会社の中では、全国から集まってきている同期が優秀に見え、地元のなまりが残る自分に、自信をなくしたりもしていました。 NTTでは入社後の3年間は育成期間として扱われます。
最初の1年半は北海道北見の電報電話局に配置されました。徳島出身でしたから、出来れば暖かい九州あたりに行きたかったのですが、反対訓練というのか、冬はマイナス30度にもなるまったく逆の地域に配属になりました。
出身の徳島より小さな町で、夕方6時を過ぎると商店街のシャッターが下り始めます。遊ぶところも若い女性もいない町でしたが、その代わり仕事には打ち込めた環境だったと思います。現場に配属になったことで、実際の業務を色々と教えてもらったり、現場のリアルな課題なども見えてくるようになりました。 北見から戻ると、東京の研修センターで2ヵ月半カンヅメ状態になりました。グループをつくってそれぞれテーマが与えられ、報告発表の日が決められます。発表会まではタイトなスケジュールで、ほとんど寝る暇もなく作業したりメンバーと議論したりの毎日を過ごしました。発表会では本社から来た調査員、調査役の厳しい指摘なども受け、短期間にぎりぎりと鍛えられました。 集合研修の後は、交換機の保守・メンテナンスを行う本社の保全局に配属になりました。当時は電話交換機に不具合が起きると、制御ソフトのバグ潰しで一週間自宅に帰れないこともざらでした。当時、日比谷のビルの地下4階には湿っぽくてかび臭い仮眠室があり、夜通し仕事をした後、朝の3時か4時にそこに倒れこむと、お昼前に慌てて上司が探しにくることもしょっちゅうでした。
また、部署内では一番下でしたから、誰よりも朝早くオフィスに出勤し、全員のデスクの雑巾掛けをします。そして、出勤してくる順に上司・先輩にお茶を入れるのも私の役目でした。ある課長は出勤時刻が早かったので、当時住んでいた国分寺の寮をまだ夜も明け切らないうちに出なくてはなりませんでした。
その頃は、まだまだ電話の加入者が増えている時期で、仕事はたくさんあり、何でも楽しい時代でした。
私が30歳になる頃までのNTTは、真面目にやっていれば40歳になるあたりまで皆横並びでいける人事制度になっていて、ポストもたくさん用意されており、ある意味のどかで平和な環境だったといえます。

転機 ~マネジメントと目の当たりにした経済のパラダイムシフトの経験がその後の経営に影響を与えた

1985年の民営化とデジタル化の波でNTTも人余りとなり、リストラクチャリングしなければならない時代に変わってきました。
私の方は、30代になって部下が出来「マネジメント」の勉強をした時期でした。
電電公社時代はマネジメントではなく“管理”と呼んでおり、特に“労務管理”をすることが管理職の大きな役割でした。
30代の私が、自分の経験の中で「マネージャー」の役割として理解したのは次の4つのマネジメントです。
一つは「人的リソース」、二つ目は「お金」、三つ目が「時間(スケジュール)」、四つ目は「情報」。これらの要素を上手くマネジメントできる人材が、これからの管理職に求められることを身をもって理解しました。 30代の半ば過ぎ、九州支社のISDN推進室長で熊本に赴任しました。このときは、アプリケーション開発から設備対応、営業、お客様サポートまですべて対応しなければならなかったため、小規模ながらビジネスの流れというものを全部把握する良い機会となりました。この時の経験が、現在の経営というポジションにも大きく影響を与えていると思います。

会社設立 ~不退転の覚悟による逆境からの復活と時流をつかんだ新しいビジネスの立ち上げ

それから長距離事業本部・担当部長時代に、「マルチメディア通信の共同利用実験」プロジェクトへの参画を経験した後、固定回線に代るNTTの新しいビジネスを立ち上げる「マルチメディアビジネス開発部」に配属になりました。ここが、現在のNTTぷららの前身となる「ジーアールプロジェクト」との出会いでした。
1995年に企画会社として設立され、1996年に事業会社化した「ジーアールホームネット」は、eコマースで新しいビジネスを立ち上げるため、NTT、ソニー、セガ、ヤマハ、日本ビクターからの出向者による寄り合い所帯でスタートしました。資金的にもほぼ均等な出資比率で、NTTが発起人とは言え経営の主導権はあいまいで、間もなくジーアールホームネットは完全に舵を失った船のようになってしまいました。 1998年のある日、上司から「板東ちゃん、昼飯でも行かないか?」と電話がかかってきました。普段は「ちゃん」付けなどしない上司です。日比谷公園の中を二人で歩きながら、「ジーアールホームネットの社長をやってくれないか」と言われたときには、叫びそうになるのをこらえ、「私では力不足です。もっと能力のある方にやっていただいた方が・・・」と丁寧にお断りしたつもりでした。
ところが、翌日には正式な辞令が出てしまったのです。 辞令が出たからにはやるしかないと腹をくくったものの、調べてみると財務状況は債務超過で、毎月1億円の赤字を出している状態でした。
また、社長就任2ヶ月後には子会社を含めたNTTグループの再編の検討が本格的に始まり、そのなかで当社は清算の対象にされてしまったのです。
請われて社長になったのに今度は会社を畳めなど、こんな理不尽は二度と経験したくないと思い、この時から「自立主義」を貫くことにしました。会社の親子関係は人間の親子関係とは違います。厳しい状況になれば、親は非情にも子供を切っていくのですから、自分自身の足で立たなければ駄目だと思いました。
そのためには、出血を止めるしかありません。つまり、コストカットです。人的なものも含めて絞れるコストは徹底的に絞り、全社員が歯を食いしばって乗り越えました。
そのおかげで、半年後には単月黒字に転換し、社員の士気も変わってきました。 ちょうどこのタイミングで、当社の事業の1つであったプロバイダーサービスが日経ネットナビの顧客満足度調査で5位に入ったのです。
これを足がかりにして、当社と当社の社員は次々と実績と自信を取り戻していきました。
複数のマーケットリサーチ会社による顧客満足度調査No.1評価を連続で獲得し、2000年にはマイクロソフトのMSN会員の移管により大手プロバイダーの仲間入りも果たしました。また、プロバイダー事業での成果を基盤に次の柱としてIP電話、映像事業への投資など、当社はその時々に「変幻自在」に姿を変えつつ、こんにちまで市場のニーズと経営の必然に応えてきたのです。

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ビジネス美学

ビジネス美学

ビジネスは「伸びる」ところでやる -マーケット規模×伸びしろ-

狙うマーケットは大きいのか、そして今後の成長性・伸びしろがあるのか、あるとしたらどのくらいあるのかを考えます。 理想は、マーケットが大きく、今後も伸びしろのあるところです。最悪なのは、シュリンク(縮小)しているところでビジネスをやろうとすることです。

ビジネスとしてのGO/No GOに「期限」を切る

新しいビジネスをやろうとするときには、成功事例が少ないのは当たり前です。リスクが大きいということです。このリスクをマネジメントするためには、期限を切ることが大事です。
決めた期間の間に成長していれば、あるいは事業として見込めるところまで来ていれば、継続すべきでしょう。
しかしそうでない場合は、そのタイミングで「撤退するか」「ビジネスモデルを大きく転換するか」決断しなければならないのです。

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将来の夢

将来の夢

音声×データ×映像×ペーパー=トータルメディア企業を目指して

日本国内のブロードバンドのインフラは整ってきました。これに加えて、モバイルでのブロードバンドのインフラが整うのも、もはや時間の問題です。
当社はこれまで、ISPなどのインフラを中心とした接続サービスを中心に事業を行ってきました。もちろん、今後も基盤機能の性能向上、サービス向上は継続していきますが、一定以上の品質が提供できるようになった今、これからはインフラを活用したサービス、コンテンツを提供するビジネスに軸足を移していきたいと考えています。 NTTグループは、新しいビジネスの立ち上げはあまり得意ではなく、優秀と言われている人材は企画系や人事労務系で能力を活かしています。
しかし、当社は「ひかりTV」を成功事例のひとつとして、新しいサービス開発について出来ることは何でもやりたいと思っています。
幸い当社は、「音声」「データ」「映像」「ペーパー」すべてのプラットフォームを持っています。
ただし、当社1プレーヤーでは出来ることが限られてしまいます。時代は移り「ニューエコノミー」と呼ばれる今までの産業のカテゴリーに入らない企業も出てきました。これまでとは違うジャンルの企業と組むことも大いに可能性に入れ、将来的には「トータルメディア企業」を目指していきます。

「スマートTV」テレビを進化させていく

トータルメディア企業への次の一歩としては、「ひかりTV」の顧客基盤を活用した「スマートTV」が軸になると考えています。
日本のテレビは、1953年にサービスを開始してから1960年のカラー化までは目覚しい進化を遂げました。その後は、衛星放送が開始されたり、つい先ごろ2012年には地上波のデジタル化もありましたが、電波を受けて、チューニングし、画像にして映すというシンプルな機能は基本的に変わっていません。カラーテレビ以降の50年余りについては、あまり進化していないというのが私の認識です。
その一方で、90年代半ばの携帯電話の普及から現在のスマートフォンまでの進化は、わずか20年です。
さらに長いスパンで人間の歴史を振り返ると、「狩猟」を中心とした時代から「農業」が始まり、その後の「産業」革命を経て、「インターネット」が普及した現在に至るまで、コミュニティの形態は「家族」→「村」→「都市」→「?(今後)」と変遷してきています。
現在は、社会に対して個人がこれまでと違った影響力を持つようになってきました。この環境が進んだとき、私たちのコミュニティーはどのように変わっていくのでしょう。きっとここにビジネスチャンスがあるはずです。
その時流と芽吹きを「感じたら、走り出せ!」。
この本のサブタイトル「テレビもスマホと同様に進化する」に込めた私の想いです。

■取材チームからの一言

板東社長直筆サイン
板東社長直筆サイン

インタビューの最後に今回のご本へのサインをお願いしたところ、お名前と一緒に「守破離」と書いてくださいました。
「守破離」はご存知のとおり、武道など習い事のなかで師弟関係の進化を表した言葉です。
そう言われれば、大学の合気道部は2週間で辞めてしまったとおっしゃっていらっしゃいましたが、板東社長は武道の心得もある方でした。
また、本社エントランスには武田双雲氏の筆による「変幻自在」の書がかけられています。「守破離」はまさに「変幻自在」にいたる過程を見事に表した言葉です。NTTぷららは、「守破離」を経て、今に至ります。また、NTTグループ内におけるNTTぷららのポジショニングの変化そのものでもあるようです。
債務超過によりグループ内で清算の危機にあったジーアールホームネットは、板東社長のリーダーシップの下、厳しいコストカットも全社一丸で乗り越え、会社としての「型」を取り戻しました。
その上で、プロバイダー事業における差別化を進め、優位性をさらに伸ばすことでNTTグループ内に留まらず、日本有数のISP企業として、既成の型を「破」っていきました。ある意味ここまではインフラ企業としての変化・成長と言えます。そこからNTTぷららは、プロバイダー事業を基盤に映像事業に乗り出すことで、これまでにない新しいビジネスを創造し、運営する企業へと変化を遂げ、かつての型から「離」れていくのです。

板東社長直筆サイン

この後も、まだまだ、私たちには想像も出来ない楽しいサービスを生みだし、トータルメディア企業に向けた変幻を見せてくださるのでしょう。
厳しい修行を重ねて型を破り、型から離れたときに初めて、人も会社もブレーク・スルーしてきっと軽やかな身振りに変わるのではないでしょうか。「ハートで感じたら、走り出せ!」この本のタイトルが、まさにその境地を表しているように思います。

プロフィール詳細

プロフィール 生年月日 昭和28年11月23日
出身地 徳島県徳島市
血液型 O型
生活リズム 平均起床時刻 午前5時~午前6時
平均就寝時刻 午前0時~午前1時
平均睡眠時間 5時間
平均出社時刻 マチマチ
平均退社時間 午後6時過ぎ
自己流
ゲン担ぎ ツイている人、運を持っている人、話の面白い人とパートナーを組む
集中法 何かをする時は期限を定め自分を追い込む
リラックス法 毎朝、40度のお湯(お風呂)で20分間、身体を温める
健康法 毎日、30分間の腹式呼吸
休日の過ごし方 読書、ビジネスパートナーとの付き合い、イベント参加等
座右の銘 陰極まれば陽に転ず、陽極まれば陰に転ず
好み 趣味 ヨガ、読書、スポーツ観戦(格闘技、野球、ゴルフ)
好きなブランド 特になし、機能性重視
好きな食べ物 やはり和食が最高
好きなお酒 お酒は基本的に飲めない
好きなエリア 歴史を感じられる場所
好きな色 黒、紺系統
秘書(社員)から一言 【秘書 岩井コメント】
毎日忙しく飛び回っているので、体調管理には気をつけてもらいたいと思います。

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司馬 遼太郎 (著)

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パンセ〈1〉 (中公クラシックス) 

パスカル (著), 前田 陽一 (翻訳), 由木 康 (翻訳)


現代語訳 風姿花伝

世阿弥 (著), 水野 聡 (翻訳)

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ギリシャレストラン スピローズ

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